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samedi 3 août 2013

何のために、誰のために哲学するのか


7月上旬、モンペリエで "ISHPSSB 2013" に参加した

International Society for History, Philosophy and Social Studies of Biology の隔年の会である

その中に、3月に出た本についてのラウンド・テーブルがあった


主題とは直接関係ないが、印象に残る編者からの問い掛けがあった

モントリオール大学の哲学者フレデリック・ブシャール(Frédéric Bouchard)さんの発言である


科学者ではない哲学者がどういう立場で哲学するのかを明確にしなければならない

逆に言うと、一つの問題を論じる時にその立場が自ずと明らかになる

つまり

生物学に何らかの貢献をしようとして哲学するのか

生物学の現場とは関係なく、自らの興味に基づいて哲学するのか

生物学を哲学するのは形而上学への問題提起を探るためなのか

生物学の哲学の存在意義をどこに見ているのかを考えよ、ということである


これは科学にいた者にとっては至極当たり前の問いになる

科学者が哲学を敬遠するのは、そこで何が行われているのかわからないことがある

たとえそれがわかったとしても、科学に役に立つのかという疑問が付いて回る

哲学など頭になくても科学者としては十分にやっていけるというのが普通の受け止めである

それ故、哲学をどういう立場でやるのかを問うことなしに科学にその必要性を説くことは不可能だろう

生物学者に対する哲学教育をどう考えるかという問題とも直結してくる

意外にも、科学者への教育は哲学の側の盲点になっているというのが今回の会での印象であった


いずれにせよ、これらの問い掛けは何も生物学の哲学に限らず、あらゆる分野で求められることなのだろうが、、、





vendredi 12 juillet 2013

バンケットでの遭遇から

Prof. Marion  Blute (Univ. Toronto)


昨日も暑い日だったが、これまでに比べると凌ぎやすかった

夜、自然の中でのバンケットがあった

学会場の大学からバスで郊外の公園に向かった

飲み物を取り、テーブルを探しに歩き始めた時、どこかでお見かけした顔が現れた

トロント大学名誉教授で社会学の専門家マリオン・ブルートさんである

もう3年前になるが、カナダの学会でお会いして以来になる


その後、彼女の若き日の未発表の論文原稿などを送っていただいたこともある

最近の成果として、Darwinian Sociocultural Evolution (Cambridge UP, 2010) を紹介された

とにかく話題が豊富で、どんな話にも食付いていき、切れ味鋭く反応する

しっかりこの世界を観ていて、皮肉あり、辛辣さありで話していて飽きない

そのテンポの速さに付いていけないこともある

今は好きなことを好きな時にやればいいのよ、天国!

その気持ちがよくわかるようになって久しい

お年を感じさせない知性である


ところで、わたしは科学をやってきたので、科学では見えない世界に興味があるのだが、と水を向けてみた

形而上学的世界にどう反応するのか興味があったからだ

その返事は、そんなもの相手にして時間の無駄ではないですか、というニュアンスで肩を上げた

われわれはみんな唯物論者なの、ということで、予想通りの返答であった


 Marion さんと Julie-Anne Gandier (Univ. Toronto) さん


テーブルではお若い女性が待っていた

同じトロント大学で科学の大学院3年目だが、ブルートさんとは初対面

ワインの影響下にあったが、構造生物学の専攻と記憶している

カナダでは稀でない英語とフランス語のバイリンガルである

お話を伺っていると、わたしの精神遍歴と似ているのに驚く

これからは科学と哲学を絡める方向性を考えていて、可能であれば哲学を並行して学びたいという

本来は哲学に進みたかったようだが、親の希望もあり科学に入ったが、ここに来てそれが蘇ってきたとのこと

自分をしっかり見つめ、真面目に人生に向き合っていて好感が持てる

その語りは鋭いのだが、どこか余裕と愛嬌と若干の皮肉がある

 しっかりとした若者が育っていることを感じる

気持ちの良い出遭いとなった


この夜、お二人のカナダ人の話を聞き、普段の語彙の中には入っていない 皮肉という言葉が浮かんできた

大きな強い国の隣にいると自然に生まれてくる特徴なのだろうか

カナダについてそんな考えが浮かんだのは初めてのことである

その昔、ハンガリーであった会議のバンケットで旧東ドイツ出身の科学者と席が隣りになったことがある

彼は、共産主義政権下での日常を強烈な皮肉を込めた笑いの中で延々と語り続けたのである

まともな頭の中ではあり得ないような理不尽なことが、恰も正しいことのように行われている社会

それを聴き、わたしも腹を抱えて笑い続けたが、まさに悲喜劇の世界である

現代においても進行中かもしれないこの悲喜劇

皮肉というものは精神の健全さを示すものだろう

ただ、それを外に出せるようになるのは、彼の場合はすべてが終わった後であった
 


前回のカナダ訪問の時もアメリカとの違いが気になったので、ジュリー・アンさんに訊いてみた

「カナダとアメリカに違いはあるのですか」

 その答えが振るっていた

「全然違います。第一、カナダ人はアメリカ人ではないのです」

言葉も含めていろいろな違いを挙げていた

マリオンさんが指摘していた二つの大きな違いには、納得するものがあった

一つは、コミュニティを支えるような形で国が関わるかどうか

そう言えば、以前に観たマイケル・ムーア監督の『シッコ』でも医療体制が両国では雲泥の差があった


そして、二つ目は銃規制だという

相手の国の社会をしっかり見て、はっきり語る明晰さがある

カナダは住みよい国という愛国者の結論で、この話題は終わりにした


 Prof. Giovanni Boniolo (Univ. Milan)


4時間ほどのバンケットも終わり、帰りのバスに乗り込もうとしたその時、呼び止める声が聞こえた

わたしを呼び止める人などいないはずなので、再び驚く

よく見ると、先月パリであった「医学の哲学」会議(IASPM 2013)で初めてお会いしたジョヴァンニ・ボニオロさんではないか

よもやこんなところで、という感じだった

彼も理論物理学から始めて哲学に入っているので、考え方の方向性が似ている

その基本は、純理論に流れることなく、科学の方を向いて仕事をしていることだろうか

そのため、意気が合うのである

そして、葉巻をやられることは今回初めて知った


長い一日であった

そして、長かった会議も今日で終わる




mercredi 10 juillet 2013

猛暑のモンペリエ、思考法の体得について考える


密な話が詰まっている会議も4日目を迎えた

暑さの中、疲れが溜まっているようだ

会のお話に飽きた時、周囲を見回して新鮮に見えるものを探す

今日は上を見上げるとこの景色があり、美しいと感じた

写真にすると、その感動は薄れてしまうのだが、、、


ところで、昨日のコーヒー・ブレイクでのこと

向こうの方から笑顔で近づいてくる人がいる

このような会では、基本的に知り合いはいないというのがわたしの常識になっているので、驚く

2年ほど前にパリの研究所でセミナーをされた方で、わたしもディスカッションに加わったので覚えていたのだろう

ご出身はポーランドで、セミナー時の所属はミラノだった

今日の朝のセッションで話すので、聞きに来てほしいとのことだった

抄録集を見て驚いたが、今は中国の大学で教育・研究をしているという

生活に困らないか訊いてみたが、大学内では皆さん英語を話すので問題ないとのこと

街中では問題はあるのだろうが、、

同じセッションで話をしていた女性はインド出身で今は韓国、もう一人はフランス人でパリ、イギリスを経て今はジュネーブ

人がダイナミックに動いているのを見るのは、気持ちがよい 



アジアに入ってきている外国人研究者を見て、いろいろな考えが巡っていた

彼らの話を聞いていると、日本人の思考と明らかに違うことに気付く

 それは、一つの理論、あるいは大きな枠組みの中で個別の現象を説明しようとする精神の働きが顕著なことである

そのような発想をする日本人は極めて少なく、われわれが苦手とするところである

 個別の現象を並べているだけでは、彼らとの議論にはならないだろう

現象の上にあるレベルでの議論になるからである

確かに、日本的な発想には特徴的な要素があり、その重要性は否定できない

ただ、世界の人が一つに集まる場では、彼らの思考様式の下に進めなければ議論に参加できない

その意味では、若い時にそのような考え方を彼らから直に学ぶ機会が必要になるだろう

今、若い人が外に出たがらないということを聞いている

日本人の存在感を高めるためには残念なことである

外国語の習得というレベルではなく、彼らの思考法に触れ、使うという点で

そのような日本であれば、大学が積極的に外国人を登用することは無駄ではないだろう

今回、欧米で教育を受けたと思われる若手日本人の発表も聞いたが、彼らは全く問題なく「こと」を進めていた

日本的な発想を捨てるのではなく、その上に西欧の思考法を持ち込むこと

それができると、彼らの世界に新たな風を吹き込むことも不可能ではないだろう

この問題についてはもう少し深める必要はあるが、大きな方向性に関しては変わらないような気がしている



午前のセッションが終わり、街中に出るべく急な坂道を登り始めた

暫くして不思議な気配を感じ取り、戻ってみるとこの景色

熱にやられボーっとした頭が、普段は見逃すものを捉えることがある、、、ということだろうか

今回の会議のピークは早い時期に過ぎたという感覚がどこかにある




mardi 9 juillet 2013

ずいぶん遠くに来たものだ


昨日の会話の中で、タウバーさんの口を衝いて出た言葉を思い出し、今日のタイトルにした

ご自身はボストンで長く研究され、わたしは若い時にボストンで2年ほど過ごして今パリにいるからだろう

それと、対象としている領域が大きく変わっていることも重なっているはずである


実はこのように言われたことは、これが最初ではない

大学院時代の研究領域から何度か領域を変えているからだと思う

同じ言葉を聞いたのは、最後の研究領域にいた時のこと

大学院時代は同じ領域で研究し、その時には領域の主になっていた先生と新幹線でばったり顔を合わせた

そして、わたしの現況を話したところ、この言葉が返ってきたのである


それから、研究する場所も何度か変わっている

その都度、研究内容も変わっていたようで、新しい領域の皆さんにとっては新顔になる

そのため、以前はあそこにいたのですか、と驚きの反応が返ってきたことがある

ある意味では、何度か生まれ変わっていたと言えるのかもしれない

今はおそらく、これまでにない変容の時と言ってよいのだろう

外から見た時には

しかし、これまでがそうであるように、自分の中では自然な流れなので、それほどの意識はないのだが、、、






lundi 8 juillet 2013

もう一つの再会、あるいは米仏思考比較と貴重なサジェスチョン


会議は2日目を迎えた

それにしても大変な時に来てしまった

本日も快晴で、35℃を超えたとのこと

予報では連日この調子のようだ

それでなくてもボーっとした頭の中が、熱のため完全にやられっぱなしになるのだろうか

ヴァカンスで来るところのようである


ところで、朝のコーヒー・ブレイクでアルフレッド・タウバー(Alfred Tauber, 1947-)さんと話ができた

こちらに来た翌年の2008年、パスツール研であったメチニコフ・シンポジウムで初めてお会いした

その後、イスラエルの学会で再会し、似たような経歴の人間に興味をお持ちのようであった

タウバーさんは免疫学の研究をしている最中に哲学を始めているので、大先輩になる

わたしの方は、その世界は視野に入っていなかったか、視野から排除していた

ボストン大学を3年前に退職した後も研究を続けているエネルギッシュな方である

 自己・非自己の科学からフロイトに興味が移ったとのことで、最近出した本を紹介された

Freud, the Reluctant Philosopher (Princeton University Press, 2010)

 年内にもう一冊予定されているとのことであった



会話は実に面白い方向に進んだ

まず、わたしの姿を見て、まだここにいたのかという感じで、それはどうしてなのかと訊いてきた

フランスの空気に感じる自由なところが居心地がよいのではないか、というような答えをした

そして、うまく言えないが、その自由はアメリカとは少し違うように感じていると付け加えた

そうしたら、そこのところをどうしても説明してくれ、という

それに対しては、留学についての対談でも触れたように、枠のあるなしでその自由さの違いを説明した

つまり、アメリカの場合には、最初に大枠が決まっていて、その中では自由に考えることができる

その大枠は、具体的な成果を齎すことを前提に作られたものである

役に立たないものを最初から排除する思考になる

それに対して、フランスで感じたのは、その枠さえもない完全にフラットなところから考え始める自由であった

科学を進める上では、アメリカ的な思考がより有効になるだろう

しかし、科学では説明できない領域に入って行こうとする時には、目的に向かう思考は邪魔になる

わたしの場合には、すでに科学をやっているので後者の思考に興味があったから、というような答えをした

フランスの場合には、後者の思考により寛容であるように見えたのである

アメリカ的世界ではその曖昧な領域が捨象され、存在しないものとして扱われているように感じるのである

 それに対しては反論はなく、黙って聞いてくれていた

それほど的を外していないのか、儀礼的な沈黙であったのか


それから、話題はわたしの研究の現状に入って行った

大枠を説明したところ、わたしの性向などを考慮に入れた実に興味深いサジェスチョンをいただいた

ひょっとすると、この出遭いのためにモンペリエまで出向くことにしたのではないか

そんないつもの思考回路が回っていた


今は炎天下の白昼夢でないことを願うばかりである




dimanche 7 juillet 2013

会議初日でいくつかの再会


今朝はゆっくりと一日を始める

午後からホテルを出て歩き始めたが、とにかく暑く、汗が噴き出してくる

今見たところ、35℃になっていたようだ

近くの公園でゆっくりしてから会場になっているモンペリエ第1大学に向かった

マスターの時に一緒だった何人かに受付で会う

開会講演ではモンペリエの医学について歴史的な話が出ていた

3年前の経験をもとにモンペリエの生気論についてエッセイも書いているので、不思議な繋がりを感じる

 


会が始まる前、バルテ(Paul-Joseph Barthez, 1734-1806)さんとの再会を果たす

今回は、その人間が浮き立ってくるように感じられた

カクテルは、1593年開園のヨーロッパで2番目に古いとされる植物園で行われた

そこで、モンペリエ大学ポール・ヴァレリーのパスカル・ヌヴェル(Pascal Nouvel)さんと再会

パスカルさんとは3年前の会で初めてお会いし、上のエッセイでも取り上げた方になる

モンペリエ2日目  (2010-06-19)

今回のオーガナイザーもされている

そこにパリの研究所を引退された方も加わり 、気持ちの良い会話ができた

その方が指摘していたアメリカとフランスの自由の違いは、わたしが感じているところと通じるもので、嬉しくなる

また、もう70歳になる人について、彼女は esprit clair だから、という表現で評価していたのが印象に残った

その意味するところも次第に分かりつつあるように感じている






samedi 6 juillet 2013

モンペリエ到着


今日は久し振りの快晴で、兎に角暑い日であった

3年振りのリヨン駅に着くと、新しくなった構内はこの景色

完全にヴァカンスの空気が流れている

生物学の歴史、哲学、社会学に関する国際会議の様子を見るため、先ほどモンペリエに着いた

もう3年前になるが、「医学の倫理」に関する国内会議のために訪れ、多くの出会いがあって以来になる

前ブログに、その記録が残っている(モンペリエ


今回の会議はこの領域のメインになるようだが、最後まで参加するかどうか決めかねていた

しかし、先日の「医学の哲学」会議でいろいろな方と話しているうちに参加に傾いた

 今回は、どのような出来事が待っているのだろうか


ところで、日本語ではモンペリエと記載されるが、フランス語ではモンプリエに近い

これまで、そう発音するのが恥ずかしかったが、もうその恥ずかしさはなくなっていた

それだけ長くなってきたということだろうか

フランス語を遅く始めたためか、フランス語らしい発音をするのがなぜか照れくさいのである

その感覚のためだろう、何とも形容し難い発音とアクセントのフランス語になっている