jeudi 31 octobre 2013

遠くからパソコンに手を突っ込まれる



先日ソフトを買ったが、インストール時に問題があることがわかった

しかも、日本語とフランス語のパソコンで違う症状が出てしまうのである

例えば、日本語ではインストールはできるが、ワードが使えなくなる

フランス語の方では、そもそもインストールができない

しばらく、メールでやり取りしていたが埒が明かず

今日、その様子を見てくれることになった

メールには、prise en main à distance とあった

遠隔であることはわかったが、今一つイメージが湧かなかった

そのやり方は、今ではこうなっているのかというもので驚く


TeamViewer というのを使っていた

電話が掛かってきて、こちらのパソコンに入るためのIDとパスワードを伝える

そうすると、まさに相手の手がわたしのパソコンの空間に入り込んでくるというイメージである

お互いに電話でやり取りしながら、共に問題の個所を探し、解決法を見つけていくというもの

 その気になれば、お互いの作業を邪魔し合えるという不思議な関係が生まれる時間であった

問題はフランス語の方で、パソコンに入るためのIDやパスワードも出てこない

 それはうまく行った日本語の方からソフトを移すことで切り抜けた

まさに共同作業である


外はバルコンの工事

こんな時に限って壁に穴をあける轟音が響いている

それでなくても専門用語の多い会話なので、意思疎通が大変

兎に角いろいろなことをやり、二つのパソコンの問題が片付いたのは一時間半後であった

今日はこれで一仕事終えたような気分である


出張料も掛からず、部屋の掃除をする必要もない

少しの間覗かれているという感覚はあるが、なかなか良いやり方だという印象を持った





mercredi 30 octobre 2013

Autumn in Paris、Essays from Oxford、そして歴史研究とは



昨日は用事があり、大学へ

数日前、以前にお会いしたオックスフォード大学の科学史家ピエトロ・コルシ教授にお願いを出した

わたしが書いているエッセイに写真を載せたかったからである

その返事が二つの新しい論文とともに届いた

早速カフェでお礼のメールを出し、その論文を読む


読みながら歴史研究の大変さを想う

専門家にとっては当たり前のことになるのだろうが、実践は別だろう

まず、その時代の状況をできるだけ詳しく調べ上げること

これはどれだけ詳しくてもよい

一般に取り上げられている人や出来事を超えて史実を集めなければならない

その上で、今の価値基準と判断を捨て、その当時に身を置いてすべてを見直すこと

そして、今まで言われていない新たな解釈を加えること

やはり、長い間研究されてきた方の書くものは違う

その姿が隠微で、自分の中になかった景色が現れる


帰り道

何度も通っている道だが、初めて上のプレートに気付く

 これまでどこを見て歩いていたのだろうか








Hommage à Charlie Parker




mardi 29 octobre 2013

「その全体として」 という感覚


先日の「旅の中の旅」との連想なのだろうか

昨夜、こんな想いが巡っていた


こちらに来た当時の願いの一つは、それまでの時間を振り返ることであった

動きの中では難しいことを知っていたので、何もしない時間が欲しかったことになる

あれから6年が経過し、安定期に入ってきたのだろう

気持ちが落ち着いてきた

そうすると、今度はこちらに来てからの時間を振り返りたい願望が出てくる

生の全体を振り返るのはもう少し先になるのだろう

そうではなく、頭の中で起こったことをその全体として確認しておきたいということになる

これほどじっくり観察、記録したことは、これまでにない

だからこそ、残されたメモの中に何かが現れているのではないかという期待があるからだ

「その全体として」、これがキーワードになる

これは個人の歴史だけではなく、人類の歴史に対する時にも考えていることである

われわれが持っているものは、人類の遺産それしかないという感覚

その全体の中で考えるという志向

この動きは、こちらに来てから生まれたものになる




lundi 28 octobre 2013

今年もすでに冬時間


昨日から冬時間になった

昨夜は荒れ模様だったのか、道には枯葉の吹き溜まりがあり、折れた枝が散乱していた

午後から用事があり、街に出る

風は出ていたが、寒さはまだ感じない

問題が解決するのかと思いきや、また出掛けなければならなくなるかもしれない

 帰りにリブレリーに寄る

求めるものはなかったが、目に付いたものを手に入れる






samedi 26 octobre 2013

旅の中の旅

Alex Confer


本日は曇り

ただ、寒さはまだ感じない


この人生は大きく見れば旅である

しかし、この秋あたりから、それまで感じていた旅の途中という感覚が消えている

ここに落ち着いているという感覚に変わっている

何かを急いでやらなければ、という以前にはあった気持ちが消えていることからも、それがわかる


今回のフランスは、6年目までは旅先にいるという感覚で、7年目からそれが消えてきたことになる

若き日のアメリカでは、7年目に入った時に一つの可能性について考えていたことを思い出す

不思議な一致である

異質な環境におけるわたしの生理を見るようでもある


 後で振り返ってみれば、この期間もやはり旅の一部だったことになることは明らかなのだが、、、








jeudi 24 octobre 2013

やっと働いた理性?


今朝は滞在許可証を更新するため、早くから出掛ける

いつもは長蛇の列なのが、今日は閑散としている

一瞬どうしたのかとも思ったが、少ないのに越したことはないと考えていた

窓口に行って分かったことは、9月1日から予約がネット経由になったこと

なるほどと納得する

以前の混雑を考えると、もっと早く理性を働かせてくれてもよかったのではないかという思いである

こちらでよく経験することではあるのだが、、、

予約を終え、今日の予定はすべて終わったような気になる

落ち着いたカフェからのアップとなった




mercredi 23 octobre 2013

連夜のソルボンヌで音楽を聴く


連夜のソルボンヌになった

馴染の無い領域のセミナーへ

比較的若い方が原稿を読むスタイルでやっていた

これにはなかなか馴染まない

音楽を聴くように時を過ごす


日本の文系を知っているわけではないが、セミナーの形がしっかりしている印象を持った

変に馴れ馴れしくなったりしない

落ち着いているとも言えるのだろう




mardi 22 octobre 2013

久し振りのソルボンヌでマスターの時を懐かしむ


夕方、用事があり、街に出る

メトロを出ると、道路で本を売っている

以前にもやっていて、その時は掘り出し物を見つけた

時間に余裕があったので、何かないかと暫しの時を過ごす

今日も3ユーロの掘り出し物が3冊現れた

なぜかわからないが、新品が7-8割の値引きになっている


気分よく用事を終え、どうしようかと思っていた読書会に出てみることにした

久しぶりのソルボンヌへ

主宰者は、院生かポスドクのようである

彼らのトレーニングの一環と言ってもよいのだろう

電燈が灯る教室で、何やら聞きなれないフランス語を耳にしていると、懐かしい気分になる

すでにマスターの時を懐かしく思い出すようになっている

マスターの当時、最初の学生時代を懐かしく思い出していたことを思い出す

当時と比べると、今日の懐かしさは比較にならないのだが、、、

そして、僅か6年前だが、その懐かしさを最早再現できなくなっている



lundi 21 octobre 2013

丸山健二文学賞宣言2013




宣言文



どこからここに至ったのか、今思い出せない

文学はほとんど読まないので、その現状はわからない

ただ、遠くから見える日本の現実、その中にいる自分のある部分に矢を放っているかに見える

そう思い、アップしてみた





dimanche 20 octobre 2013

決定論の下にいるわれわれの生き方、スピノザさんの解


今日、カメラを持って出るかどうか迷った

しかし、何があるかわからないということで結局持って出ることに

アパルトマンを出てしばらくすると、小さな生き物が目に留まった

このためにカメラを持って出たことがわかる


このブログのサブタイトルは、ポール・エリュアールの「偶然はない。あるのは約束された出遭いだけだ」

この世界の出来事はすべて決められているという含みがある

ものの見方にはいろいろあるが、これは決定論の世界になるだろう

17世紀オランダのスピノザという哲学者の考えもこの世界であった

自然現象と同様に、人間も決定論の下にある

そこでは人間の自由意志はない

彼は、この世界には一つのものしか存在しないと考えていた

神も自然も、物質も精神も同じものだと考えていたのである


その中で、われわれはどのように生きるべきなのか

それは決められた運命に身を任せることではない

そうではなく、理性を最大限に用い、この自然を動かしている原因と結果を理解すること

そのためには、これまでにあった自らの状態のすべてを振り返らなければならないだろう

そして、今の状態がそれ以外にはあり得ないということを理解すること

それこそが人間を救済するものであるという考えである

それにより、同じ状態にある自然、すなわち神(deus sive natura)と一体になる悦びを感じることができるというものだ

amor dei intellectualis (intellectual love of God)である

自分自身に成ること、外の影響を受けない自分を創ること、そして自分自身を理解し、受け入れること

 人間の幸せは、この3つのことと深く関係していることがわかる



この哲学は、わたしがこれまでに考えてきたこととよく重なることに驚く

アメリカでの7年は、自らの内なるモーターで動くことができるまでに必要な時間であった

こちらに渡る年の初め、これまでにあったすべての自分を現在に引き上げ、共に歩むことに決める

前のブログのサブタイトルは、「知は救済」であった

 これはスピノザの哲学のエッセンスを表現したものだった

それが、実はこのブログのサブタイトルに繋がっていたのである

全く意識されていなかったが、今日初めてそのことに気付いた



散策から戻り、先ほどのカタツムリを探してみたところ、少し横で踏み潰されていた

注意していないと目に入らないほどの小ささだった

 そして今、遠雷が聞こえ、激しい雨が降り出した







アメリカにいた当時の心象風景が浮かんでくる





vendredi 18 octobre 2013

久し振りの大学、問題を片付け、コロックへ


ここ数週間抱えていた問題がある

メールでは埒が明かなかったので、本日大学まで足を伸ばす

丁寧な対応により問題が消え、すっきりする

すっきりついでに、コロックの会場へ

テーマは、精神医学、神経学、認知神経科学の相互関係

発表者の中に同期の学生がいるので、それを聴くためでもあった

20世紀中盤のフランスを対象に検討していたが、発表は原稿を読むスタイル

歴史的解析なので事実が次々に出てくる

その上、映像がないため科学者にはなかなか馴染まない様式である


帰りはエレベータが動いていなかったので階段を下りる

各階の踊り場の壁がすべて違う

ここはフランスだと思ってよいのだろうか






時間があったので、先月触れたロン・ミュエック展に向かう

ロン・ミュエックという彫刻家 (2013-9-4)

しかし、あと10日ほどとなっているためか、このような状態でその気がなくなる







サンジェルマンのほぼ満月





jeudi 17 octobre 2013

セミナーを聴き、久しぶりの学友と再会

Pr. Jean Deutsch (UPMC, Paris 6)


今日は、午後から遺伝子の概念の変遷についてのセミナーを聴きに出掛ける

演者はピエール・マリー・キュリー大学名誉教授で、専門は遺伝学

昨年、上のスライドにある本を出されている



この本では遺伝学の歴史を最初から辿っているが、今日はここ半世紀位に絞って話をされていた

簡単にまとめると、次のようになるだろうか

当初は、タンパクに翻訳される塩基配列の特定の断片を遺伝子と言っていた

しかし、それだけでは遺伝子の働きのすべてをカバーできなくなる

塩基配列とそれを取り巻く環境が重要になる

 タンパクに翻訳されないイントロンと言われる存在が明らかになる

さらに、時間的、空間的要素も遺伝子の活性化に重要な役割を担っていることもわかってくる

このような状況を考え、これらすべての要素をまとめて遺伝子と定義したいとのお話であった

ただ、その名前をパンゲンpangene)としていたのには、少し引っかかった


お話が終わった後、次のようなサジェスチョンをさせていただいた

この言葉はダーウィンユーゴー・ド・フリースがすでに使い、歴史的に汚れているのではないか

カビの生えていない新しい言葉を充てた方がよいのではないか

この点は充分に認識されていて、敢えて使ったとのことではあったが、再考されるような印象を持った


セミナーには、大学教授を退職された後に入ったマスター2年目で一緒だった方が参加されていた

ドクターには時間的にも大変なので進まなかったようだ

お話の中で、わたしの活動を詳細に知っていることがわかり、驚く

ブログの類を読んでいるとのことであった

4年ぶりの懐かしい再会であった




mardi 15 octobre 2013

ロスコフから戻り、社会生活を始める


ロスコフから戻り、週が明けた

ロスコフでは多くの人と交わったせいか、社会生活に抵抗がなくなっている

昨日は午後から医学哲学の勉強会に初めて出席

専門外ながら、このところなぜか医学哲学の領域に顔を出すことが増えている

昨日の勉強会では、今年の6月にパリで開かれた会議(IASPM)のまとめとこれからの予定について話し合った

わたしはその会議のワークショップでジュニアのチェアに充てられていたので、そのまとめを報告

わたしも大変だが、その話を理解しようとする方もさぞかし大変だろう

 このような時、庵から社会の中に投げ出されたような感覚が襲う

しかし、このように学問の領域について話す機会が増えるのは望ましいことだろう





lundi 14 octobre 2013

連載エッセイ第9回 「ルドヴィク・フレックという辺境の哲学的医学者と科学社会学」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第9回エッセイを紹介いたします

ルドヴィク・フレックという辺境の哲学的医学者と科学社会学

医学のあゆみ(2012.10.13) 243 (2): 203-206, 2012

 ご一読、ご批判いただければ幸いです



dimanche 13 octobre 2013

写真、それはプルーストのマドレーヌ?


今朝。ロスコフのディネで若い人たちと話したこととともに目覚めた

わたしがカメラを持って、何でも写真に収めているように見えたからだろう

彼らは、どうしてそんなに写真を撮るのか、なぜこの目で味わわないのかと訊いてきた

旅先での日本人の姿と重なったのだろう

その問いにこう答えたのを思い出したのだ


一つは、以前にも触れているが、ブログを始めるようになって写真の意味合いが変わったことがある

ブログに載せる写真を選ぶ時にはどんな心境になっているのかわからない

したがって、写真を撮る時にはできるだけ選択せず、多くの情報を残すことが重要になった


二つ目の理由は、人間の感覚器の問題である

問い掛けの中にあったが、この目から得る情報がどれだけ完全なものなのか

写真に撮ったものは真の姿から外れているのか

写真を見ると、この目で見たものと形、色合い、景色、さらにそれらが醸し出す雰囲気まで違っているものが殆どである

 どちらが本物何なのか怪しくなるばかりなのだ

それならば、両方の情報を揃えておく方がよいのではないか

それと、次第にこの目で見た情報は消え失せる確率が増えている

それは三つ目の理由とも関連している


記憶についてこれまでに気付いていることは、その能力が素晴らしいということである

ただ、膨大な情報は詰まっているが、それを引き出せないのである

それに気付くのは、何かを切っ掛けにそれが蘇るからだ

その情報を引き出す切っ掛けの一つが、写真である

殆どの写真を見ると、その時の状況が蘇ってくる

会議の内容についても同様である

もし、この切っ掛けがなければ、すべての時間は再び意識に上らない運命にある

そこに注意しない生は、全く当てにならない未来を待っているだけのものになるだろう

 仕事をしている時の心境は、まさにこれに近いものがあった

 写真など当てにしていなかったのである


このような説明で、彼らも納得したようであった








vendredi 11 octobre 2013

ロスコフの余韻: ハイデッガー、ミシェル・アンリ、そしてアラステア・マッキンタイアなど

Serge Anton (photographer)


今朝は用事があり大学へ

終わった後は近くのリブレリーへ

今日はロスコフのディネで話が出たハイデッガーに目が行く

さらに、近くにあったフランスの哲学者ミシェル・アンリ(Michel Henry, 1922–2002)さんも読んでみたくなる

 早速、カフェで読んでみたが、意外に相性が良さそうである

ソルボンヌではなく、モンペリエで哲学することを決意

思想の世界と抽象を可能にする思考の力に魅了されたという孤高の哲学者

わたしにとって、これからの人になるのだろうか


帰ってみると、アメリカの哲学者アラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre, 1929-) さんの本が届いていた

ロスコフで教えられた方である
 篠崎栄訳 『美徳なき時代』(みすず書房, 1993)

 こちらは近くのビストロで読み始める

今日はバスクのビール Oldarki au patxaran を初めて味わいながらが良かったのか

この領域がどのような考え方をするのかに興味が湧く


まだ、アウトプットよりはインプットと考えているようだ





jeudi 10 octobre 2013

ロスコフからパリに戻る

ロスコフ駅にて


昨夜、無事にパリに着いた

今回の旅の前日に、近い未来への期待を書いていたことを思い出す

ブルターニュに旅立つ前に (10-03-2013)

つまり、Anticipation である

実は、これが今度の会の一つのテーマだったのだ

無理に繋げると不思議ではある


ロスコフで同じ立場の人と接触する中で、社会に引っ張り出されたような感じがしている

プロジェを持ち、未来を常に視野に入れて歩くのが当たり前の人たちで溢れる場所であった

 そこではわたしのような考え方が最初から頭にないことも分かったが、それは当然だろう

ただ、その実態を知ると、羨ましく感じる人がいたことも事実だ


これまでの水中に潜む生活から、水面に顔を出してバタバタしながら進むというイメージに移行できるだろうか

そのためには、Anticipation が必要になりそうだ

よい未来(utopia)ではなく、寧ろ悪いこと(dystopia)を予想して現在を生きる世界への転換になる

ロスコフではその気になっていたが、パリに戻るとその気が鈍ってくるように感じる

 しばらく様子を見ることにしたい







mercredi 9 octobre 2013

時間を考えたロスコフの6日間が終わる



今日の午前のセッションで5日に亘る会も終わりを告げた

主観的な時間としては、非常に長いものに感じた

長くて退屈したというのではなく、大きな変化が起こるほどの長さがあったということになる

それだけ満ちた時間が流れた証拠ではないだろうか


今朝のセッションはユリアさん制作によるビデオの上映から始まった

 いつの間に編集していたのだろうか

なかなかの作品に仕上がっていて驚いた

自分の姿に不満の人はいないか確かめていた

これから研究所の広報の確認を経て、公開することになるようだ


その後、会のまとめとこれからどのような枠組みでやっていくのかについてそれぞれが話していた

2回目のラウンド・テーブルである

落ち着いたところは、ここで結論を出すのではなく、これからもメールで意見交換を続けていくということ

 パリ・ディドロのアルメル・ドゥブリュ(Armelle Debru)教授から重要な指摘があった

一つは、誰のための時間かを考える必要があること

歴史家なのか、哲学者なのか、医学者なのか、社会学者なのか、、、、

対象によって扱っている時間が違うのではないかというのだ

もう一つは、時間についての興味深い考え方であった

時間は過去、現在、未来と直線的に流れているのではなく、現在という瞬間が繋がっているというイメージ

古代は過去ではなく現在であり、「こと」の初めも終わりもないというようなイメージ

 これらはわたしの考えとも響き合うもので、アリストテレスのエネルゲイアや禅の哲学とも繋がるように見える

そのあたりについてコメントさせていただいた


会の終了後、アルメルさんから向かいの教会が素晴らしいので中を見るように勧められる

わたしの目に付いたのは外の彫刻の方で、風雪を経て消えるようになっている姿が何とも言えない味を出している


 モントリオール出身で今はケンブリッジ大学にいる方が、フェリーの中で面白いことを言っていたのを思い出した

ケンブリッジは分析哲学が中心で、大陸哲学はほとんど読まない

無駄を省き、科学的であろうとする哲学をやっているという

そして、英語はどこか決然とした、無駄を省いてどんどん先に向かうような思考を誘発するのではないか

それがフランス語になると言葉を遊ぶ余裕が出てきて、哲学もその影響を受けるのではないかというのだ

それはわたしが何となく感じていたことでもあり、わかるような気がする

彼は実証主義を基にした哲学を目指しているが、大陸的なものも好きだという

その遊びの部分が、人間的なものを掘り起こすのに大切な気がする
 
それがある人とは、人生についてもじっくり話ができるように感じる


昨日の立ち話で、文系の人が博士論文を出すまでの時間が話題になった

理系に比べ、アメリカでもフランスでも長いという

今回参加したアメリカの方も7年かけたと言っていた

フランスでも5年などというのは稀ではないようだ


今回の会はわたしと同じ立場の人が中心だったので、学生という立場から自らを振り返る切っ掛けになった

庵の生活が夢の中の出来事のように感じられた

あるいは、そうならなければ「こと」は先に進まないということになるのだろうか

何かが変わることになればよいのだが、、、


今日は初日に入ったレストランからのアップとなった

これからパリに戻る







mardi 8 octobre 2013

共生に始まり、"Never Let Me Go" で終わった4日目


 潮の満ち干がよく分かるようになってきた

朝の内は満ちているが、お昼には干上がり、それが夕方になると再び満ちてくる

毎日、忠実にこれを繰り返している

実に不思議である


午前中のセッションは普通の発表の他に、海洋生物研の研究者が最先端の話を発表していた

これは最初プログラムになかったものである

最近注目を集めるようになっている共生がテーマで、非常に面白い話であった


 午前中のセッションが終わり、ホテルに向かう途中の景色は朝とは打って変わり、この通りである

 陸に打ち上げられた船のように見える

Ms. Julia Weiss(Mainz)


今日は、発表だけではなく映像も担当しているマインツの医学生ユリアさんと一緒にホテルに向かった

彼女は交換留学でパリの高等師範にも半期いたとのことで、英語はもちろん、フランス語も流暢である

ビデオも撮れる立派なカメラで、要所を映像に収めていた

いずれ研究所のHPに載せる予定とのこと

ご自身のサイトはこちらになる


 午後はロスコフ沖合にある島 L'Ile de Batz にフェリーで向かった

日差しが強く、日よけをしなければ眩しかった

20分程度で着いたのではないだろうか

この時はまだ桟橋が先まで見えている


わたしは疲れが溜まっていたので、1時間半ほど桟橋に面したこのカフェでゆっくりすることにした

ご主人も、中の造りもなかなか感じが良かった

 そう言えば、オーガナイザーのアクセルさんは疲労が一気に出たのか、この観光をキャンセルしていた

オーガナイズだけではなく、議論にも積極的に参加されていたので無理もないのかもしれない


帰りのフェリーは6時半

この時には、先ほどの桟橋がほぼ完全に水の下になっている

見ていると、静かに静かに水がこちらに向かってきた

一瞬のことだったが、津波という言葉が浮かんできた


さらに不思議だったのは、ロスコフの桟橋からホテルに向かう途中、わたしの横で車が止まりドアが開いたことだ

二日続けて研究所の院生がホテルまで送ってくれることになった

まさに、二度あることは三度である

ポーランドのマルチンさんが後ろからその状況を見て、実に不思議な感じがしたとディネの時に語ってくれた

一体どうなっているのか、想像ができなかったからだろう


ディネでは、マインツ側の責任者パウルさんが同じテーブルにいた

ドイツでは兵役は義務付けられているようで、ご本人も15カ月間軍でトレーニングを受けたという

そこから日本の話になった

未だに多数の米軍基地が国内にあり、その費用も負担しているということを知り、皆さん驚いていた

パウルさんによると、ドイツはすべてを縮小することにしているという

Dr. Axel C. Hüntelmann、Pr. Norbert Paul (Johannes Gutenberg-Universität Mainz


今日の最後のセッションは、カズオ・イシグロ原作の Never let me go映画を鑑賞

倫理を専門にする人は、必見とされる映画になっているようだ

上映が9時過ぎから始まり、ディスカッションが終わったのは0時であった

原作が2005年、映画が2010年になるので、すでに多くの論評が出ていることだろう

気になっていた映画をロスコフで観ることになろうとは想像もしていなかった

いろいろなことを考える時間となった






映画の中に、ロスコフで見た景色と重なるシーンがいくつかあった




lundi 7 octobre 2013

ロスコフ3日目、充実の日が続く


今朝の朝食は、フライブルグで医学倫理を研究しているイタリア人クラウディアさん(下から2番目の写真)と同席

もともと哲学から入った方なので、いろいろと参考になる話を聞くことができた

ハンナ・アーレントハイデッガーなどを専門にしていたが、職を得る時に今のテーマに切り替えたという

フクシマの後に、ドイツではなぜあのような決断ができたのかについて意見を訊いてみた

彼女の答えは次のようなものであった

ドイツではハンス・ヨナスなどの哲学者が緑の党などの思想的背景にいた

そのため、党の支持とは別に、倫理的な思考が一般に拡がっていたのではないか

そのような思考をする人が多かったので、アンゲラは福島の後、すぐに決断できたのではないか

アンゲラは決断が遅いので有名だったので、その素早さに皆さん驚いたようだ

それから、ドイツには自然に対する見方に特有なものがある、とイタリア人の彼女は見ていた

西欧では優勢に見える自然を支配するというのではなく、自然と一体になるような思想があるという

それらがうまく噛み合ったのではないか、というのが彼女の見方であった


途中、ドイツの医学生が加わったので、医学教育について訊いてみた

マインツの医学部には、在学中に歴史、哲学、倫理で論文を提出するコースがあるという

医学を学びながら、医学を外から見る視点を身に付けさせようということだろう

4人に一人くらいがこのコースを取っているという

今回の会議は、彼らに発表の場を与えることも目的になっているようだ

論文提出前の学生さんの発表が目に付いた

このようなシステムは日本でも参考になるのではないだろうか


ホテルから出て歩き始めると、「おはようございます」というきれいな日本語が聞こえる

振り返ると初日に研究所で会った院生が車から顔を出している

今度は、研究所近くの会場まで送ってもらうことになった

ありがたいことである




今日のセッションは、ロスコフ海洋生物研究所の見学から始まった

職員と学生で300人くらいの規模で、歴史があるところのようである




講義中の教室だろうか

 

見学の後、予定はいつものようにびっしり詰まっていた

最後はラウンド・テーブル・ディスカッション

話をただ聴いていればよいのかと思っていた

しかし、どなたかの提案で、机がすでにラウンド・テーブルになっているので、全員が参加することになった

末席を穢している素人のわたしも、日頃から時間について感じていることについて話をさせていただいた

 時間はあらゆるところに関わっているので、実に大きなテーマになる

これからどのような方向に進むのか、実に興味深い


コーヒーブレイクでは、人生の時間について発表していたゲッティンゲンのマークさん(下の写真)と話をする

このテーマが今のわたしには一番しっくりくるテーマだからだ

人生後期の捉え方に変化があり、65歳から85歳までを第3期(old young)、85歳以上を第4期(new 'old age')と見ていた

如何に生きるのか、幸福な人生とは、という古くからある生き方の哲学が長い間忘れられていた

しかし、ここに来て復活してきているという

彼はまずたくさんあることがよいことなのかについて哲学的考察を加えていた

そこから、長く生きれば幸福なのか、よい老化とはどういうことなのかというところへ進んでいた

医学倫理においても時間からの考察が少ないという指摘もあった

興味深いテーマなので、関連の文献を教えていただいた

彼はしきりにわたしが羨ましいと言っていた

自分たちはこれから長きに亘って仕事をしなければならないということだろう

このような会では年齢に関係なく教えを乞うことができ、彼らも手軽に答えてくれるので非常にありがたい


会議も3日目に入り、ドイツ語やフランス語での引用が飛び出し、中にはドイツ語で暫く話す人もいる

そういう時は、ドイツの方が机を拳で叩いで注意を促す

ヨーロッパのこじんまりした会は、こんな感じなのだろうか


Dr. Mark Schweda(Göttingen)、Dr. Claudia Bozzaro(Freiburg)、Ms. Delphine Olivier(Paris)、Dr. Marcin Moskalewicz(Poznan)


今夜のディネのテーブルは、このメンバーだった

朝食とコーヒー・ブレイクをともにしたお二人の他、すでに一緒になっているパリの院生にポーランドのマルチンさん

ハンナ・アーレントの映画のことをクラウディアさんが出すと、話が大きく広がって行った

彼女は、アーレントハンス・ヨナスのアメリカでの関係は知らなかったという

わたしは、アイヒマンは単に官僚の仕事をしたまでではないかと言葉を発する

マークさんは、そんな簡単な問題ではなく、もっと注意深く見る必要があると言う

彼らは一つのイデオロギーの下に意識してやっていたと見ているからだ

これからやることは酷いことだが、それは崇高な目的のために乗り越えなければならないと考えていたというのだ

それを受けて、マルチンさんはヒムラーがポーランドでそのような演説をしていた記録が残っていると言っていた

この話は終わりそうになかった

このように議論する時間は久しぶりで、精神を活性化する嬉しいことであった


マルチンさんの話も興味を惹くものであった

彼は時間に関する形而上学的な本を書いたが、もうそのようなものは書きなくないという

思考の相・層を積み上げて、一つの建築物を作るようなところはよい

しかし、その建物の土台が脆弱で、しかも見る角度によってどうにでも解釈できるところがある

いつでも壊れそうに見えるものを作ることに抵抗を覚えていて、これからは実証的な仕事をしたいという

 その考えもよく分かる

自分が哲学から入っていたならば、おそらくそのような考えになっていても不思議ではない

ただ、実証的な領域から哲学に入って行った者としては、一度形而上学の世界を歩いてみたいという願望が強い



それから人生の時間も話題になった

わたしが「現在」に集中できるようになったのは仕事を辞めてからだという話をした後、大きな反響があった

東洋人は若く見えるのか、仕事を辞めるには少し早いが、一体いくつなのかと皆さんに詰め寄られた

今回のテーマは時間だが、人生は数字ではないといういつもの答えで押し通した

今日も充実した時が流れた






dimanche 6 octobre 2013

実り多き哲学についての話


 午前のセッションが終わり、海岸線を歩く

この時間は引き潮なのだろうか

橋まで歩いて行けそうである

変化に富む海だ

午後のセッションもたっぷりで、少々疲れが出ている

実況中継のようなブログも久しぶりになる


ディネの時間、ブルターニュ出身というマエルさんと一緒になる

まず、どうして哲学で、どうしてフランスだったのかといういつもの質問を受ける

物語は好きなので、たっぷり話しても問題ないとのこと

お言葉に甘えて、これまでの長いお話をさせていただいた


哲学全般、科学と哲学、それから哲学の教育、普及などについても実りある話ができた

 わたしのものの見方がわかったのか、それではフッサールとハイデッガー、それにカントも読むべきだとのお言葉

これは東京医大での西研氏の言葉とも通じるので驚いた

それから、わたしが日本でやっている活動にも興味を示してくれた

「インターフェース」がわたしのキーワードになっている

マエルさんも専門に埋もれない意識と活動が哲学者にも求められると考えている

基本的な認識の一致を確認した


毎日違う姿を見せてくれる夕暮れである



昨日、プレスに入ると気持ちをゆったりさせてくれる音楽が流れていた

あるいは、気持ちがゆったりしているので、その歌声と同期したのかもしれない

ご主人に訊くと、懐かしのセザリア・エヴォラ(Cesaria Evora, 1941-2011)さん

若い時の声だったので、そうだとは思わなかった

彼女が亡くなった直後にこのブログでも取り上げた方になる













二日目の最初のセッション終わる


今朝は深い霧の中で、ホテル周辺もこの通り

朝食の席で、クロード・ドゥブリュ氏と一緒になる

日本での旅の様子を語ってくれた

シンポジウムのテーマが L'agression だったので、東京、京都、広島で関連する博物館を訪れたとのこと

話の準備に一月かけたようだ

原発について、日本の状況に批判的に話してみた

すると、フランスもプロヴァンスの方に原子力関連の施設を作るという話を出された

この地域は地震が稀ではない

フランス人が理性的だと思いますか、と問い掛けられた



会場に向かう内に霧が晴れ、次第に晴れ上がってきた

海岸からはこの景色

気持ちが晴れ、解放されるような空気である

今日も素晴らしい日になりそうだ


Pr. Norbert Paul (Mainz)、Pr. Maël Lemoine (Tours/Paris 1)、Pr. Alain Leplège (Paris Diderot)


最初のセッションは、テクストについてのディスカッションであった

締め切り後に登録したためか、テクストが送られてこず、残念ながら参加できなかった

隣の方に次回の論文を送ってもらったので、火曜のセッションには参加できるだろうか

ディスカッションでいつも感じるのは、すべての人がフラットな地平に立っているということ

シニアの研究者が上から発言するという姿勢が全くない

同じように批判の対象になっているという精神が染み込んでいるように見える
 
学問やサイエンスの根になければならない基本になるだろう


向かいの教会から30分おきに鐘の音が聞こえる

午前の後半がこれから始まる