mercredi 3 juillet 2013

日本的なるものが押し潰されるくらいに


こちらでは、フランス語や英語は読むものの、日本語の中で考える生活をしている

この3月に帰国の折に行った留学についての対談を読み返してみると、アメリカでの経験が語られている

そこに、時間が経つにつれ、日本的なるものが脳の後ろの方に押し潰されるような感覚に陥ったとある

当時は、思考から日常に至るまで、すべてをアメリカの中での生活にしていた

ある意味で、日本から離れ、宙に浮いているような状態であった

その結果、自分の中では、考え方、言葉の発し方、冗談の言い方に至るまでアメリカ的になって行った

それが嵩じて、日本的なものがどんどん小さくなっていくように感じたのだろう

このやり方は、専門である科学には直接関係のない文化の領域を中心に考えたものである

ある意味では、専門を犠牲にしてアメリカ文化を探索していたと言えなくもない

その経験があったためか、こちらではアメリカでのやり方は採らないと最初から決めていた形跡がある

テレビなどを観ないこともフランスにいることを忘れさせる

何年も日本に帰ることのなかったアメリカ生活とは違い、今は少なくとも年に1-2度は帰っている

そのためか、日本的なるものが押し潰されるという感覚も生まれていない

ただ、フランス語を身に付けたり、フランス文化の真髄に触れようとする場合、それでは駄目なのではないか

日本的なるものが押し潰され、苦しくなるような感覚が生まれるくらいに入り込まなければ、体得できないのではないか

日本人として外から異文化を見るのではなく、彼らの頭を持った時にこの世界がどう見えるのかという問いとともに

そこまで行かなければ異文化の理解には繋がらないのではないか



対談を読みながら、そんな考えが浮かんでいた





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