dimanche 30 novembre 2014

パリ到着、周囲が霞んでいる


今夕、無事にパリ到着

午後5時半で、もう暗い

おまけに霧雨で、周りが霞んで見える

これからを暗示するような景色であった






これからパリへ


朝起きると、快晴

荷物の重量調整に追われる

今回は初めて羽田発で、出発もゆっくりなので随分と楽である

今回も外から見ると疾風怒濤の滞在に見えるかもしれない

しかし、本人にとっては今を過ごしているだけなので、激しい動きを感じない

激しい動きの痕跡を感じているのは、体の方かもしれない

これからパリに戻る






samedi 29 novembre 2014

徘徊老人の一ヶ月終わる


今日の空は、曇りのち雨、そして晴れとパリを思わせる変化を見せてくれた

お昼、雨に当たる

夜は、古い友人とのディネ

遠くから見ると、パリの庵の住人は徘徊老人のように見えるそうだ

庵に落ち着つけず、あちこちふらついているということなのだろう

これも岡目八目、意外だった

しかし、本人の目から見れば単に周りが動いているに過ぎないのだから、徘徊には気付きようがない


また、老境の過ごし方しか話題にならないのでは困るので、若い友人を開拓しなければならないとのお話

その通りだろう

フランスのジャーナリスト、ジャック・シャンセルさん(85歳)の言葉を思い出す

「わたしはこれまで若い人としか接触しないようにしてきた

同年代の人と話すと眠くなるからである」



今日で今回の滞在のすべての予定を終えることができた

全体を振り返るのは、これから折に触れてになるだろう

将来、予期せぬ意味が現れることはないか、注意しておきたい





vendredi 28 novembre 2014

第8回サイファイ・カフェSHE終了後、生物としてのSHEを考える


今日は、第8回サイファイ・カフェSHEの2日目であった

今日もディスカッションは密な繋がりを見せ、懇親会でもそれが続いていた
 
しかし、昨日との違いにも気が付いた

それは、同じ材料を提示した後に立ち上がるディスカッションの内容の違いであった

参加者によって全く別の世界が広がるという、考えれば当たり前のことに感動したのである

昨日は統計や確率などが飛び出し、科学の方法論を中心とした科学的な内容が多かったような印象がある

今日は宗教(仏教やキリスト教)や生命の誕生の説明に関連する話が多かったように記憶している

それ以外の話も出ていたが、最初の印象が記憶の前面に残ったためかもしれないのだが、、、


 わたしの役割は、事実を提示すること

それを広げ、深めるのは参加者の役割

参加者が「考える」という作業を担当しているとも言える

この関係はわたしの理想とするもので、少しずつそこに向かっているようでもある
 

今回も話題になった進化は、そもそも偶然が支配するopen-endedな過程と考えられている

その時点での条件に向き合うことを続けている先に、何が出てくるのか分からない

それが生命の持つ創造性にも繋がるのだろう

この会も生き物のようなもの

方向性を持たない進化の道を辿ることで良いのだと思う

 これは、理想に向かっているとする上の感想と一見矛盾するようにも見える


こう考えれば、問題はなさそうだ

上の理想は行き先そのものではなく、そこへの行き方に関わるものである

歩き方は覚えつつあるが、それはどこに向かうのかを決めることとは関係はない

しっかり歩くことを続けているうちに、思いもよらないところに辿り着く

そのイメージでよいのではないか

それが面白そうである

それこそが、この生き物を十全に生かす道になるのではないか

原宿・渋谷間で人が線路に飛び出し、30分ほど足止めを食らった後にこんな考えが巡っていた



年末のお忙しいところ、参加された皆様に感謝いたします

次回は、来年の夏以降になる予定です

ご理解のほど、よろしくお願いいたします





jeudi 27 novembre 2014

第8回サイファイ・カフェSHE の初日終わる


本日は第8回サイファイ・カフェ SHE の初日であった

いつものように直前まで準備に追われ、消化不足の感が拭えなかった

テーマはインテリジェント・デザイン(ID) で、科学の領域にいる時には頭に浮かぶこともなかった

そのため、他の科学者も同様なのかと想像していた

しかし、テーマの提示の後に続いたディスカッションは中身が濃く、しかも途切れることがなかった

参加された皆様の興味と意識が高いことに驚いた

あるいは、それだからこそ参加されたということでもあるのだろうが、、

この流れは懇親会でも変わらず、3時間にも及ぶ意見交換が続いた

哲学をどう見るのか、日本における哲学の現状は?というような広い問題についても語られていた

わたし自身も語る中で、自分の考えを再確認していた

他には、日本社会にこのような意見交換の場が非常に少ないという声が聞こえた

また、若い人の参加を如何に増やすかにも注意を払った方が良いのではないかという意見もあった

会の中での議論は深まりを見せているが、特に若い層への働きかけの工夫が必要になるのかもしれない


付け足しを一つだけ

実は、今回の大きなテーマのスライドに、ゴーギャンのこの絵を採用した

参加されたお一人が丁度分子生物学会の帰りで、その絵がプログラムの表紙になっていたという

わたしにとっても小さな驚きで、言ってみればシンクロニシティ

どうということはないが、このような瞬間はなぜか嬉しくなる



次回は来年の夏以降になりそうである

興味をお持ちの皆様のご参加をお待ちしております





mercredi 26 novembre 2014

元職場の方々との会食で、これからを想う


今夜は元の職場である研究所の所長お二人と同僚だったお二人との食事会に参加した

わたしの帰国の度に渡邊正孝氏にアレンジをお願いしている

お陰様で、今回も全員と顔を合わせることができた

雨の中、お運びいただいた皆様には感謝したい


本日もいろいろな話が出ていた

わたしの関連では、パリの様子や学生生活の中身が話題になっていた

特に後者はこれまでの放蕩が祟って頭の痛いところである

これからどうなるかは、パリに戻ってから様子を見るしかなさそうである

そんな学生にいくつかの貴重なサジェスチョンをいただいた

それが実現可能なものなのかは、これから検討することになるだろう

 
また、拙エッセイについてのコメントもあった

まず、毎月書くのは大変だろうと労っていただいた

自分では意識していなかったが、離れて見るとそう見えるのかもしれない

それから、時に触発される内容もあり、そこからさらに調べたりすることがあるとのお話であった

そのように読まれているとすれば、嬉しい限りである

 学業が忙しくなれば筆が滞ることも出てくるかもしれないが、これも様子を見るしかなさそうだ
 

今回、元同僚の不幸を知った

また、この滞在中に高校時代の同期生お二人が鬼籍に入られた

人の命は儚いものだが、それは一体どのように決められているのだろうか

生かされているのが不思議に感じられる雨の夜、来年の再会を約してお別れした




デジュネで8年前と繋がる



本日のデジュネは、もう10年来のお付き合いになる渡辺昌俊様からのお誘いを受けた

渡辺様は日本パスツール協会の会長をされており、もうすぐ80歳の大台に乗られるとのこと

そんな風にはとても見えない活力を維持されている

わたしが日本にいる時に、パスツール研究所のプレスリリースの翻訳などのお手伝いをした縁である

その縁もあり、わたしがやっているサイファイ・カフェ SHE や先週のカフェフィロ PAWL にも参加いただいている


8年前のことになるが、わたしの仕事場を訪ねて来られた時のエピソードが最初のブログに残っている


この中に、フランスと日本の科学の違いについてのお話が出てくる

芸術を愛し、哲学者とも交わる文人科学者と言ってもよいジャン・ピエール・シャンジューさんの話題になった

結局のところ、科学も神や哲学の領域を無視しては進めないというような話をシャンジューさんがしているとのこと

そのような性向を持つ科学者は日本では少ないように見えるが、、、という話が印象に残っていた

当時、シャンジューさんと哲学者のポール・リクールさんの対談本を読まれたところだったことが今回分かった

その本は、


 『脳と心』(みすず書房、2008)

わたしもフランスで目を通した本になる

このように8年前の話が繋がるというのもなかなか味がある


現在、パスツール協会が新しいステージに入るべくご尽力されている様子が伝わってきた

できることがあれば協力をしたいと思わせてくれる熱意がそこにあった




mardi 25 novembre 2014

恒例となった学友との語り


学生時代以来久し振りに会ったのが、2年ほど前のこと

それ以来、なぜか毎年帰国の度に声を掛けていただいている

不思議と言えば不思議である

お二人ともまだ仕事をされている

本日も文学の素養のあるお二人の話を聞きながら時を過ごす

漱石や鷗外に興味をお持ちのようで、そこから彼らの漢詩なども話題になっていた

また、出来るだけ分かりやすい言葉、簡単な論理で話をするのを良しとする傾向への疑義も聞こえた

分かるとは何を言うのか、そしてこの世界に分かることなど一体どれだけあるのか

これらのことを問題にしないで、どんどん考えない状態が進行していることに対する異議になるのだろうか

時に、こちらに向けて 「現代のディオゲネス!」 などと声が掛かってきたりするので油断ならない

しかし、個人的には過分な褒め言葉ではないかと思っているのだが、、、


来年もお会いすることになりそうである











lundi 24 novembre 2014

20年の隔たりもすぐに消える


昨日の今日で、少々バテ気味

しかし、以前の研究所のメンバーが数名集まるとの連絡が入り、顔を出す

何と20年ぶりに酒豪 A さんと再会することになった

この間、研究者、あるいは学生として世界中に出掛けていたようで、その行動力に驚く

日本にいた時間より海外が長かったのではないだろうか

酒豪振りは相変わらずで、すいすいとビールを平らげる姿は健在だった

 又の機会に皆さんとはお会いしたいものである







dimanche 23 novembre 2014

所替え、議論するもまたよし梅田界隈



本日は、数年来の友人と一献傾けるため大阪に足を延ばした

どこからともなく、アメリカのクリスマスソングが流れてくる

アメリカ時代の年末の景色と感情が浮かんでくる

不思議なものでフランスの感情が掻き消される

それを否定しようという気分はなく、寧ろアメリカンソングの中に身を委ねることを快と感じていたようだ


さて、夜は一献のはずがこのところ例のない三軒の梯子となった

最後はディスカッションが盛り上がり、周りのお客さんも聞き耳を立てる状態になった

久し振りのことである

関西の空気がそうさせたのだろうか




samedi 22 novembre 2014

解放感の中 『中谷宇吉郎随筆集』 を読み、「外への働きかけ」 を考える


今日は久し振りの解放感があり、吉祥寺方面へ

駅ビルがすっかり様変わりしている

全く別の駅になってしまった

こうやって、時の流れの中で 「もの・こと」 は過去へと消えていくのか

昔よく歩いた辺りを歩き回る

街の方はまだ変化が少ないようだ


公園近くの路上カフェに入る

前回この辺りに来た時も、上を見上げるとこの景色だった

これが日本なのだろう
 

先日、丸善で手に入れた 『中谷宇吉郎随筆集』 を2時間ほどぱらぱらとやる

中谷の師、寺田寅彦が出てくる

その繋がりで文学者が出てくる

昭和の風の中に明治の香りが匂う

ゆっくり考えている様子が窺える

穏やかな批判精神もある

こういうのんびりした時間にはうってつけの文章であった


エッセイを書いたり、科学の外に語り掛けたりする人は昔からいたことが分かる

その問題意識の基本は変わっていない

その後、科学と社会との関係に変化はあるのだろうか

見かけ上の変化はあるだろうが、本質的な部分ではあまり変わっていないのではないか

外に働きかけたからと言って大きな変化は見られないかもしれない

しかし、それは避けて通れない科学の仕事なのである


翻って、哲学はどうだろうか

外への働きかけはやられているのだろうか

それは哲学の仕事でもあるはずなのだが、、





vendredi 21 novembre 2014

第2回 PAWL 終わる


 本日、第2回の PAWL を開催した

この会では、生き方の哲学を考え、その哲学を生きた哲学者を取り上げ、語り合うことにしている

今回取り上げた哲学者は、古代ギリシャの幸福の哲学者とも言われるエピクロス

エピキュリアンという言葉は若い方には馴染みがないかもしれない

 しかし、われわれの世代では今でも使われているのではないだろうか

少なくとも、わたしは若い頃からお前はエピキュリアンではないかと言われた記憶がある

また、フランス語を始めてからも、フランス人に名指しされたことがある

彼らが、どのような意味で言ったのかはわからない

本来のエピキュリアンは一般に浸透している快楽主義者でない

その誤解が今夜解けたという方もおられた

 最近では、本来の意味でわたしはエピキュリアンではないかと思うようになっているのだが、、、
 


今夜のディスカッションは、これまでになくリラックスした雰囲気の中で行われた印象がある

懇親会でも実り多い話が進んでいたようである

今日は急遽欠席になった方が数名おられた

年末のお忙しいところを参加していただいた皆様には改めて感謝したい


これからもご理解のほど、よろしくお願いいたします





jeudi 20 novembre 2014

30年来の旧交を温める


本日は休息と明日のPAWLの準備に充てる

夜は雨の中、30年来の友人お二人と夕食をするために出掛ける

半年前に帰国した折にも声を掛けていただいたので、今年二度目になる

珍しいことである

前回もそうだったが、まだ現世の真っ只中に生きている様子が伝わってくる

額の皺の深さが半年前に比べ増している

おそらく、こちらもそうなっているのだろうが、自分では気づかない

 話を聞いていると、自らの置かれた状況が相当特殊であることが、改めてよく分かる

 それはそれとして、興味深い時間となった

 来年再びお会いしたいものである







mercredi 19 novembre 2014

東京理科大学 生命医科学研究所での講義とセミナー終わる

セミナー後、東京理科大学 生命医科学研究所の皆様とディネ


本日は東京理科大学の岩倉洋一郎先生のお世話で講義とセミナーが予定されていた

今回もまた寸前まで準備に追われた

講義は生命倫理のコースで、15年前に多田富雄先生のお考えで生まれたのだという

今から考えると、先見の明があったことが分かる

各論についてはすでにやられており、これからも予定されているとのこと

そのため、「考える」 ということについて、自らの経験から考えたことを中心に話した

 講義後、これからの参考にするために感想を書いてもらった

その中で、同様のコメントが複数の方から出ていたので、それらを以下に列挙したい

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  • これまで考えていると思ったことは、実は考えることではないことに気付いた
  • 実験に追われる生活の中で、考えるための時間を意識的に確保する必要があると思った
  • 考えることは、研究だけではなく、日常生活を豊かにするためにも大切ではないかと思った
  • 専門の知だけではなく、広い領域の知についても目を向けていく必要があると思った
  • 対象を客体化するという営みは、日本ではまだ弱いように感じた
  • 「自己とは記憶の総体である」 という言葉は、とても印象的だった
  • 哲学的で包括的な話を聞くことが少ないので、新鮮で、刺激的で、考えさせられた

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このようなコメントで見る限り、話す前に意図していた以上の効果があったように見える

われわれが哲学的な思考に疎いのは、興味がないのではなく、そこに誘われることがないためではないか

寧ろ、若い精神は哲学的思考に飢えていて、そこに開かれているのではないか

問題は、その扉をノックする人が少な過ぎるところにあるのではないか

それは教育の重点がどこに置かれているのかに関わり、哲学の領域にいる人間の問題にも繋がる

そんな感想が浮かんで来た


セミナーの方では、科学と哲学の関係についてわたしが感じてきたことを中心に話す

このブログで何度も書いてきたことが糧になっている

その後で、免疫について考えてきたことを話す

こちらはほんの入り口に立ったという状態に過ぎないが、専門家から貴重なコメントをいただいた

 これから前に進むエネルギーを貰ったように感じている


研究所は自然に溢れた広大な大学の敷地内にあり、想像していた姿とはかなり違った

良い意味で予想が裏切られた

セミナー終了後、岩倉、北村大介、後飯塚僚、海部知則の各先生と岩倉研若手のお二人と食事会

ざっくばらんなお話ができたように思う

 このような機会を作っていただいたことに感謝したい





mardi 18 novembre 2014

「科学における知の基盤を探る」 講演会を聴く

村上陽一郎氏


先日お知らせしたシンポジウを聴きに日仏会館へ


 3名の方から話を聞く

演題Ⅰ 

「科学思想の源泉としてのフランス─デカルトから啓蒙思想へ─」

村上 陽一郎氏(東京大学名誉教授)

演題Ⅱ 

「モノー 『偶然と必然』: 生物の生物らしさを分子から理解しようとする思索のあゆみ」

佐藤 直樹氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)

演題Ⅲ 

「新しい自然誌(Histoire naturelle)を求めて」

中村 桂子氏(JT生命誌研究館館長)


 科学に関する思想的側面をフランスを中心に歴史的に解析した村上先生

ジャック・モノーの思想を解析した佐藤先生

そして、新しい自然誌(Histoire naturelle)を求めている中村先生の三氏の話を聴く

この領域の話がこれまでよりも分かるようになっていることを確認

わたしの誤解が解けるような情報だけではなく、いくつかのヒントを得ることができた


主宰者の御子柴先生の言葉には、インパクト・ファクターに踊らされる浮ついた科学に対する嫌悪が見られた

科学本来の姿に戻すためには、科学の哲学や歴史を学ぶという姿勢が必要になるのではないか

今日のような会がもっと頻繁に持たれてもよいのではないか

日本では、科学の歴史についてはまだ抵抗が少ないように見える

しかし、哲学となるとどこか遠いところにある敷居の高いものという感覚を持っている人が多い印象がある

フランスから帰ったばかりなので、彼我の違いを実感せざるを得なかった


中村桂子氏





dimanche 16 novembre 2014

日曜の図書館にて


喫茶店に入り、パリのカフェにいるような気分を再現しようとするが、思うに任せない

昨日は図書館で過ごすことにした

今週予定されているいくつかのお話の準備のためである

毎回、出発前に終えておきたいと思っているのだが、締切り寸前にならなければその気にならない

優雅に行きたいのだが、悪い癖がついたものである
 

10時の開館前から列ができているのに、驚く

床に座って待っている若者もいる

殆どが、中高生に見える

これほど多くの日本の若者を間近に見るのは、本当に久し振りになる


開館すると皆さん席を確保しようとして早足で目的地に向かう

あっという間に席は埋まってしまった

 わたしはオープンの丸テーブルに落ち着いた

この空間が意外によく、パリでも珍しい5時間ほど集中できた

途中、近くのご老人が眠りに入り、ドサッという本を落とした音で目覚める

時に、遠くから堂々とした鼾の音楽が聞こえてくる

そして、真剣な眼差しで細かい事実を追っている若者の姿が目に入る

パリでは味わえないこれらの全体が、集中力を高めてくれたのではないだろうか

お陰様で、今朝は目が腫れぼったい





vendredi 14 novembre 2014

今朝のシンクロニシティ?


仙台のホテルは、朝日新聞がお持ち帰りになっている

今朝、その新聞を開いて、あれっと思うことが3つあった

その中の一つには、特に驚いた


今書いているエッセイでは、『古事記』と「地球外生命」について触れている

2面下の広告が池澤夏樹訳の『古事記』で、3面には彗星に欧州の探索機が着陸した記事がある

一番驚いたのは、2面の「ひと」で取り上げられているリチャード・フラナガン


昨日のこと

実はシンガポールのデービッドさんからもう一冊紹介されていたのだ

 タイトルは日本の古典から採られているとのことだったが、すぐにはピンと来なかった

調べて見ると、『奥の細道』のこと


この小説は、今年のブッカー賞受賞作

昨日の2作同様、これも第二次大戦の日本軍と関連する

いつ読むことになるのかは分からないが、昨日注文したところだった

そして、今朝新聞を捲るとそれが現れたのだ


これをユングのシンクロニシティと言うのだろうか

この手のことはわたしの身の回りでは頻繁に起こっている

ただ、小さなことに驚くだけの余裕がなければ、どうでもよいこととして時とともに消えていく







mercredi 12 novembre 2014

なぜか深い話題に自然に入って行く

Dr. Jukka Westermarck (U Turku, Finland), Dr. David Virshup (Duke-NUS, Singapore)


昨日はいろいろな方と深いお話ができた

これまで話すことがなかったような内容が多くなり、驚く

日本人の場合、われわれの年齢に近くならなければそのような話題が出てくることは稀である

ここ何年かでそのことを感じていた

それぞれ哲学する時期に入っているとどこかで思っているのだろうか

勿論、そんなことはどこ吹く風という方も多いのではないかと思うが、、、


それに比べて、欧米の方はいつでもどんな話題にも付いてくる

常に疑いを持っているのか

そのために考えることになるのか

そして、考えていることを言葉にするのに慣れている

ロゴスの文化、会話の文化と言ってよいのかもしれない

なので、話していて飽きない

自らを、そして自らを取り巻くものを相対化する作業を小さい時からやっているのだろうか

振り返る作業を蔑にしていないように見える

これはわれわれが弱いところではないかと昨夜は感じた


ところで、久し振りのデービッドさんからは興味深い小説を書いているマレーシアの作家を紹介された

Tan Twan Eng (Penang, 1972-)

二つの小説の感想を聞かせてほしいとのこと


The Gift of Rain (2007)

いずれも第二次大戦中の日本軍によるマラヤ占領が背景になるようだ

今は小説を読む時間はなさそうだが、その時が来たら感想を伝えたいと思っている


今回初めてになるウェスターマークさんにわたしのことをデービッドさんが紹介していた

パリで哲学をやるなんていいですね、とはウェスターマークさんの反応

ご自身も興味があるようで、単なる儀礼の言葉ではないように感じた

 そこにヨーロッパ人を見た

などと言うと、お前はすぐに個別から普遍に飛ぶ、というフランシス・ベーコンさんの声が聞こえるようだ




仙台で、昔の領域の現状を覗く

開会講演後の柳田充弘教授(沖縄科学技術大学院大学)


今日は以前の研究分野の国際会議が開かれるので、様子を見るために仙台に

11th International Conference on Protein Phosphatase

研究の現状を知るためというよりは、昔の研究仲間と顔を合わせるためと言った方が正確だろう

離れて見る科学の世界がどのようなものかは、これまでも書いている

思想性はなく、細部の技術的なところが問題にされる

殆どが専門用語なので、それを知らなければ何を言っているのか全く分からない

言葉を知ればその部分は理解したように見えるが、実は何も理解できていないことが分かる

全体との関係が目に入らなければ理解に至らないからだが、それが議論されることは稀である

そこは各自に委ねられているということなのか

科学の現場でそれ以上に重要になるのは、細部で明らかになったことの次に何をやるのかである

そのため、なかなか全体には届かない

この状況は現代科学の宿命のようにも見える


これが午前中のセッションを聴いたところでの印象になるだろうか

会は金曜まで続く





dimanche 9 novembre 2014

連載エッセイ第22回 「デン・ハーグでエッシャーを発見、そしてスピノザの世界を想う」

Liberation (1955)
 M.C. Escher (1898-1972)


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 第22回エッセイを紹介いたします


医学のあゆみ (2013.11.9) 247 (6): 577-581, 2013

 ご一読、ご批判いただければ幸いです





samedi 8 novembre 2014

母屋と書斎、あるいは実世界と精神世界


日本に帰ると、現実に戻ったように感じる

以前に日本とフランスの生活を母屋と離れの書斎と形容したことがある

これは意外に的を衝いているかもしれない

こちらは周りに日本語が蠢き、実生活にも注意が向きがちになる

しかし、向こうでは日本語が消え、もやもやとしたフランス語が流れているだけだ

そこにも実生活と想像の世界はあるが、こちらから見るとそのすべてが精神の世界に見える

次第にそれがはっきりしてくる

こちらの生活だけになると、地に足の着いた現実的なことだけが頭を覆うことになるのか

向こうの世界がなくなることは、純粋な精神世界がなくなることと同義なのか

それほど精神世界を維持するのは難しいのか

 確かに、あの空間に身を置くことで目に見えない霊感を得ていたように思う

しかし、別の世界から霊感が得られないということでもないだろう






jeudi 6 novembre 2014

7か月振りの日本


久し振りの日本だが、そんな感じは全くしなくなっている

ここ数年その傾向を増していたが、極点に達したように見える
 
つまり、フランスに向かう前と同じ状態に戻ったように感じる

これまでの時間が夢のように消え去り、現実に戻されたように感じるのである

何かは違っているはずだと思いたいのだが・・・

それはどこか詰まらない景色に見える

今回の第一印象が滞在中に変化するのかしないのか

様子を見る月になりそうである





mercredi 5 novembre 2014

プラトンとアリストテレスの全作品が身近に

 Aristote : Oeuvres complètes (Flammarion, 2014)


最近、ピエール・ぺルグラン(Pierre Pellegrin)さんの編纂になるアリストテレスの全作品集が出た

全一巻で、3,000ページにならんとする

これまで読んだものも手元にあるが、すべてがそこにあると思うと気持ちが落ち着く

 

Platon : Oeuvres complètes (Flammarion, 2008, 2011)


そう言えば、同じ出版社から出たプラトンの全作品集も手元にある

最初に出たのは2008年らしいが、わたしが手に入れたのはソフトカバー版が出た2011年のこと

こちらは、大体2,000ページになる

哲学のすべての要素は、このお二人の中にあるとも言われる

これから折に触れてお二人の声を聞くことになりそうである





samedi 1 novembre 2014

新学期を前にして


先日、再登録のための書類を大学に出した

昨日回答が戻ってきて、新学期も学生として過ごすことができることになった

登録料は約400€

これまでより少し上がった印象がある

それでも日本の大学、況してや米英の大学とは比べ物にならない

こうでなければ、かくも長き学生生活を送ることはできなかっただろう

本来、教育とはこうあるべきではないかと改めて思う

米英だけを見ていると、今の異常さに気付かない


昨年あたりから何かが変わり始め、この夏にはほぼ完結したように感じた学生生活

今学期はどんなことになるだろうか

今は想像もできない



今月は日本で過ごす予定である

これまでとは違った視点でものを観ることになるような予感がする