今朝、ある考えとともに目覚める
久し振りだ
昨夜、日本に向け日本語の本を読んで寝たせいだろう
起きてすぐにメモにとっておく
関連する情報を昔のファイルから探す
結構眠っている
最早、外部記憶に頼るしかなくなっている
« Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)
「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ」(ポール・エリュアール)
「科学、哲学、政治、文芸批評、絵画などの分野において、誤解が実りをもたらすことを示したい。嘆かわしいのは誠実さや賢明さで、それらは退屈や予想できること、反復や言い換えにしか導かない。誤謬こそ幸福で、豊穣で、活力に溢れている。」
時間には、周囲とは関係なく過去から未来に向かって規則正しく流れるニュートンの絶対的時間とアインシュタインの相対性理論が唱える時間と空間が一体となり、空間の影響を受ける相対的時間がある。量子力学の世界ではニュートン的な時間が流れているという。ミクロの世界で有効な量子力学の理論とマクロの世界で有効なアインシュタインの相対性理論を統合する理論を求める営みがされているが、そこで問題になるのが時間であり、時間の消失が統合の一つの解決になる。バーバーさんも時間は存在しないという立場を採っている。
「いま」という時間を捉えることができるのかという問を出し、こう考えている。マクロの世界では、ある一瞬に大きな変化は見えないので今を捉えているように感じるが、ミクロの世界に入ると原子や分子、細胞に至るまで何一つ留まっているものはない。つまり、「いま」という一瞬を捉えることが極めて難しいことがわかる。一瞬たりとも同じわたしであることはないのである。「いま」という一瞬は一瞬であると同時に、そこでは何も変わらないという意味で永遠でもあるという。
一瞬一瞬はそれ自体で完結した世界であるという見方は、どこかに向けて進むモメンタムのないエネルゲイアに繋がるようにも見える(エネルゲイアをわれわれの生に取り込む 、2010-1-2)。どこかに向かう所謂仕事をしている人がその境地に達するのは非常に難しい。仕事を拒否してきたバーバーさんであればこそ、はっきりと理解できたであろうことは同じような境遇にいる今の私には容易に想像できる。また、一瞬のすべてが同時に存在しているという点で、量子力学の統計的にしか決めることができない世界、さらに言うと、すべての可能性が同時に起こっている世界とも共通点があるようにも見える。
これを日常の感覚で理解することは大変である。しかし、この地球が自転し、さらに太陽の周りを回っていることを日常感覚で捉えることができますか、と問われれば、ミクロの世界で起こっているとされるものを真っ向から否定することもできない。一瞬一瞬が閉じ込められた多くのスナップショットを示しながら、これらすべてがわたしの宇宙だと説明しているのを聞くと、全く考えられない世界とも思えなかった。
「この一枚の絵(新生児 Nouveau né)を見るためにパリから汽車に乗ってレンヌまで行き、さして大きくもない、タテ76センチにヨコ92センチのこの絵の前に立って、私はやはり来てよかったと思ったのであった。はじめにも言ったように、私は漠然とした関心をしかもっていなかったのであるけれども、現物の前に立って、やはり心を動かされた。キリストを心にもちながらも、新生児というものを医学的なまでにもレアルに描いているその嬰児像、目を伏せて見守る若い母親、それと右手をあげて蝋燭の光りをさえぎっている女との、この三つの存在をじっと見詰めていて私は、ああ人間が生まれるとはこういうことだったのか!とつくづくと思いあたったという思いにうたれた。」
堀田善衛 「美しきもの見し人は」(朝日選書、1995年)