dimanche 29 septembre 2013

「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」 を思い起こす


先日、日本から訪ねて来られた方との会話を思い出した

「医学のあゆみ」に出ているわたしのエッセイに目を通していただいているとのこと

その印象を語ってくれた

それは、これまでとは違うどこか新鮮な世界が広がっているように見えるというもの

そして、その方はこう付け加えた

そこに書いてある「こと」には新しさはないのだが、、、


その言葉を聞いて思い出したのが、本居宣長の有名な一節である

「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」 

宣長はさらに続けてこう言っている

「然レバ姿詞ノ髣髴タルマデ似センニハ、モトヨリ意ヲ似セン事ハ何ゾカタカラン、

コレラノ難易ヲモエワキマヘヌ人ノ、イカデカ似ルト似ヌトヲワキマヘン、

試ニ予ガヨメル万葉風ノ歌ヲ万葉歌ノ中へ、ヒソカニマジヘテ見センニ、此再評者決シテ弁ズル事アタハジ、

是ヲ名ヲ顕ハシテ、コレハ予ガ歌コレハ万葉歌ナリト云テ見セタラバ、必予ガ歌似セ物ナリト云ベシ」

(『国歌八論斥非再評の評』)  


そして、これも有名な小林秀雄の解説がある

少し長いが、以下に引用する

「この宣長の冗談めかした言い方の、含蓄するところは深いのである。

 姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう、

何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ。

先ずそういう含意が見える。

 人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供にでも出来るではないか、

諸君は、そう言いたいところだろう。

言葉とは、ある意見を伝える為の符帳に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである。

古の大義もわきまえず、古歌の詞を真似て、古歌の似せ物を作るとは笑止である、という言い方も、この根強さに由来する。

しかし、よく考えてみよ、例えば、ある姿が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。

そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。

それなら、言葉は実体ではないが、単なる符帳とも言えまい。

言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。

万葉歌の働きは、読む者の想像裡に、万葉人の命の姿を持込むというに尽きる。

これを無視して、古の大義はおろか、どんな意味合が伝えられるものではない。

「万葉」の秀歌は、言わばその絶対的な姿で立ち、一人歩きをしている。 

その似せ物を作るのは、難しいどころの段ではなかろう。

 意は似せ易い。

意には姿はないからだ。

意を知るのに、似る似ぬのわきまえも無用なら、意こそ口真似しやすいものであり、

古の大義を口真似で得た者に、古歌の姿が眼に入らぬのも無理はない

(『本居宣長』)


実は、小林秀雄が指摘するように、わたしも意は似せ難く、姿は似せ易いと考えていたことがある

しかし、その考えは次第に変わっていった

小林秀雄の言葉で、それがよりはっきりした形になっていった

ある「こと」の内容を語ることは、誰にでもできる簡単なことである

情報の内容だけを問題にしている場合には、その先が眼に入らない

先にある問題とは、それをどのように語るのか、ということである

美しい形、説得力のある形、思索を刺激する形などに変えていくのは誰にでもできることではない

意は真似できてもそれを表す姿は真似できないということになる

それが芸術作品か否かを決めることになるのだろう


翻って自らを省みれば、わたしの世界がどのような姿をしているのかはわからない

自分の姿はなかなか見えないものである

もとより宣長の言葉が浮かんでくることもなかった

しかし、改めてその意味を思い起こし、考え直してみるのもよいのではないか

そんな思いが浮かんできた週末のパリの朝である





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