mardi 17 mars 2015

辻邦生さんのプレートを見つける


ムフタール通りからデカルト通りに上っていくとヴェルレーヌの終の棲家がある

そこのレストランで食事をしたことは以前に触れている


その時、ヴェルレーヌのアパルトマンの隣にあるという辻邦生の住処の標が目に入らなかった

それ以来、そのままにしておいた

そして、先日のこと

ここを通ると、はっきりとプレートがあるではないか

これまでどこを見ていたのか

いずれにしても数年ぶりにすっきりした

前回の記事ではヴェルレーヌのプレートがはっきりしないので、新しいものを以下に



辻邦生さんに関する記事がもう一つ見つかった

辻邦生を読む(2011-07-30)

その中の引用を以下に改めて

「もしよしあしを言う価値基準があると、それだけでこの絶対的な跪拝の原点をこわすことになり、<詩>は生れてこない。あらゆる人がそのままで<深い人 生>を現わしているとする絶対肯定の、シェイクスピア的静けさ、générosité こそが、つきない<詩>をつくる。この自己放棄と評価的規準の放棄---絶対肯定・足もとへの感動的跪拝が<詩の源泉>となる。・・・

・・・<すべての人生の姿>を<よきこと>として---<乞食>や<浮浪者>や<ヒッピー>や<悪党>の深い礼賛者として---決して新聞的教育者的道徳 教にしたがうのではなく、<すべてをよし>とする<無>となることによって---<この世>を両手で<なんていい奴なんだ、お前は>と叫びながら douceur を感じつつ抱きしめるのである。
 ぼくらを縛りつけ<詩>から遠ざけたのは、この評価的な対象化する態度でなかったろうか。すべてがよく、すべてが美しく重く面白いのだとする態度を、どこか放埓な無責任なものと考える考え方が、ぼくらから<詩>を奪っていたのではないだろうか。
 その理由はおそらく教育的な要素や立身出世型、追いつき追いこせ型の生き方・考え方が社会に充満し、ぼくらもそれに染まっていて、<遊び>を遠ざけていたことに関係があるであろう」



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