jeudi 1 septembre 2011

この世界に身を晒し、その反応を見る


L'Age d'or
(vers 1938-1946)
André Derain (1880-1954)


もう9月に入った。数字だけ見ていると、時の経つのは驚くべき速さだ。今年は一体何をやっていたのだろう。すぐに答えが出てこない。


昨日、この1年を振り返るためにメモを読み返していた。丁度そのノートは10月にカナダであった会議の様子から始まっていた。内容は結構詰まっている。読みながら、こちらに来てからのわたしの存在様式は、この世界に開いた受容体としてあったのではないか、と改めて思う。これまで閉じていた受容体を働かせ、その前を通り過ぎるもの・ことを受け入れ、処理し、記載していた。そこにはこれまで見えなかったこの世界の像がある。これまでに見ていた世界を補完する新たな視線がある。

もし、事を選ばずに記載されたそのメモがなければ、これまでに触れたものは何もなかったかのように風の中に消え去っていただろう。わたしの記憶容量を遥かに超える情報を目の前にし、確かに生きていたことに驚く。しかし、それは思い出の記録として残したものではないはずだ。そこから何かを引き出し、経験にするためだったのではないか。これまでは日々現れる新らたなものに触れることに費やされ、何かを生み出す可能性を孕んだ原体験に戻る時間が取れなかった。どうだろうか。これからの1年くらい、受容体を休ませ、情報を処理し直すことに当ててみては。そんな考えが浮かぶ。どうなるのか。それはいつものようにわからない。




Promeneurs dans un parc
(1900-1910)
Henri Julien Félix Rousseau (1844-1910)


ところで、まだオランジュリーの残り香を味わっている。写真を見ながら感じるのは、実物に触れた時に生れた自分の中の反応を再現するのは難しいということ、そしてそれ以上に、日頃画集などを見ている時には予想もできないような反応がその場では起こるということだ。よもや睡蓮の部屋で浮遊感を味わうなどと、誰が想像しただろうか。もう一つ今回感じたのは、味わうのはその絵一枚ではないということ。もし、シャイム・スーティンの絵が一枚だけだったなら、あれほどのエネルギーを感じただろうか。また、その絵が置かれた部屋の空気、光や色も大きな要素だ。そして、その周辺に何が置かれているのかでも印象はガラッと変わってしまう。アンドレ・ドランの絵は、それまでの流れとの差として目に飛び込んできたからだ。


引き籠りがちな気持ちを押しのけ、日常を抜け出し異なる場に身を置くこと、実物のある空気に触れることが大切になるのだろう。そこでは何が起こるのかわからない。それが面白いところだ。その時に生れる反応を注意深く観察し、それを経験にまでできると新たなところに繋がるのかもしれない。



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