dimanche 24 novembre 2013

英語世界の中のフランスを考える


昨夜ニューアークを発ち、今朝オルリーに着いた

ニューヨークでは何かに追われるような緊張の中、常に動き、前に進むことを強いられる

声が大きく、会話のテンポは速く、決然としていて、即断が求められるように感じる

こちらにはそれがない

そのためだろうか、少し引いてゆっくり思いを巡らすことができるようだ


医学哲学においても、テーマとその扱い方がアメリカとフランスでは明らかに違う

実証的で科学的に対象に迫るのがアメリカのやり方で、主観の関与をなくし対象を突き放してしまう

そのため、科学の発表と変わらず、出てくる冗談も科学者のものと変わらない

リタ・シャロンさんの "narrative medicine" などは、この中にあって異質に見える

フランスの場合には、実証的な研究もあるが、抽象的な思索に入る場合が稀ではない

観念論や形而上学的思索が許されている

これがアメリカでは興味の対象から外れ、フランスではよく知られている哲学者は読まれていないようだ


アメリカにいた時の感受性を思い出しながら、形而上学の含みのある発表を聴いてみた

そうすると、アングロ・サクソンの反応がよくわかるのだ

フランスの中に閉じ籠っているように感じさせるのは、フランスの哲学にとっても得策ではないだろう

アングロ・サクソンの枠組みの中で、如何にフランスの特徴を発信することができるのか

この発想がなければ、例外的な研究、マージナルな研究ということになりかねない

フランス語がわからなければ、その思想に触れることができないからだ

それほど英語的発想には圧倒的な力があり、それゆえフランス的な思考が重要になるはずである

アングロ・サクソン的やり方には欠けているものがそこにあるからである

これまでの発想を大きく変える必要があると感じた


6月にパリで同様の医学哲学の会議があった

その時はベースがヨーロッパだったので、このような現実的な切迫感はなかった

今回はほとんどがアングロ・サクソン的背景の中で行われた

そのためだと思うが、両者の落差が想像以上に大きいことを改めて感じる旅となった





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