dimanche 13 octobre 2013

写真、それはプルーストのマドレーヌ?


今朝。ロスコフのディネで若い人たちと話したこととともに目覚めた

わたしがカメラを持って、何でも写真に収めているように見えたからだろう

彼らは、どうしてそんなに写真を撮るのか、なぜこの目で味わわないのかと訊いてきた

旅先での日本人の姿と重なったのだろう

その問いにこう答えたのを思い出したのだ


一つは、以前にも触れているが、ブログを始めるようになって写真の意味合いが変わったことがある

ブログに載せる写真を選ぶ時にはどんな心境になっているのかわからない

したがって、写真を撮る時にはできるだけ選択せず、多くの情報を残すことが重要になった


二つ目の理由は、人間の感覚器の問題である

問い掛けの中にあったが、この目から得る情報がどれだけ完全なものなのか

写真に撮ったものは真の姿から外れているのか

写真を見ると、この目で見たものと形、色合い、景色、さらにそれらが醸し出す雰囲気まで違っているものが殆どである

 どちらが本物何なのか怪しくなるばかりなのだ

それならば、両方の情報を揃えておく方がよいのではないか

それと、次第にこの目で見た情報は消え失せる確率が増えている

それは三つ目の理由とも関連している


記憶についてこれまでに気付いていることは、その能力が素晴らしいということである

ただ、膨大な情報は詰まっているが、それを引き出せないのである

それに気付くのは、何かを切っ掛けにそれが蘇るからだ

その情報を引き出す切っ掛けの一つが、写真である

殆どの写真を見ると、その時の状況が蘇ってくる

会議の内容についても同様である

もし、この切っ掛けがなければ、すべての時間は再び意識に上らない運命にある

そこに注意しない生は、全く当てにならない未来を待っているだけのものになるだろう

 仕事をしている時の心境は、まさにこれに近いものがあった

 写真など当てにしていなかったのである


このような説明で、彼らも納得したようであった








2 commentaires:

  1. とても魅力的な記事でした。
    また遊びに来ます!!

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    1. 履歴書の送付状様

      コメントありがとうございました。
      再訪をお待ちしております。

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