mardi 11 février 2014

ハイデッガーの 『黒のノート』



今週のル・ポワンにハイデッガーの『黒のノート』(Schwarze Hefte)が来月出版されるという記事があった

二つの顔を持つ哲学者として最初のブログで取り上げたこともある

その時もル・ポワンの記事からであった


今回の 『黒のノート』 はハイデッガーが1930年から書き始めたもので、その公表を希望していた

そこでは、恐ろしいレベルにまで達している反ユダヤ主義が哲学にまで高められているという

以前の記事にもあるが、これまではどちらかというと類推や関係者の証言を基にしたものが多かった

そして、ハイデッガー主義者たちはご本尊の反ユダヤ主義を否定してきた

しかし、今回は1200ページにも及ぶ本人による著述なので、最終的なところに行き着く可能性がある


すでに検討した人の話によると、彼の反ユダヤ主義は疑いようがなく、悪意に満ち、有害でもあるという

ユダヤ陰謀論の立場を採り、ヨーロッパ文化のユダヤ化と闘うことを考えていた

ヨーロッパ文化とは、個人主義、理性主義、民主主義、科学的厳密さ、そしてユダヤ・キリスト教を含むものである

その上で、第二次大戦をユダヤ人に対する戦争と主張している

ナチスのプロパガンダと完全に重なるのである


国籍を持たないコスモポリタニズムは反ユダヤ主義者の一つのテーマである

ハイデッガーは、ユダヤ教は 「存在」 に行き着かないと考えていた

人間が世界内存在であるとすれば、世界を持たないものは人間どころか動物以下であるとしたのである

7年前にも批判的な立場を採ったエマニュエル・フェイ(Emmanuel Faye)は、検討の結果こう言っている 

「それは存在論や必然性、さらには運命論に帰する議論で、この本における省察の最悪の部分である」

今やアングロ・サクソンの国ではほとんど読まれていないが、フランスでは未だに擁護者がいるという


この記事を書いたロジェ・ポル・ドロワ(Roger-Pol Droit)は、こう問いかけている

これだけの証拠が蓄積していても不十分だと言うのだろうか?

更なる証拠を待たなければならないのか?

そして、21世紀の哲学はハイデッガーなしでできるし、そうしなければならない、と結んでいる



ところで、この記事には 「古代ギリシャ語とドイツ語でしか哲学することがなかった偏狭な傲慢さ」 という件がある

最近その傾向が顕著になっているという内にしか向かわない思考ともどこか通じるものを感じる

この流れに抗するためにも、外国語教育が重要になるはずである

単なる道具としての言葉ではなく、精神を開く上でも有効であるという視点で考え直す必要がありそうだ





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