samedi 14 novembre 2015

とんだ早とちり



この辺りはいつも静かなので、外の世界を推し量ることができない

そんな風には全然見えないが、都会の中の庵となっている

この静かな環境にかくも長きに亘って生活していたものである

昨日の出来事に対する反応なのか、夜、若者たちの大きな声が響く


ところで、学生生活も終わりが近づいている

昨日、論文審査に当たったイギリス人とフランス人のコメントが大学から転送されてきた

つまり、この判定が来るまではスートゥナンスがあるかどうかは未定だったことになる

ない可能性もあったのである

そのレポートには、未熟な論文に対する建設的なクリティークが書かれてあった

そして、スートゥナンスは開かれることになった


大体30分のプレゼンテーションをした後、3時間の質疑応答が予定されているようだ

当日、どんなことになるのか予想もできない

 これからの3週間、その準備をしなければならない

本当の最後だと思って、諦めるしかなさそうである





これからの世界をどう生きるのか

Près de nous
 Wolf Bröll (2010)


今朝、メールボックスを開けると日本からのメールが目に付いた

無事確認のお見舞いメールであった

日本のテレビ画面を見ていると、ショッキングなものに映ったのではないかと想像している


こちらに来てからは、テレビ・新聞のない庵暮らしである

世の中の動きには疎くなり、日本からこちらの状況を知ることが稀ではない

昨夜の事件も大使館からの連絡で知った

思い返せば、今年も同様の事件で幕を開けた

そして、今回の事件である

ひょっとすると、これは21世紀に特徴的な戦争の一形態になるのかもしれない


このような状況をどう生きるのか

政治には政治の役割があるだろう

それをわたしが考えても知的営みだけ、お題目だけに終わる可能性がある

寧ろ、日々何を考えて生きるべきなのか、という問いに向かう方が実効性があるのではないか

今回の事件の後では、いつ死が訪れるかもしれない世界にどう生きるのか、という問いに変容する

こう問いを立てることができれば、その答えは自ずと決まってくるのではないだろうか

いつ死んでも良いように生きること、とならざるを得ない

しかし、忘れがちなわれわれの生の本質とは、そもそもそういうものではなかったのか

そう気付く時、哲学の遺産が視野に入ってくる






dimanche 8 novembre 2015

パリから見えるこの世界 (34) ジョルジュ・カンギレムの考えた治癒、あるいはこの生への信頼



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ『パリから見えるこの世界』を紹介いたします

第34回 ジョルジュ・カンギレムの考えた治癒、あるいはこの生への信頼

医学のあゆみ (2014.11.8) 251 (6): 525-529, 2014

ご一読いただければ幸いです





mercredi 4 novembre 2015

クリスティーヌ・レヴィさんから 「日本人は何を考えてきたのか」 へ



どうしたことか、「21世紀のマルクス」というセミナー・シリーズの案内が届いた

今回はクリスティーヌ・レヴィさんが 「日本におけるマルクス主義とフェミニズム」について話すという

Christine Lévy さんはボルドー第3大学モンテーニュの日本文化の専門家

特に、フェミニズムと社会主義、平和主義に興味がおありの様である


活動の中に、NHKへの出演が紹介されていたので彼女との繋がりが蘇った

その番組を以前に観たことがあったからである
 
シリーズ「日本人は何を考えてきたのか」の第4回、「非戦と平等を求めて」~幸徳秋水と堺利彦~

セミナーには参加できないので、この番組を観ることにした







以前にも観た番組だが、内容は新鮮であった

これからは観たことは覚えているが、その内容は?という状況が続くのだろうか

特に印象に残ったのは、レヴィさんの「体制の外から発言するのがインテリ」というニュアンスの言葉

日本人の教授が、戦争という状況ではそのような発言は難しいと言っていたのとは対照的であった

「枠の中の思考」と「枠の外からの思考」という問題は、わたしのテーマにもなっている

つまり、枠の外に出てものを観み、考えることができるのか、という問題になる

それは哲学という営みとも深く関連している






lundi 2 novembre 2015

カミュの言葉からフランス生活を総括する



カミュの言葉に「思考が止んだところ、そこから表現が始まる」というのがあるという

この言葉をわたし流に解釈すると、フランス生活の全体が見えてくるように思った

例えば、先日纏めたテーズである

この場で何度も触れてきたが、最後まで筆が進まず苦しんでいた

そして、最後で最後の数時間で不可能と思われた纏めに一気に向かって行った

自分でも信じられないような異次元の世界に入っていた

これはひょっとすると最後の数時間まで考えていたことになるのではないか

カミュの言葉を読み、そんな考えが浮かんできた


さらに時間軸を長く取ると、フランス生活の流れが理解できたように思った

全体で8年に亘る時間の内、最初の7年ほどはこの世界に身を晒していた

カミュの言葉で言えば、思考していた

そこではどんなに努力しても表現には至らなかった

まだ体験すべきもの、思考すべきものがあると感じていたからだろう

そして、最後の1年で体験あるいは思考が一つの閾値に達した

この段階でやっと表現に向かって行くことができたのではないか

こう理解すると、これまでの生活がよく見えてくる

これ以外にはあり得なかったのではないかと思えてくる






dimanche 1 novembre 2015

8年を超えてループ状に繋がる



今日はToutsaint (万聖節)

今年も知らないうちにあと2か月となった

本日、日本にいる時の仏版ブログにコメントをよく頂いたASHITA様からコメントが入り、驚く

最近ナントに行った時の記事に対するもので、嬉しい驚きであった

ご本人はブルターニュ在住で、日本文化にも造詣が深いことはブログでも分かる


一つの終わりを控えて、その始まりにあったものとループ状に繋がったという感じがする

昔と繋がったことで益々「こと」の終わりを意識させる





samedi 31 octobre 2015

秋の週末、ニーチェの核に触れる



秋晴れの週末

午後から外に出た

今日は落葉と紅葉が美しく感じられた

写真にすると凡庸な景色に見えるが、主観的には至福を感じるものであった

その中に身を置くことで、景色が変わってくるのだろう

その感覚を思い出せるように掲げてみた


途中ル・ポワンを買い、カフェでニーチェ特集を読む

ニーチェの現代的意味がテーマになっている

最近、意識しているわけではないが、こちらでの生活の総括が浮かんでくる

その中で纏まりつつあるいくつかの塊がある

この特集で指摘されているニーチェの思想の核となるところと重なるものが多いのに驚く

わたしが関わったところでは殆ど意識していなかった哲学者なので、実に興味深い


読みながら、フランス語の習得を怠って来たつけがここに来て顕著になっていることにも驚く

よく理解できないのだ

語彙の不足がその原因になっていることは分かった

思い返せば、語学の勉強はしないことに決めてこちらの生活を始めた

アメリカの経験から、言葉の習得に集中すると考えることが疎かになることに気付いたからである

目を覆うべきフランス語しか身に付いていないが、最初の判断に間違いはなかったと思っている

今度はフランス語を学ぶ時が来ているのかもしれない




jeudi 29 octobre 2015

BBC "The Trouble with Tolstoy" を観る



昨日の関連記事を読んでいるうちに、もう少しトルストイの世界に浸っていたくなる

素晴らしいドキュメンタリーが見つかったので、観ることにした








mercredi 28 octobre 2015

トルストイの 『人生論』 を読む

 

先日、アンジェに向かう直前にトルストイの『人生論』を持って出た

アパルトマンの出口には書棚が付いている

そこに置いているのは、殆ど日本語の本である

外に出る前に、目に付いた本を手に取って立ちながら読むことがある

それが意外に深い印象を残すことに気が付いた

短時間だと分かっているからなのか、立って読むからなのか

いずれにせよ、その時の気分に合うものの場合、そのまま持ち出すのが習い性となった

問題の『人生論』は、数年前に帰国した折、古本屋で手に入れたものである

若い時に読んでいたのかもしれないが、記憶に残っていない

いつものように、いつの日か読むことになるだろうと思ったのだろう


これは多くの人が指摘しているが、所謂人生論とは一味も二味も違う

生命論や科学論(より正確には、科学批判か)から始まっているからである

それが今の自分にはよく入ってくる理由だったのかもしれない

以前にトルストイと科学者メチニコフの対比を取り上げたことがある


メチニコフはトルストイに深い尊敬の念を抱いていた

そして、科学こそ、病める人類を救い出す唯一のものであると考えていた

一方のトルストイは、科学ですべてが解決できると考えているメチニコフを浅はかな人間と見ていた

この視点の違いは、こちらに渡る前に自分が抱いていた疑問とも深く関わるものであった

 『人生論』では、なぜトルストイがそう考えたのかが力強く展開されている

やや執拗に過ぎるとも思えるが、彼の考えは手に取るように分かる


人生(生命)とは、人が生まれてから死ぬまでの間だとわれわれは考えている

しかし、トルストイはこの考えに真っ向から反対する

人間として歩み始めるのは、理性的な意識が生まれた時である

そう言うのである

まさに、人間として生まれるのではなく、人間に成るのである

意識の問題もこれまでに触れてきた

外界に反応するだけの状態は、一次意識に留まっている

その状態を振り返ることができるようになると、二次意識が現れたことになる

そのことを意識し、そこに理性を持ち込むことが重要になる

彼が言う「理性の法則に従属させる」とは、二次意識、理性を伴った内省の強化のことではないか

それが達成した時、時間と空間は消えるという

そこでは自分一人の幸福を求めることにはならない

そう考えるのは理性的ではなく、人生の目的でもないからだ

そう考えることができるようになった時、初めて人間に成る

そこから真の人生(生命)が始まると言いたいようである


途中までしか読めなかったが、トルストイの言いたいところは掴めたという感触を持った




トルストイ幻想 (2010-10-29)













mardi 27 octobre 2015

スートゥナンスが見えてきた



今週から冬時間が始まった

夏の明るい時間も好きだが、冬時間も捨て難い味がある


ところで、スートゥナンスの予定が決まりつつあるようだ

連絡によると12月初旬で、審査員の都合に合わせて最終決定されるとのこと

審査員は5名が予定され、内お一人はイギリスの方になる

一体どんなことになるのか、予想もできない


これまでは現実感なく、実際に見たのは2回ほど




振り返ってみれば、2年続けていずれも年の瀬に参加している

そして、今度は自分がその当事者になる

やはり、年の瀬に

何とも不思議な巡り合わせである




mercredi 21 octobre 2015

小さな旅の終わりに

La Fontaine du dialogue (Busato)


月曜にナントに行ったのは正解であった

昨日、今日と曇天

ゆっくりとアンジェの町を味わった

その時に見つけたリブレリーでいくつか仕入れ、カフェで読むといういつものリズム

体力の衰えを感じつつもパリとは違う時間を楽しんだ





昨夜はアンジェ在住の友人とディネ

テーブル席にある暖炉を料理用に改造したようなところで肉を用意してくれた

その時に竹の筒を使って火を強くしていたので、日本式に見えると言ってみた

すると、アフリカ式だと思っていたとの答えが返って来た





パリを離れて、パリ生活がよりはっきりと見えてくる

まず、今年に入ってからの生活を反映してか、体が鋳型に入ったようになっていること 

これは何とか解きほぐしたいものである

それから、いろいろと悩み迷いながらもかなり集中して「もの・こと」に当たっていたということだろうか

何もしていないように見える時でもそのことを考えているという感じである

こちらでは、リラックスしていてもそれが気にならない

パリでは、内からの力がそれを許さないようにしていたのではないだろうか


旅に出て、ちょっとした瞬間に感じることがある

見知らぬ町のカフェに落ち着き、何やら物思いに耽っている

それを昔の自分の目から眺めると、何とも不思議な図に映るのである

こんなところで何しているの、と問い掛けたくなる

そんな感じだろうか

しかし、主観的には何ら違和感はない

どこにいても我が家

どこかから離れているという感覚がなく、いつもこの世界の中にいるという安定感がそこにある

ディオゲネスが人類として初めて使ったというコスモポリタンという言葉を思い出す

この言葉を原義に近く、あるいはさらに広く考えると、Cosmos(宇宙)との一体感を示すものだろう

この感覚は哲学にとっても生きる上でも重要だと思うようになっている


明日パリに戻る









lundi 19 octobre 2015

ナントに足を延ばす



今日は朝から晴れ上がってくれた

アンジェからは30分程度だったので、お昼からナントに向かうことにした

ナントと言えば、最初のブログでいくつかの出会いがあった


この中で、「ナントに雨が降る」(Nantes)を取り上げている

バルバラを発見した時期である




それから、「熱狂の日」音楽祭はナントからの輸入である

「熱狂の日」音楽祭での出会い RENCONTRES A LA FOLLE JOURNEE (2006-05-04)

こちらでは2月頃に開かれるはずで、今回は時季外れ


今日は街中を2-3時間散策

植物園(Jardin des plantes de Nantes)では、秋の昼下がりを満喫

色々な工夫がされていた 

園内にはナント生まれのジュール・ヴェルヌ(Jules Verne, 1828-1905)さんの胸像があった


それから向かった美術館は残念ながら改装中、新しい形を得ることはできなかった

昨日までに今回の目的は達成したということなのだろうか
 






植物園入口 (Grande entrée monumentale)













植物園で貰った案内書を見ると、レ・マシーン・ド・リル(Les Machines de l'île)が出ている

以前にテレビで取り上げられていたのを思い出した

その中に機械仕掛けの象などが出ていたが、ひょっとして見られると思い、出かけた

しかし、殺風景なところで何もない

風も強くなってきたので帰ろうとしたその時、象が現れてくれた

どうということはないのだが、まるで図ったようなタイミングでいろいろなものが現れてくれる

不思議である


ブルターニュ公爵城 (Château des ducs de Bretagne)





9年の時を経て、ナントを訪問することができた

このような自然な巡り合いは何とも言えない

ナントの人口はアンジェの倍くらいで、中都市という雰囲気があった

残念ながら、ナントのロワール川は茶色に濁っていた
  
 アンジェの静かで落ち着いた雰囲気の方が今の好みには合っていそうである







dimanche 18 octobre 2015

夕暮れのアンジェ散策



今日の午後、明るい光が見えてきたので夕方散策に出た

メーヌ川に架かるヴェルダン橋を渡り、西岸から東岸を望む

サン・モーリス大聖堂(Cathédrale Saint-Maurice)が見える



ヴェルダン橋 (Pont de Verdun)





 サン・モーリス大聖堂へ向かう







古い家の装飾


ホテル近くのカルフールで


 兎に角、長閑な秋の夕暮れであった

ホテルに戻り、窓を開けると燃えているかのような落日に驚く

木が邪魔になってその全貌が見えない

葉の間から漏れる光を収めることはできたが、目で見たものとは違い過ぎる










アンジェ美術館、アンジェ城訪問



こちらに来てからの天候ははっきりしない

昨日はアンジェ美術館とアンジェ城を訪れた

今回の訪問では、再開したエッセイにぴったりの画像が得られないかということも考えていた

そのためか、いつもより真剣にじっくり観ていたように思う

土曜だというのに、アンジェ美術館を殆ど独り占め

至福の時を味わった


 ライオン像 (2世紀)
 

 Femme au cabaret (1896)
(Louis Valtat, 1869–1952)


美術館に隣接して、 ダビッド・ダンジェ(David d'Angers, 1788-1856)の作品展示館があった

前日歩いた時にも目にした建物がそれだった

こちらはドイツからの観光客が大勢いて、久し振りにドイツ語の中で時間を過ごす

パリで見たことのある像がいくつも現れて、あれはこの方の作品だったのかと、嬉しくなる


ダビッド・ダンジェ・ギャラリー


 美術館とギャラリーの両方で、エッセイに使えそうなものが現れてくれた

実は、昨日の散策でも驚きの景色に出遭うことができた

余りにも都合よくいろいろなものが現れるので、不思議に思っている人もいるようだ

しかし、一番不思議に思っているのは、このわたしではないだろうか

この二か所でバッテリーを使い果たし、次の写真を撮ることはできなかった




アンジェ城では、14世紀の壁掛け「アポカリプス」(La tenture de l'Apocalypse)を観る

一糸乱れぬ解説が1時間半

冷静にしてエネルギッシュという感じだ
 
美術館での3時間が効いたのか、途中から腰を掛ける状態

長い間の運動不足のためなのか、自然な流れに過ぎないのか

いずれにせよ、これからの問題にしたいところだ


終わった後、いろいろな方が質問していた

解説者は宗教的な解釈はできるだけ避け、中立を心掛けていた

聞いている人の中にはそれが不満で解説者に詰め寄る人も

わたしも聞いているうちに疑問が湧き、いくつか質問させていただいた

 もう少し知りたくなったので解説書を手に入れ、外に出た










vendredi 16 octobre 2015

アンジェ到着、そしてアンゼルム・キーファーさんの言葉




本日午後、メーヌ河畔の町アンジェに到着した

綺麗な駅である

モンパルナス駅から南西に1時間半

景色に目を取られることもなく、自然な移動であった

この町でどんな形が現れるのか、楽しみにしている



車内で読んでいたル・ポワンで、新しい芸術家の言葉に触れる

 その芸術家とは、ドイツ人のアンゼルム・キーファー(Anselm Kiefer, 1945- )さん

彼はこんなことを言っている

「わたしは敬意を表してすべてのものを保存します。魚を食べた時はその骨をとっておきます。

ボードレールは花やもの言わぬものの言葉について語りました。

これらのものはいつの日かわたしに語り掛ける可能性があるのです」


この言葉になぜ反応したのか

それは、わたしも自分の書いたものはどんな些細なメモでも保存するようになったからである

その心は、いつの日か新しい意味を持ってくることがあると感じたから

つまり、過去は現在によって常に新しくなるということに気付いたからと言えるだろう





jeudi 15 octobre 2015

久しぶりにゆったりした気分のリブレリー



今日は用事があり、街に出て少し歩き回った

このところ寒さが増し、わたしのようなコートなしは少なくなっている

久しぶりにゆったりした気分でリブレリーに入る

棚をじっくり眺めていると、このところ抑制されていた本にも手が伸びた

 まだすべては終わっていないのだが、束の間の休息というところだろうか


本日は、街のカフェからのアップとなった






dimanche 11 octobre 2015

パリから見えるこの世界 (33) 目的論は本当に科学の厄介者なのか、あるいは目的は最後に現れる



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 『パリから見えるこの世界』 第33回エッセイを紹介いたします

医学のあゆみ (2014.10.11) 251(2): 199-202, 2014

ご一読いただければ幸いです







vendredi 9 octobre 2015

9年後に種と枝葉が見える



7年前のブログからさらにその2年前まで辿り着いた

 当時、いろいろな方々とかなり深いやり取りがされていたことに改めて驚く

その記事とコメントを読み直して感じたことがある

それは、当時考えていたことがこちらでの生活の核になっていたということである

身近の意識からは消えていたのだが、大枠はその時に出来上がっていたように見える


種から芽が出てやがて枝葉になる

その種がこちらに来る前の数年で出来、こちらでそれが枝葉となっているという印象である

枝葉から種を想像することは難しいが、目を凝らせばそれが見えてくる

そうとも言えるだろう

 何事も形が見えてくるには10年はかかるということだろうか