samedi 1 février 2014

これまでのブログは 「純粋経験」 の貯蔵庫か


昨日のこと

九州大学の先生から Paul Paris 様宛にメールが届いた

来月開く予定のシンポジウムのポスターに、前ブログにある写真を使いたいとのことで驚く

それは、もう3年半前に帰国した折に撮ったCarl Milles(1875-1955)作の「神の手」であった

改めて記事を見直していると、あの一日が鮮明に蘇ってくる

この作品は九州大学にもあるはずだが、どうしてもブログの写真を使いたいという

メールにはその写真が全面を占める試作ポスターが添付されていた
 
 このような形で過去が蘇り、それを多くの方と共有できるようになるとは想像もしていなかった

誠に嬉しいお便りであった


その後、当時の他の記事にも目をやってみた

見れば思い出すが、普段は記憶の底に沈んでいたものばかりである

昔のものを読んでいる時、こんな考えが巡っていた

西田幾多郎が 『善の研究』 で論じている中心概念に 「純粋経験」 がある

詳しく読んでいるわけではないが、現段階でのわたしなりの解釈は次のようになる

この世界に生きている大人のわれわれは、主観と客観、主体と客体の区別をつけて世界と対峙している

 世界を見ている自分と対象としての世界がはっきり分かれている

分けて見るようになっている

対象をどう見るのかは、その時の判断に掛かってくる

それは視点や視野が限定されている可能性が高いからだ


しかし、この区別ができる前、あるいは区別を付けずに世界に対した時はどうなるだろうか

その時は、判断することなしにその中に入り、そのすべてを受け入れることができるのではないだろうか

そのようにして得たものは 「純粋経験」 と言ってよいのだろう

対象の全体を自分の中に取り込んでしまう
 
主体による先入見やフィルターなしに、あるがままを受け入れる

さらに言えば、そのものと一体になるという感覚だろうか

この場合、そこで得られた経験は色付けされない生の形でわれわれの中に残ることになる

そのため、それをどう見るのかは後で如何様にもなる

ある意味では、無限の意味を秘めた原材料がそこに残ることになる

それが純粋であるとすれば、無駄な経験などないことになる

「純粋経験」 なしに、この世界の理解には至らないということでもある


 翻って、これまでのブログに残されたものについて考えてみる

わたしが世界と対する時、「純粋経験」 が可能になる状態に近いところにいるように見える

それは意識していたというよりは、この概念に触れて振り返ってみるとそうであったということである

その内的状態のまま世界に身を投げ出すという感覚がある

まず写真だが、ほとんどの場合、自分を取り巻く世界を留めるために選択せずに撮っている

文章にしてもその時の判断はあるだろうが、世界の全体の反映である心象風景が残るようにしている

 このように見て行くと、これまでのブログが 「純粋経験」 の倉庫のように見えてくるから不思議だ

同様のことが、今その中を歩いているメモについても言えるだろう

解釈し再解釈することを繰り返す中から、将来何が飛び出すのかわからない楽しみを秘めた倉庫でもある


思わぬメールから思わぬリフレクションが羽ばたいたパリの週末である







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