jeudi 19 septembre 2013

久し振りのフランス風、そして 「生命の定義」 など


今朝は用事があり、外出

用事が終わり、近くのカフェに入る

パリに戻ったことがよくわかる

日本で感じた人間が何かの下にあるという印象が全くない

その何かとは、マニュアルなのか、どこか上の方にある決まりきった考えなのか、よくわからない

確かなのは、日本では人間が何かにコントロールされていて、自らの意志や思考を失った機械のように見えることだ

その世界にいると、そういう意識さえ生まれていない可能性がある

生きているのかもしれないが、それは外から察しがつかない

 そんな印象が、こちらに帰ると際立ってくる


午後からは今シーズン最初のセミナーがあった

ラントレである

今日のテーマは、「生命は定義すべきなのか、できるのか」

「もの・こと」 の定義は常に難しいが、生命も例外ではない

フランソワ・ジャコブがいみじくも言ったように、生命とは、という問いは生物学の対象外である

 しかし、生命の起源、宇宙生物学、人工生命などの研究の進展が生命の基準を要求するようになっている

その場合に問題になるのが、生命という「言葉」の定義と生命という「性質や現象」の定義の区別だろう

哲学者は定義に拘るが、生物学者が求めるとすれば、後者になるはず

満足のいく回答が得られる日は来るのだろうか


今日は久し振りにフランス人の議論に触れ、アングロ・サクソンとの違いを改めて感じる

それと同時に、フランス人で埋まった会場に唯一人東洋のご老人がいるという図が客観的に頭に浮かぶ

普段は全く浮かばないが、日本から帰った翌日ということでそうなったのだろう

彼らがそのご老人に何かを感じたとしても不思議ではない

日本で同じ状況に遭遇した時のわたしの頭の中を想像すればよくわかる

今回の日本でこの状況と符合するエピソードをある大学で聞き、驚いたことを思い出した

その大学を訪問されたわたしとは何の面識もないフランスの方が、わたしのことを知っていたというのである

どこでどうつながっているのかわからないこの世界

一人庵の生活をしているなどと気取っていたが、それは単なる錯覚にしか過ぎないことがわかる




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