mardi 8 novembre 2011

ダライ・ラマ、あるいは正直さと欺瞞


緒形 拳 (1937-2008)


日本で開かれたダライ・ラマの会見(自由報道協会主催)を見た。まず気付いたのは、自分の周りにあるものに興味を示し、思いの向くまま振る舞っていたことだ。例えば、テーブルの花や通訳の方のネーム・プレートを手にとり触れてみたり、通訳が話している時に横の人と話してみたり。その場の常識、あるいは社会の決まりのようなものから自由なところがあり、人によっては別の感想を持つことになりかねない態度をとっていた。しかし、パリの庵から見ると、人間が生き生きとして外に開いており、そこでは生命の活力のようなものが激しく動いているようであった。むしろ会場の人たちの方が何かにがんじがらめに縛られているようで、少し可哀そうに見えたのは意外だった。

ダライ・ラマはこの会見で二つの目標を掲げていた。ひとつは、人間が本来持っているはずの他者に対する共感や同情という感情を取り戻すこと。二つ目は、異なる宗教間の調和により世界の平和を目指すこと。宗教家としては当然だろうが、道徳心や倫理の大切さを強調している。そして、こう指摘していた。
この現実が実はどのような姿をしているのかを正確に掴もうとすることが不可欠である。それがなければ、人は先に進むための判断ができない。政治、経済などの領域では、政府が正確な情報を開示することが必須になる。正確な情報さえ出せば、人は正しく判断できる。しかし、それが行われていないことが多い。
その上で、情報が出ない時こそメディアの出番だ、と会場の記者を叱咤激励していた。チベットの現状について二つの見方があるが、どう思うかとの質問に対して、まずその中に入り、自分で調査するように、と答えていた。調査の結果を基に自分で判断せよ、話はそれからだ、という至極当然の答えなのだが、それが実践されていないのだろう。


現在の問題として、事に関わる人から正直さが失われ、欺瞞が蔓延していることを指摘していた。庵から見える日本もその例外ではなく、欺瞞の空気が充満しているかに見える。今年に入ってからの状況は、その程度が想像を超えるところまできているのではないだろうか。情報を基に議論するということをしない上、出てくる情報も正確さに欠けるという状況が続いているところを見せられると、これが常態だったと疑われても仕方がない。実はこのことが日本社会や日本人から溌剌さを奪っている一つの要因になっているのではないだろうか。

お話を聞きながら、「こと」 を難しくしないで原理に基づいて単純に考えている姿に、ある種の感動を覚えていた。この世界と人間についての知に思いを致すことがなくなっていること。それが今の問題の根にあるというわたしの感触と共通する認識があることも確認していた。これから問題になるのは、そこを如何に変えていくのかというところに絞られてくるだろう。世界や人間についての根源的な知に辿り着くには、それぞれの専門の知に閉じ籠るのではなく、そこを出て、人間が全体で感応する知がベースになければならないだろう。専門と人間との間を行き来することの大切さを具体的に伝えることが、即効性はないだろうが、最も効果のあるやり方ではないかと考えるようになっている。


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冒頭の写真、こんなところに緒形拳さんが!と驚き、カメラに収めたもの。実はフランスのジャーナリスト、ギー・カルリエさん(Guy Carlier, 1949- )とのこと。国を超えて似た者同士がいることには以前から気付いていたが、その一例になる。お見通しではなかった方のために、情報の正確さとそれを支える正直な心について語った後には明かさないわけにはいかなかった。



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