mardi 26 novembre 2013

マンハッタンで読むアラン・バディウ、あるいは三つの哲学的状況


先日のニューヨークで入った書店で哲学書を眺めている時、この小冊子が目に入った

アラン・バディウ(Alain Badiou, 1937-)、スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek, 1949-)著

Philosophy in the Present (Polity; 2009)

バディウさんの言葉はよく入ってくるので、これまで何度も取り上げている

英語に訳された本が書架にたくさん並べられていることに驚いた

彼の主著 『存在と出来事』 (1988)が出たのは51歳の時で、英訳はその17年後の68歳の時である

バーンズ・アンド・ノーブルにも置かれていた

バディウさんは年齢とともに熟成を見せる衰えを知らない哲学者という印象が強い

哲学が時間のかかる営みであることを思い起こさせてくれる

もちろん、パスカルウィトゲンシュタインのような天才は別なのだろうが、、


この本は二人の哲学者の講演と対論を基にしたものなので、読みやすい

タイトルにあるように、「現在」に如何に哲学が絡むことができるのかについて省察している

以下に、バディウさんの言葉を


まず、哲学について間違った考えが蔓延っている

テレビでコメントしている哲学者のように、哲学者は社会のどんな問題についても語ることができると思われている

真の哲学者とは、自分が重要だと思う問題を決め、すべての人にとって重要な問いを出す人である

 そもそも哲学とは、新しい問題を創り出すことである

哲学者が関わりを持つのは、新しい問題を創り出さなければならないような兆候が見られた時である

世界ではいろいろなことが起こっているが、すべてがそのような時ではない

哲学が必要になるのは、「哲学的状況」 と呼ぶ状況がある時である

その状況を3つの例で説明したい


一つは、プラトンの 『ゴルギアス』 に描かれたソクラテスとカリクレスとの間の全く相容れない関係である

カリクレスにとっての幸福な人間とは、奸計と暴力で人民の上にある者

一方、ソクラテスにとっての真の人間、すなわち幸せな人間は、哲学的な意味における正義の人である

両者の間には、正義が暴力なのか、思想なのかの違いがあり、その間に橋は架けられない

対話は不可能で、衝突しかあり得ない

つまり、勝者と敗者しかないのである

この状況における哲学の役割とは何か

それは、どちらかを選ばなければならないことを明らかにすることである

哲学的状況とは、存在に関する選択が明らかになる時である


第二の例は、シラクサ出身の数学の天才アルキメデスの死である

第二次ポエニ戦争の時、シラクサはローマの将軍マルケッルスにより占領される

アルキメデスはレジスタンスに加わり、兵器を開発したりしていた

占領下のある日、幾何学の研究を継続していたアルキメデスは砂に図を描き、考えていた

その時、兵士が到着し、名を馳せていた人物に興味を持ったのか、将軍が会いたいと言っている旨を彼に伝えた

 しかし、彼は身動き一つせず、再度の要請にも答えず、計算を続ける

そこで頭に血が上った兵士は、彼を殺してしまったのである

これが哲学的状況になるのは、国家権力と創造的思考との間に相容れない関係があるからである

暴力により創造としての真理が簡単に消されてしまうからである

同様の例として、作曲家アントン・ヴェーベルンの死がある

彼は第二次大戦直後、アメリカの占領軍兵士の誤射により殺害された

事故ではあったが、哲学的状況に変わりはない

ここにも権力と真理との間に超えることのできない溝がある

哲学のミッションは、その隔たりについて省察し、そこに光を当てることである


そして、最後の例は、溝口健二の驚くべき映画 『近松物語』 である

その理由は、存在をひっくり返すような愛と社会の規範との間に相容れないものがあるからである

例外をどう考えるのか、日常の継続性と社会の保守性に如何に抗して考えるのかという問題である

哲学が大学の科目としてではなく、人生に何らかの意味を持つものであるために考えなければならない三つのこと

それが選択と隔たりと例外になる

そこから、この人生を意味あるものにするためにやらなければならないことが現れる、

出来事を受け入れ、権力から距離を取り、自分の決定に断固従うこと

そのことを理解すること、そしてそのことによってのみ、哲学が真に人生を変えることに寄与できるのである







Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire