vendredi 4 novembre 2011

内なるモーター再び、あるいは永遠に繋がる



最近、「枠組み」 のお話を取り上げた。これに関連するのが 「内なるモーター」 だ。まだぼんやりしたイメージでしかないが、その存在の本質と矛盾せず、その存在と一体となり、その存在を動かすもの、とここでは言っておこう。これがなければ流れに身を任せるだけになる。存在の本質とは異なる方向にでも抵抗なく行ってしまう。それが嫌であれば、内なるモーターを意識して作らなければならない。その時に大きな分かれ道になるのが、内なるモーターが枠の中でしか働かないものなのか、枠から出て永遠に繋がるものなのかという点である。

前者の場合、枠がなくなればその本質的な存在は終わってしまう。一方、後者の場合には枠がなくなっても物理的な生がある限り動きつづけるだろう。その枠が広がり、どこかで絶対的なものとも繋がる深みに達すれば、そのモーターは最強のものになるだろう。換言すれば、枠の中でしか動かないものは真のモーターではないのかもしれない。

この存在を最大限生かすためには、枠があってはならないことになる。仕事のために生きるのでもない、趣味に生きるのでもない。生きるために生きるのだ。つまり、生きることを仕事にできるかどうかに掛っているような気がする。そのためには 「絶対」 に近いところを目指さざるを得ないだろう。最後までそこには辿り着かないからだ。

そのことに気付くには専門家を脱して哲学者にならなければならない。枠を超えるのを専門としているのが哲学者だからだ。生きるのを専門にするのも哲学者だったはずである。教育を考え直す場合、専門教育の前に一般教育を対象にしなければならない所以がそこにある。この認識が欠けているように感じるのは私だけだろうか。




昨日のこと、ギリシャで現世に戻ったのを機に日本のサイトにも立ち寄ってみた。そう言えば、昨日は文化の日で文化勲章授与式の日である。科学関係では柳田充弘先生が受賞者の中に入っていることを知る。領域が違うので深いおつきあいはなかったが、ほんの一瞬だけ接触があった。もう20年ほど前になるはずだが、イタリア北部のブレッサノーネ (Bressanone/Brixen) で開かれた会議でお話を伺うことがあった。その時の印象は普通の日本人と何かが違うというもので、わたしにとってはどこか心地よいものだった。その訳に思いを巡らせてみると、まず率直であること、そして日本人が設けがちな枠のようなものを感じなかったからではないかというところに辿り着く。あるいは、枠はあるのだろうが、それが大きな枠になっているとでも言えばよいのだろうか。その後にも言葉を交わす機会があったが、その印象は変わらなかった。今日のお話は期せずして枠つながりになった。先生には益々のご活躍を願うばかりである。



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