samedi 5 octobre 2013

会の初日が終わる

Pr. Cluade Debru (École normale supérieure)


夕方からセッションが始まった

始まる前に、マスターの2年間教えをいただいた高等師範のクロード・ドゥブリュ教授とお会いする

聞いたことのないようなフランス語を話す東洋からの学生ということで、覚えていただいたのかもしれない

あれから4年も経っているのだから、記憶が薄れていても不思議ではないのだが、、

英語よりはドイツ語の方がお得意ではないかとお見受けした

つい最近日本から帰ったばかりとのこと

聞き間違いでなければ、一橋大学で学位審査とシンポジウムに参加されたようだ

日本人は礼儀正しく、エレガントだった、と嬉しい言葉をいただいた

 Dr. Axel C. Hüntelmann、Ms. Claudia Buir (Johannes Gutenberg-Universität Mainz


いつものように、今回も締め切り後の登録だった 

始まる前、事務局を担当されているマインツのアクセル、クラウディアのお二人に挨拶をする

今回の会議は、マインツ大学、パリ大学ディドロ、パリの高等師範が主宰する初めてのものらしい

フランス、ドイツの他、イギリス、ポーランド、アメリカからの出席者がいる

参加費をカバーしてくれるのは、領域の若手にとって魅力になるのではないだろうか


会は30人弱と小規模で、参加者の自己紹介から始まった

それからノーバート・パウル(Norbert Paul)さんによる時間の流れ(temporality)に関する概説があった

講演が終わった後、皆さんドイツ式に拳で机を叩いていた

もう20年ほど前に なるだろうか

友人がいたヨハネス・グーテンベルク大学を訪問し、セミナーをしたことがある

その時、会場から聞こえてきた机を叩く音でカルチャー・ショックを味わったことを思い出した

マインツの医学生シャルロッタさんにディネの時に訊いてみると、それが当たり前だと思っていたという

 彼女は挨拶についても面白いことを言っていた

握手は正式な場合にするので、手を握ることには抵抗があるというのだ

フランス人が頬を寄せ合ってする挨拶などは、耐えられないのではないだろうか
 
Ms. Delphine Olivier (Paris 1)、Ms. Charlotte Seevers (Mainz)


 会議で横の席になったのは、パリ第一大学のデルフィーヌ・オリヴィエさん

まだドクター1年目だが、この会議で発表する予定になっている

ディネのテーブルにはパウルさんも加わり、政治から教育に至るまでいろいろな話題が出た

アンゲラ・メルケルさんがクイーンになるという話が出たので、原発に関する彼女の決断について訊いてみた

ドイツではよく受け止められているという

日本でどうしてそれができないのか不思議だ、というのがパウルさんの反応

論理的な思考を最後まで突き詰められないからではないか、とまでは言わなかったが、、、


それから学生による教師の評価についてもパウルさんに訊いたところ、ドイツでもやっているという

アメリカからの直輸入ではないかと突っ込むと、学生に水を向けていた

学生の方も判断が難しいことがあるという話をしていた

パウルさんは大学の運営にも関わっているので、マインツでは近い将来この制度がなくなるかもしれない

 興味深い展開であった
 

今日は潮の満ち干が見られ、印象深い一日であった







港のカフェで時間を考える


今朝は街の散策を終え、会が始まるまで港に面したカフェに落ち着いている

素晴らしい景色が広がっている

時が止まったかのような中、会の抄録を読む

面白そうなテーマが出ている


哲学と自然科学の違いの一つは、それが生きることに関係する思考を誘発するかどうかだろう

専門外のテーマとは言え、自らにどこかで関係していることが出てくる

その意味では、生きることを専門としている人間にとってはすべてが自らの領域になると言えるだろう

それが哲学の面白いところでもある



ホテルから住宅街を歩いてきたが、週末の朝のせいか静かだった

第一印象は、家がどっしりしているということ

落ち着いた生活をしている様子が見て取れる

昨日と同様に、この辺りは人がほとんど歩いていない

途中、自転車の女性が後ろから来たが、にっこりとボンジュールを交わす



タラソテラピーが盛んなのか、その施設が目に付いた

それから、このようなチャペルが何気なく建っている

教会もいくつか見掛けた

そして、街中にあったポスター(下の写真)を見て驚いた

ブルターニュのこのあたりが教会やチャペルで溢れているのだ




カフェの方に訊いたところ、ブルターニュは信心深いカトリック教徒が多いとのこと

そう言われてみれば、目の前の半島の先にも教会が見える

ロスコフは港のあたりが観光地になっているようで、人が増えてきた



本当に素晴らしい日になった

あと1時間ほどで会が始まる




vendredi 4 octobre 2013

ブルターニュのロスコフに到着


 今朝、モンパルナス駅から TGV でモルレー(Morlaix)へ行き、乗り換えて一車両でロスコフ (Roscoff)まで向かった

5時間の旅であった

ロスコフで降りたのは2-3人


 人通りの少ない街を歩いてロスコフ海洋生物研究所(Station Biologique Roscoff)へ

「生物医学における時間」をテーマにした少し遅いサマースクールに参加するためである

参加者の費用はすべてカバーされているとのこと

学生としては有難い

この施設は、アメリカで言えばマサチューセッツ州のウッズホール海洋研究所に相当するのだろうか

もう40年近く前に、ボストンからそこのサマースクールに参加したことを思い出す

このような形で人生が廻っているように感じるのも悪くない


早速、受付で会の様子を訊くと、始まるのが明日からなので参加者はまだ来ていないようだ

 受付の方が、宿泊施設は少し離れたところにあるのですが、、、

と言うと、横で聞いていた若者(下の写真)が車で送ってくれるという

人間が非常に近くにいるという感じだ

有難く同乗し、少し話をする



現在、ロスコフ研究所の大学院生で、Ph.D.の最終学年

研究対象は藍藻(シアノバクテリア)で、メタジェノミクスの手法を使っているという

最先端の研究領域になるのだろう

 母親はフランス人だが、父親はイギリス人

イギリスにも住んでいたが、英語はイギリス人とは見做されないようだ

数年前には日本語を学んでいたとのこと

 日本文化に興味を持っているようで、特に碁を日本でやりたいという希望があるという

碁石の手触り、碁盤に置いた時の音、囲碁は音楽的だという印象を語ってくれた

そういうこともあって、困っている日本人らしき人に声を掛けたのだろうか

ホテルの前に住んでいるので、困ったことがあればいつでも声を掛けてくださいという

そして、早朝の海岸が実に不思議な雰囲気になると付け加えてくれた

何のことを言っているのだろうか

明日にでも早速確かめてみたい

今回は、初日から素晴らしい青年に遭うことができた



夕食の時間になって下に降りたが、レストランのあるホテルのホールは閉まっている

そう言えば、先ほどの学生さんがここは研究所が最近買い取ったばかりのところと言っていた

周辺は住宅地でお店もなさそうなので、中心部まで歩くことにした

駅前のバー兼プレスのようなところで、街の様子を訊いてみる

もう普通のお店は閉まっているが、港の方に行くとレストランがあるという


のんびりした気分にさせる港である

近くにレストランがあったのでディネを取ることにした

帰りは道に迷わないかと心配しながら、すっかり暗くなった街を歩く

途中、道路脇に腰かけた高校生らしい 男女3人組が話しかけてくる

一緒にやらないか、というのである

やんわり断ると、謝っていた

わたしたち若いのでわかってください、という感じである

 同じ通りで今度は中年の夫婦に呼び止められる

レストランの場所を教えてほしいというのだ

港の方に行くように伝えた

人がほとんど歩いていない街なので、驚きの接触であった



時計がないのでまだ8時過ぎくらいかと思っていたが、ホテルに着いたのは10時だった





jeudi 3 octobre 2013

ブルターニュに旅立つ前に


「医学のあゆみ」 のエッセイを何とか仕上げる

明日ブルターニュに旅立つ

医学の哲学に関する国際会議に参加するためである

ブルターニュは、これまでいつかは訪れてみたいと思っていたところになる

向こうからその機会が寄ってきた感じがする


ぼんやり空を眺めていると、久しぶりに旅心が刺激されてきた

どんなことが起こるのだろうか、という期待である

いつものように注意深く観察したいものである




mercredi 2 octobre 2013

「いま」 にどれだけ打ち込めるのか


今朝は久しぶりに一つの考えとともに目覚めた

こちらに戻って2週間、少しずつ元のペースになりつつあるのか

早速、その考えを書き留める

この作業が抜けると、すぐにどこかに消えて行ってしまうからだ


今朝のカフェの後、椅子に後ろに掛けてあった上着のポケットから時計が消えていた

途中、後ろに座り、何も注文しないで暫くすると出て行った男がいた

無防備な東洋のご老人に目を付けたということなのか

「こと」 の後、感情には何の変化も現れない

驚くべきことだ
 

考え直してみると、わたしには時計など必要ないとも言える

そのような生活をしていないからだ

さらに言えば、この世界には時間がない、あるいはあるのは「いま」だけという考えに近づいている

そういう人間の日常には無用のものだろう

必要になることがあるとすれば、時の流れの中にある現世の会に顔を出す時ぐらいだろう

暫くの間、時を忘れて「いま」に打ち込みたいものである




mardi 1 octobre 2013

尻に火が付く日は来るのだろうか


本当に速いものである

今年もあと3か月

昨日はラジオからクリスマスソングが流れていた

この時期になると、今年は一体何をやったのかという疑問が湧いてくる

いつも否定的な答しか返ってこない


今日はいつものありふれた一日

カフェで読んだ後、リブレリーに寄り5-6冊仕入れる

まだ広げようとしているのか

興味が湧いてくるので仕方がない

「尻に火が付く」 という表現は、わたしの辞書にはないのだろうか





dimanche 29 septembre 2013

「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」 を思い起こす


先日、日本から訪ねて来られた方との会話を思い出した

「医学のあゆみ」に出ているわたしのエッセイに目を通していただいているとのこと

その印象を語ってくれた

それは、これまでとは違うどこか新鮮な世界が広がっているように見えるというもの

そして、その方はこう付け加えた

そこに書いてある「こと」には新しさはないのだが、、、


その言葉を聞いて思い出したのが、本居宣長の有名な一節である

「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」 

宣長はさらに続けてこう言っている

「然レバ姿詞ノ髣髴タルマデ似センニハ、モトヨリ意ヲ似セン事ハ何ゾカタカラン、

コレラノ難易ヲモエワキマヘヌ人ノ、イカデカ似ルト似ヌトヲワキマヘン、

試ニ予ガヨメル万葉風ノ歌ヲ万葉歌ノ中へ、ヒソカニマジヘテ見センニ、此再評者決シテ弁ズル事アタハジ、

是ヲ名ヲ顕ハシテ、コレハ予ガ歌コレハ万葉歌ナリト云テ見セタラバ、必予ガ歌似セ物ナリト云ベシ」

(『国歌八論斥非再評の評』)  


そして、これも有名な小林秀雄の解説がある

少し長いが、以下に引用する

「この宣長の冗談めかした言い方の、含蓄するところは深いのである。

 姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう、

何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ。

先ずそういう含意が見える。

 人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供にでも出来るではないか、

諸君は、そう言いたいところだろう。

言葉とは、ある意見を伝える為の符帳に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである。

古の大義もわきまえず、古歌の詞を真似て、古歌の似せ物を作るとは笑止である、という言い方も、この根強さに由来する。

しかし、よく考えてみよ、例えば、ある姿が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。

そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。

それなら、言葉は実体ではないが、単なる符帳とも言えまい。

言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。

万葉歌の働きは、読む者の想像裡に、万葉人の命の姿を持込むというに尽きる。

これを無視して、古の大義はおろか、どんな意味合が伝えられるものではない。

「万葉」の秀歌は、言わばその絶対的な姿で立ち、一人歩きをしている。 

その似せ物を作るのは、難しいどころの段ではなかろう。

 意は似せ易い。

意には姿はないからだ。

意を知るのに、似る似ぬのわきまえも無用なら、意こそ口真似しやすいものであり、

古の大義を口真似で得た者に、古歌の姿が眼に入らぬのも無理はない

(『本居宣長』)


実は、小林秀雄が指摘するように、わたしも意は似せ難く、姿は似せ易いと考えていたことがある

しかし、その考えは次第に変わっていった

小林秀雄の言葉で、それがよりはっきりした形になっていった

ある「こと」の内容を語ることは、誰にでもできる簡単なことである

情報の内容だけを問題にしている場合には、その先が眼に入らない

先にある問題とは、それをどのように語るのか、ということである

美しい形、説得力のある形、思索を刺激する形などに変えていくのは誰にでもできることではない

意は真似できてもそれを表す姿は真似できないということになる

それが芸術作品か否かを決めることになるのだろう


翻って自らを省みれば、わたしの世界がどのような姿をしているのかはわからない

自分の姿はなかなか見えないものである

もとより宣長の言葉が浮かんでくることもなかった

しかし、改めてその意味を思い起こし、考え直してみるのもよいのではないか

そんな思いが浮かんできた週末のパリの朝である





vendredi 27 septembre 2013

パリに戻って1週間、「サイファイ研究所 I for SHE」 を立ち上げる


日本から戻って、ほぼ1週間

帰国の度に、科学の成果に哲学的考察を加える「サイファイ・カフェSHE」を開いている

今回、この姉妹店を出してはどうかというアイディアが浮かぶ

哲学の蓄積から人間存在を考える「カフェフィロ・ポール(PAWL)」と名付ける予定の場である

PAWLは、ピエール・アドーさんの『生き方としての哲学』 の英訳 Philosophy As a Way of Life の頭文字

この機会に二つのカフェをまとめる場として、「サイファイ研究所 I for SHE」 を設けることにした

I for SHE は Institute for Science & Human Existence の略だが、「彼女のためのわたし」という意味にもなる

この研究所で取り上げる科学、医学、哲学、歴史、宗教、さらに人間存在までもが、フランスではすべて女性

すべてがうまく収まったと感じている

ご批判、ご理解、ご協力をいただければ幸いである



2年前の夏、サイファイ・カフェSHEの前身「科学から人間を考える」試みを始めることにした

これも日本からパリに戻って1-2週間の一瞬のことであった

なぜなのだろう

今のところ、こう考えている

日本の様子を観、いろいろな方と接触する過程で感じ取ったすべてのもの

それが無意識のうちにわたしのどこかに働きかけていたのではないか

その「どこか」とは、それまでわたしが感じ、考えていたもの溜まっていたはずのところである

そこにほんの少しの力が加わり、一つの形として流れ出したのではないか


場所を変えること

それは意識される変化を齎すだけではなく、目に見えない影響を与えている可能性がある

その影響がいつ顕われるのかは、わからない

それに気付くのは、こういう時なのだろう

そこが面白い


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(dimanche 29 septembre 2013)

この週末、Institute for Science & Human Existence と同じ名前の組織があるか検索してみた

わたしがやった範囲では、なさそうである

もしそうならば、世界初の研究所ということになる

それが名前だけに終わらないようにしたいものである





samedi 21 septembre 2013

西研教授の 「現象学的明証性とエビデンス」 から科学を考え直す


今回の日本滞在では、東京医科大学のファカルティ・ディベロプメントでお話しする機会があった

その会場には哲学科の西研教授がおられ、多くの示唆に富むコメントをいただいた

講演終了後に届いたメールの中で、エビデンスと現象学についての対談を紹介された

ご本人のHPの冒頭から数行下のところにある 「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」 である

 現象学と言えば、もう7年前になるが一つの出来事があった

イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)

それ以来、いつかはと思いながらも未だ手付かずの現象学

 今回の滞在では時間がとれなかったので、パリに落ち着いた今朝、目を通してみた


科学的なエビデンスとの比較で、哲学的エビデンスについて現象学での可能性を探っている

現象学におけるエビデンスは、「明証性」 と訳されている

科学におけるエビデンスは、知覚事実とその数学的処理により得られるとしている

それに対して、現象学における 「明証性」 はどのように確保されるのだろうか

フッサールによれば、わたしにとっては疑うことができない 「事柄それ自身の現前」 として捉えられる

そこにはまだ、誰とでも共有できる性質が備わっていない


フッサールは 『デカルト的省察』 で、知覚事実とより厳密なエビデンスになる反省による内在的体験を分けているという

その上で、知覚事実については疑えるが、それについて反省していることは疑えないと考えた

まさに、デカルトの Je pense donc je suis である

対象は多様でも、そこに向かう態度には誰にでも共通する構図があり、フッサールはそれを本質と呼んだ

 さらに、その本質を引き出すことを 「本質観取」 と呼び、内的世界のあり方の構造を捉えようとしたという

西教授は反省的明証性を意味する "reflexive evidence" という言葉を当てている



 これは意識に存在するとされる二つの段階と対応しているように見える

すなわち、一つは外界の受容で、もう一つがその一段上にある外界の受容についての省察である

 第二段階に行かなければ、意識があることにはならず、目覚めていない状態と何ら変わらない

ヘーゲルが言う 「思惟」 とそれは対応するものだろう

彼は次のように言っている

 「哲学の目的は真理である。・・・

真理は直接的な知覚や直観においては認識されない。

それは外面的感性的直観においても、また知的直観においても同様である。

ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」



 20世紀に入り、人文系の科学も自然科学的であろうとする流れが現れた

 この対談では心理学からの例が引かれている

 主観的な要素を極力排除しようとして、数学的、統計学的処理へと向かう流れである

 内的世界を完全に無視する行動主義などは、その代表例になるのだろうか

 確かに、科学の中にいる時には、そのような切り捨てが小気味よく見えることがある

 科学はそうでなければならないと考えがちになる

 そして、それが科学者に熱狂をもって迎えられ、勢いある流れとなる

 しかし、時が経ち、冷静が戻って来ると、多くのものが見落とされていたことに気付くのである

 同様のことは、他の分野でも起こっているだろう


今回、現象学におけるエビデンスの求め方を知ることができた

 それは誰もが反省することにより共通の理解に達することができる基盤のようなものと言えるだろう

 わたし自身は、科学におけるエビデンスについても同様の省察が必要であると考えている

 科学においてエビデンスとなる事実をそのままにしておいたのでは、その意味が見えてこないからだ

 そのため、それぞれのエビデンスを関連付け、謂わば 「現象学的」 エビデンスへと高める必要があると考えている

 わたしが提唱している 「科学の形而上学化」 ということは、まさにこの営みに当たるだろう

 「21 世紀の科学,あるいは新しい 『知のエティック』」 医学のあゆみ(2013.2.9) 244: 572-576, 2013

 そして、わたしが帰国の度に開いているサイファイ・カフェSHEでやろうとしていることもそのための一つの試みと言える



今回、このような省察に導いてくれた対談を紹介していただいた西教授に感謝いたします





jeudi 19 septembre 2013

久し振りのフランス風、そして 「生命の定義」 など


今朝は用事があり、外出

用事が終わり、近くのカフェに入る

パリに戻ったことがよくわかる

日本で感じた人間が何かの下にあるという印象が全くない

その何かとは、マニュアルなのか、どこか上の方にある決まりきった考えなのか、よくわからない

確かなのは、日本では人間が何かにコントロールされていて、自らの意志や思考を失った機械のように見えることだ

その世界にいると、そういう意識さえ生まれていない可能性がある

生きているのかもしれないが、それは外から察しがつかない

 そんな印象が、こちらに帰ると際立ってくる


午後からは今シーズン最初のセミナーがあった

ラントレである

今日のテーマは、「生命は定義すべきなのか、できるのか」

「もの・こと」 の定義は常に難しいが、生命も例外ではない

フランソワ・ジャコブがいみじくも言ったように、生命とは、という問いは生物学の対象外である

 しかし、生命の起源、宇宙生物学、人工生命などの研究の進展が生命の基準を要求するようになっている

その場合に問題になるのが、生命という「言葉」の定義と生命という「性質や現象」の定義の区別だろう

哲学者は定義に拘るが、生物学者が求めるとすれば、後者になるはず

満足のいく回答が得られる日は来るのだろうか


今日は久し振りにフランス人の議論に触れ、アングロ・サクソンとの違いを改めて感じる

それと同時に、フランス人で埋まった会場に唯一人東洋のご老人がいるという図が客観的に頭に浮かぶ

普段は全く浮かばないが、日本から帰った翌日ということでそうなったのだろう

彼らがそのご老人に何かを感じたとしても不思議ではない

日本で同じ状況に遭遇した時のわたしの頭の中を想像すればよくわかる

今回の日本でこの状況と符合するエピソードをある大学で聞き、驚いたことを思い出した

その大学を訪問されたわたしとは何の面識もないフランスの方が、わたしのことを知っていたというのである

どこでどうつながっているのかわからないこの世界

一人庵の生活をしているなどと気取っていたが、それは単なる錯覚にしか過ぎないことがわかる




mercredi 18 septembre 2013

パリの空の下へ、「我的佛蘭西」 の旅再開


無事にパリに到着した

早速パリの空が迎えてくれた

すでに寒さが感じられる

この秋は、これまでとは違う歩みで進みたいものだが、、、


帰ってくる機内でリービ英雄の 『我的日本語』 を読み終える

言葉の狭間に生きている人間が、英語から辺境の外国語を選び小説を書いている

辺境の言葉からヨーロッパの言葉と方向は違うが、多和田葉子さんのような作家になるだろうか

リービ英雄氏は中国と深く関わってきた

そのやり方は、中国の情報を伝えるのではなく、「我的中国」 を探ろうとするもの

つまり、中国に身を置いた時に起こるこの 「我」 の中の状態を捉えようということである

この言い方を借りれば、わたしはフランスの情報ではなく、「我的佛蘭西」 を記録したいということになるだろう 


読み進むうち、この本は以前に読んでいるような気がしてきた

最近では稀ではなくなっている現象だ

次回の日本で本棚を確かめてみたい




mardi 17 septembre 2013

日本とフランスの時空間が融け合っている


昨日、大阪から戻る時、台風で足止めを食らった

大阪はすでに晴れていたが、途中に問題のところがあるとのことで、動き出したのは午後3時過ぎ

駅は大混雑、自由席だけの販売であった

ホームに入っても ひと ひと ひと

なかなか乗り込めない

やっと乗ったものの座る席なし

しかもTGV並みに40分の遅れ

久し振りに、膝に関節があることに気付く

とんだ敬老の日であった

ということで、予定されていたランデブーを残念ながらキャンセルせざるを得なかった
 


ところで、問題の富士川を通過する時、不思議なことが起こった

手にしていた本の中に白隠(1686-1769)の「富士大名行列図」の解説が現れる

そこに描かれている川が、何と富士川だったのだ



一夜明け、今回の日本滞在も残すところ一日となった

今回も多くのものを齎してくれた

個別のことはいろいろとあるのだろうが、今はその全体を体と心で受け止めておきたい


向こうに渡った当初、帰国すると日本が実に新鮮に見えた

それはフランスでの生活が意識の中でも具体的な面においても別のレベルにあったからだろう

しかし、時が経つにつれ、別のレベルにあったものが次第に同じ平面上に移行していった

日本とフランスの移動が水平方向のものに変容していったのである

今回新たに感じたことは、日本とフランスの時空間が融合し、一体になっているということだろうか


以前からフランスに戻る前に感じていたことがある

それは母屋の日本から離れにある書斎にこれから戻るという感覚である

今までとの違いは、そのことを意識することなく、ごく自然に移動していることだろう

今回帰国した折、日本の鮮度は僅か一日程度の命であった

その時に触れたことは今でもよく残っている

 鮮度を上げるには帰国の頻度を下げることだが、どうなるだろうか


 午前中、日本橋で用事があり出掛ける

それが終わり近くの本屋さんに立ち寄る

以前にも入ったところだ

そこで数冊手に入れる

早速、日本橋を目の前にして、久しぶりのシガーとともにその中の2冊を手に取る

内村鑑三の 『後世への最大遺物・デンマルク国の話』 とリービ英雄の 『我的日本語』である

雲一つない空の下、「こと」 が終わった後のひと時を過ごす

何とよく日本語が入ってくることだろう

まさに至福の時である


それにしても東京の空は無垢だ

飛行機雲に穢されることがない

パリの空とどちらが好きかと問われれば、穢れている方

そう答えざるを得ないのだろう


飛行機雲の繋がりではないが、宮崎駿の 「風立ちぬ」 を観る時間があった

わたしにとっては初めての宮崎作品である

期待して臨んだが、残念ながらなかなか中に入ってこなかった



夜は、このところ恒例のように声を掛けていただいている学友お二人との会食

どうも囚われなく生きているように見える(!)人間の話を聴き、気持ちの箍を取ろうという魂胆のようだ

 今回も現世に触れることのできる話題に花が咲き、こちらの方が解放されたように感じている

次回もこのような機会ができることを願っている


これですべての予定が終わり、明日パリに向かう






lundi 16 septembre 2013

「いま・ここ」 に在った一週間、それは ZEN なのか


日本に帰ってくるといつも感じることがある

それは、わずか数週間だが、天地の乱れに必ず遭遇する大変な土地柄の国であるということ

パリ出発前には次のように書いていた

「天が鎮まることを願っているが、願いが叶うことはないと予想している」

残念ながらこの予想は裏切られることはなく、竜巻、地震、台風があり、台風の影響を受ける可能性もある


当初、魔の一週間と書いた先週を振り返ってみる

外から見ているとそのように見えるかもしれないが、内的にはいつものように凪の状態であった

仕事をしている時には、「いま」 がどこかに向かう過程になっているため、いつも先を見ている

そのため、「忙しい!忙しい!」 と嘆くことになった

しかし、フランスに行ってからは 「いま・ここ」 にどっしりと留まることができるようになっている

そのため、過密スケジュールの中にいるという感覚が全く生まれないのだ

満ちた 「いま・ここ」 がそこにあるだけで、その中に集中していればよいだけなのである

これが向こうに渡ってからの最も大きな内的変化かもしれない

以前にこの状況を語ったところ、何人かの方から 「それは禅の精髄そのもの」 とのご指摘をいただいた

そうであるかどうかはわからないが、現在の精神の動きは 「こと」 を進める上で大きな力になっている

ただ、身体的な影響は負荷と比例して出ているはず

ご老人 としては、頭に入れておきたい点である




samedi 14 septembre 2013

哲学的問いとともに歩むということ

武田克彦(国際医療福祉大学三田病院)、花島広志(さくらさくら)の両氏


昨年9月、神経心理学会が東京で開かれた

その時の会長が武田氏で、何とわたしが教育講演なるものを担当することになった

全く経験のない者に話をさせるということなので、常識では計り知れない発想をされる

お陰様で、引き受けた方は大いに苦しんだが、新しい世界を垣間見るという経験をさせていただいた


そして先日、ショートノーティスで昨日お話をすることになった

偶然にも予定の変更があり、それが可能になった

少しだけ前を歩いているかに見える人間と哲学に絡む話を望まれたのだろうか

いろいろなお話が出たが、一つの哲学的な問題とともに歩むということが中心だったように思う

この世界を理解すること、考えることにこれからの時間を使いたいということになるのだろうか

さらに言えば、それしかないという認識である

その点に関しては、通じるところがあるのかもしれない

人間は考える葦である


不思議であるが、今月のエッセイで触れたのは昨年の神経心理学会のことであった

先生の講演で強調されていた臨床で重要になるという「ネガティブ・ケイパビリティ」がそのテーマである

これは、曖昧な状況を受容する能力であり、自分の中に他者に対するスペースを作ることができることを意味している

エッセイでは、この能力こそ不確実さを増す現代において不可欠なものになるのではないかと問い掛けている

興味をお持ちの方はご一読いただければ幸いである

「ネガティブ・ケイパビリティ、あるいは不確実さの中に居続ける力」

医学のあゆみ (2013.9.14) 246 (11): 989-993, 2013





連載エッセイ第8回 「 フランソワ・ジャコブという存在、あるいは科学は哲学に行き着くのか」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第8回エッセイを紹介いたします

今年4月、92歳で亡くなられたジャコブ博士と科学の捉え方の奥行きについて触れています

 ご一読、ご批判いただければ幸いです

医学のあゆみ(2012.9.8) 242 (10): 832-836, 2012





vendredi 13 septembre 2013

興福寺中金堂へ瓦を奉納、千葉大学での講義で新しいアプローチの必要性に気付く


今朝、北円堂無著世親の像を目指して興福寺

いつでも見ることができると思っていた浅はかさ

今年は南円堂創建1,200年で 南円堂と併せて北円堂も4月から2カ月ほど公開していたという

これからであれば10月の一日だけとのこと

何ともはや

ただ、おみくじは大吉

平成30年落慶予定の中金堂

思うところを墨書した瓦を奉納した


午後東京に戻り、夕方「高い教養を涵養する特論」の講義のため千葉大学へ

指導的人材を育成するリーディング・プログラムで、院生の10%を選抜したようである

このブログラムの責任者は、徳久剛史先生

もう30年以上前、わたしがまだアメリカにいる時のこと

一時帰国して谷口克先生(現、理研)の教室でセミナーをさせていただいたことがある

 その時に若き徳久先生とディスカッションの機会を持ったことが蘇ってきた

よもや、30年後に同じ大学で哲学を語るようになろうとは想像さえできなかった

人生の不思議である


話のタイトルは 「新しい 『知のエティック』 を考える」 とした

昨日も院生が中心だったが、今日も同様

質問は職員からが主で、学生からの質問はなかった

質疑応答の後に質問に来た学生さんと話したところでは、話自体が難しかったとのこと

教養課程が縮小されていることは聞いていたが、その影響なのだろうか


文系の基礎知識が不足していることもあるのだろうが、それだけではなさそうである

わたしの指摘している問題は現役の科学者に関わるものである

そのため、学生の立場では問題そのものを体で理解できていない可能性がある

最初の問題意識を共有できていないので、その先が何のための議論なのかわからないことになる

そもそも大学院とは、全人的な状態にある人間を専門性の枠の中に入れる機関である

その意味では、彼らはわたしの指摘する問題をまだ抱えていない可能性が高い

教育者ではなく教育を受ける身であるため、そこのところが盲点になっていたことに気付いたのである

 今回の内容がファカルティ・レベルでは好評だったことも、このことの傍証になるかも知れない


当日の司会は斉藤哲一郎先生が担当された

時がスムーズに流れるように、随時適切な質問を出していただいたのは有難かった

プログラム関係者の皆様に改めて感謝したい



昨日よりもさらに明確になったこと

それは、学生に対しては研究者向けとは違う新しいアプローチが必要になるということ

自らの学生時代の頭を復元することは困難を極めるが、今後の課題になりそうだ

 今週の大きな発見であった



jeudi 12 septembre 2013

古都奈良の大学で、科学を聴き、哲学を語る

田村眞理(東北大学名誉教授)、渡邊利雄(奈良女子大学)の両氏


今日は朝から奈良に向かう

この3月で退職された田村眞理先生の研究集大成のお話の後に、科学の哲学について語るためである

このようにback-to-backで科学と哲学の話が続くというのは、これまでに経験がない

ホストの渡邊氏のアイディアが面白い

これからは科学と哲学が積極的に向き合うことが重要になると考えている者にとっては、嬉しい企画であった

渡邊氏にはこの場を借りて感謝したい


質疑応答で感じたこと

これからの人と長い間研究に身を捧げてきた人とでは、哲学に対する渇望の程度に差があるのではないか

 ある程度経験がある人の場合には自らの状況を振り返るようになる

それは哲学的なものを自然に求めることでもある

その必要性についてはすでに気付いていることになる

それに対して、若い人たちの場合には哲学に向かう必然性は少ないのではないだろうか

科学の中で如何にして成功するのかを第一に考えるからだ

そのような精神状況の人に対するには、なぜ哲学なのかについての丁寧で説得力のある説明が求められる

それが充分にできていないと、若い人にはなかなか伝わらないのではないか

ただ、時が経つにつれて昔聴いた記憶が蘇ってくることはあるかもしれないのだが、、

いずれにせよ、語り続けることがわたしのような立場の人間には必要になるのだろう

質疑応答の中でも触れたが、科学が圧倒的な力を持っている現代社会において、人文の側が余りにも非力なのだから


講演終了後、研究室の大学院生との会話から感じたこと

現代を生きる若者の意識がわれわれの時とは違い、選択の幅が出てきているのではないか

昔よりは自由に考えているという印象を持った

多様な価値を認め、その意味を考える人が増えてきているのはよい兆候ではないだろうか

専門を超えて考える視点を持つことの意義を語ったつもりだったので、嬉しい発見であった


大学構内もそうだったが、奈良の街を歩いているとどこか時の流れが緩やかに感じられる

心落ち着く滞在となった