vendredi 30 janvier 2015

シベリウスとダイアナ・クラールさんを高揚感の中で聴く


本日も雨模様

街に出て、これからのことを具体的に考える

次第に気分が高まってきた


今年はジャン・シベリウスの生誕150年

Jean Sibelius (1865年12月8日-1957年9月20日)

記念の行事が日本シベリウス協会を始めとしていろいろ準備されているのだろう

早速肖ってバイオリン・コンチェルトを聴いてみた

演奏はマキシム・ヴェンゲーロフ(1974‐)とバレンボイム(1942‐)指揮シカゴ交響楽団




第三楽章で、なぜか感極まりそうになるところがあった

 朝の気分の高揚がそのまま重なったのだろうか

珍しいことである


カフェを出て、FNACに立ち寄る

視聴用にダイアナ・クラール(1964‐)さんの最新カバーアルバムが出ていた

Wallflower (2015)

ボブ・ディラン1971年作の曲名だが、本家の方は20年ほど眠りについていたという

クラールさんとはこれまで相性が良くなく、手に入れるところまではいかなかった

しかし、これはすんなり入ってきてくれた

初めての経験である

朝から維持されていた感覚器の張りつめた状態のお蔭だったのかもしれない

ここから教訓を引き出すとすれば、これまでのだらだらとした朝の時間を改めよ、ということか




帰り道、このところ見えなかった昼間の青空まで仰ぐことができた


こういう流れの良い日も珍しい














jeudi 29 janvier 2015

思いも掛けず、コンシュさんに再会


本日も雨交じりの空である

街に出て雑誌スタンドに入る

Le Point の社会面にお馴染みの顔がある

先月取り上げたばかりのマルセル・コンシュ(Marcel Conche, 1922-) さんだ



何事かと思いきや、昨年出た Epicure en Corrèze 『コレーズのエピクロス』がベストセラーになっているという

そのため、観光客がコレーズ県のアルティヤック(Altillac)にある家に押しかけるほどだという

私生活、特に愛情生活について触れているところがあるためだろうか

以前に愛について書かれたものはある

しかし、今回は人生を振り返るという語りなので広く訴えかける力があったのかもしれない


コンシュという哲学者は、フランスでもほとんど知られていないのではないだろうか

そうだとすれば、92歳にして一般に知られることになった哲学者ということになる

今、日本の状況をグーグルで調べて、驚いた

2ページまでのほとんどはわたしが書いたものになっている

日本に専門家はいないということかもしれない


コンシュさんは言ったという

「唯一無二の人間になるためには、ある種の英雄的行為が求められる」

敢えて他の人と同じようになろうとしないこと

それは想像を超える勇気を要することなのだ、と言っているようにわたしには見える





mercredi 28 janvier 2015

目的に向かうことは、美しくないのか


昨日は夜になり雲が消え、星空が綺麗であった

しかし、今日も雨模様

今回も天候には恵まれなさそうである


今日はカフェ二軒を梯子して、「こと」に向かおうとする

未来を語っているうちは気分爽快だ

がしかし、そこに至るために「いま・ここ」でやらなければならないことになるとさっぱりである

場所を変えるという程度では、最早誤魔化されなくなっている


この7年余の間に、目的に向かうという精神状態を受け付けなくなってきたのか

あるいは、その志向は以前から奥深くを流れていて、それが顕在化してきただけなのか

目的に向かうことは、それほどまでに美しくないことなのか

どうもそう考えていると思わざるを得ない状態である





mardi 27 janvier 2015

シャルトルでシャルル・ペギーさん発見


 本日も太陽は見えなかった

街に出た帰りに寄り道をする

これまで何度も通っているところだが、初めてこの碑が目に入る

これまでどこを見て歩いていたのだろうか


 ベルクソンの弟子で、若き日には政治に関与したが、後年神秘主義に傾倒していったという

1914年、ヴィルロワでの戦いでドイツ軍により殺される

享年41


Charles Péguy (1873-1914)





lundi 26 janvier 2015

外に開き、「共にする」 ことの意味


朝から街に出た

夜に雨が降ったようで、路面が湿っている

ただ、先月ほどの寒さは感じない

今日は日の光を見ることはできなかった


新年の出来事から見えてきたこと

あまりにも当たり前なのだが、身に滲みて理解できたことなので記しておきたい

 それは、後に残るものはそれまでに共有されたものだけだったということ

今回、自分の記録を失ったようなところがある

それは自らの記録なので、ある意味では記憶を失ったとも言える

 そこで、どこかにその断片は残っていないかと探してみると、すべて共有されたものであった

例えば、人とのメールのやり取りで交換した文書やスライドなど

添付書類として雲の上に保存されている

ブログには記事や写真が残されている

また、カフェSHEやPAWLなどのサイトには、その記録や写真やパワーポイントまで残されている

すべて公開され、共有されたものであった


文化は伝承されて残る

大袈裟に言えば、細やかな営みも記録され、伝承されることがあるとすれば、文化になり得るだろう

勿論、個人の記録として保存することは可能である

しかし、それを外に開き、「共にする」 ことで得られるものは想像を超えるのではないか
 
そういう認識を持ちながら行動することで、これまでとは全く違う景色が広がってくる

これも新年の出来事のお蔭かもしれない






dimanche 25 janvier 2015

再びのシャルトルで


気分転換を兼ねて、二か月ぶりのシャルトルに着いた

もうパリ市内の別のところに行くような感覚になっている

お馴染みとなった

この一週間、場所を変えて何ができるのか、様子を見ることになる

ホテルに向かう途中、大聖堂の辺りを通ったが、日本語が溢れていた

少しは寒いが、予想を裏切る穏やかな天候である

この状態が続くことを願いたい



新年の出来事による変化の一つが見えてきた

ここ1年ほどで過去の遺物に見え始めたメモ

あれほど振り返りたいと思っていたにもかかわず、そこに戻ることができなかったメモ

 それがこれまでにも増して貴重なものに見えてきたことだ

先日、そのあたりに置かれていたものを机の上に並べてみた

それを眺めながら、これまでの蓄積の時が終り、これから蓄積の掘り起しが始まることに思い至った

より正確には、掘り起こしを始めなければならないと思っていたのだ

何とも皮肉なことだが、そうなるためには今回のようなカタストロフが必要だったことになる

意識や生活を変えるためには、断絶が必要になる

それほどまでに、われわれの生は何気なく流れているのだ








samedi 17 janvier 2015

生物学者ラマルクに纏わる連載エッセイ2編のご紹介


Tel Aviv University Campus (2009.6.7)


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 から2編を紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde »

医学のあゆみ (2013.12.14) 247 (11): 1193-1197, 2013


第24回 「後世はラマルクの復讐をしたのか、そして初めてのイスラエル

医学のあゆみ (2014.1.11) 248 (2): 174-178, 2014


ご一読、ご批判いただければ幸いです






vendredi 16 janvier 2015

「出来事」 から2週間、「これから」 が見えてくる


元旦の朝、今年は滑る年になるのではないかと予感していた

そして、1月4日にその予感を遥かに凌駕する 「出来事」 に遭遇

以来、2週間が経とうとしている

この間、実に大きな気持ちの動きがあった


先週初めは、デジャヴューを味わっていた

奇妙にも、前回も丁度8年前の1月のことであった

それまでの仕事を辞め、全く新しい領域に入ることを実感した時のことである

これは、生まれて初めての経験だったのである

体の芯が冷え切るような感覚が1-2週間続いた

「これから」 に対する不安のようなものを体が感じていたのだろう


それから暫くすると、これまでのものを捨て去り、リセットできるという解放感が訪れた

身の回りにあったすべてのものが消え、辺り一面が焼野原になったような景色があった

そこに、これから何を建ててもよいという自由の感覚を味わっていたのである

今回の 「出来事」 でもこれまでの蓄積が消え去り、体の芯が冷え切っていた

 そして暫くすると、重く圧し掛かっていた記憶が消えたための解放感だろうか

どこか晴れ晴れとした気持ちも生まれているのに驚いたのである

まさに、8年の時に区切りを付けるかのような体験であった


 ルバング島で最後の戦友を失った小野田寛郎さんは、そのプラス・マイナスを計算したという

その結果、戦力が半分以下になることはないと結論する

新しい状況における利点を探し出し、生き残るために戦略を変更したという

ある 「出来事」 に遭遇した時に採る一つのやり方になるのだろう


根こそぎさらわれるようなカタストロフに遭遇すると、それまでの生活がより明確に見えてくる

それまで継続されていたものが、必ずしも良いものばかりではないことが見えてくる

失うものは大きかったが、それまでとは全く違うものを生み出す可能性が現れる

そのためには、カタストロフが生まれた状況やその帰結についてしっかり向き合うことだろう

そこからどれだけの新しいものを引き出すことができるのか

そこに創造性が生まれる機会がある

バディウさんの言う真理への道である


今の段階で言えること

一つは、そろそろ庵から出て、外の世界に触れる時が来ているのではないかということ
 
7年を超える瞑想生活の中で、庵の奥から外界に対応していたことが見えてくる

それはそれで快適な世界であったが、体の方が反応していないのである

もう一つは、ここ暫くは一つのことに絞って頭を使ってみるということだろうか

これまではいつも複数のことを抱えていて、虻蜂取らずの状態であった

今は丁度更地になったところなので、立ち上げを選択できる状況になっている


日本に目をやれば、今年は敗戦70周年に当たっている

当時は焼け野原からのスタートだったが、一方である種の解放感があったのではないか

殆どゼロからの出発なので、理論的には可能性は無限に近かったはずである

実際のところは分からないのだが、、

しかし、時が経つにつれ、可能性の幅がどんどん狭められてきた

息苦しい時代が続くのだろう


今回の 「出来事」 もある意味では焼け跡からのスタートである

しかし、そこには新しい可能性が生まれる切っ掛けがあると考えたい

なぜ、この時期に、この 「出来事」 に遭遇したのか

なぜ、こうならなければならなかったのか

偶然はないと考えがちなわたしにとっては、興味が尽きない問いである

その解が見えてくると、新しいあゆみを始めることができそうである


人生に意味はない

 意味を与えるものなのである







lundi 5 janvier 2015

この 「出来事」 にどう向き合うことができるのか


昨日、霧のブリュッセルからパリに戻ってきた

そう言えば、先日のシャルトルも最終日の朝は霧に霞んでいた

ただ、今回はタリスの出発時刻を間違えて覚えていたため、乗り遅れてしまった

そのため、往復の1.5倍の料金を払わなければならなかった

しかし、そんなことは霞んでしまうほどの 「出来事」 に遭遇

一瞬にして景色が変わるという想定外の年の始めとなった

この 「出来事」 がどういう影響を及ぼし、どんな意味を持ってくるのか

それは、この 「出来事」 にどう向き合うのかに掛ってきそうだ


前ブログに、こんな記事を書いていたことを思い出した

今読み返すと、少しわかり難いところもあるが、、、



冒頭には、こんなことが書かれてある

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アラン・バディウ(1937-)さんは、1988年に大著 「存在と出来事」 (L’Être et l’Événement) を発表した

バディウさんの言う 「出来事」 とは、それによって主体を実行や真理との和解に至らしめるもの

全なるものを超え、揺さぶり、全ならしめないようにするもの

それは新しい可能性の創造であり、この可能性こそ真理である

主体にとって真理と出会うとは、「出来事」 に忠実に向き合うことなのである

人間とは、すべての人間が規定されている死や有限性から脱した時にしか実現しないもの

われわれは、無限、絶対、そして考えられている人間の性質を超えたものに到達できるのである

そして、これこそが唯一の生の徴である

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samedi 3 janvier 2015

ブリュッセル4日目、雨に当たり今年を想う


今日は朝から厚い雲がかかり、雨がしっかりと降っている

なかなか止みそうにないので、少し小降りになった頃ホテルを出た

定番になったモロッコ・カフェへ

店員さんも親しみを込めた挨拶をするようになってきた

少し仕事らしきことをする

今の状態からこれまでを見直すと、如何に長きに亘って好きなことをやってきたのかが分かる



昨日の道を辿り、小便小僧の像へ

その後、昨日と道を変えてみた

すると、Editions Jacques Brel の文字が見える

その界隈に写真のスタジオがあったので中に入ってみた

Studio Baxton という




特徴を伺うと、作業をしている部屋で詳しく説明された

分かったことは、19世紀の古い手法を用いていることだけ

 以下のビデオに、そのイメージがある



現在、数点だけ商品があり、数百ユーロから千数百ユーロとのことであった

それから数人に道を尋ねながら王立美術館に向かった

途中、感じが良さそうなパサージュがあり、入ってみると古書店が数件並んでいる

ギャラリー・ボルティエ (Galerie Bortier) という
 


 

最初の店で哲学セクションを見ると、面白そうなものがいくつか見つかる

今すぐに参考になると思われるものを1冊選んで手に入れる

 こちらは意図していなかったが、感じの良い女主人は少し値引きしてくれた

帰ってからアマゾンに行くと、それより安いものがある

ただ、その場で読み、買った時の記憶がその本に漂っているのはお金には代えがたいものがある




雨が本格的になり、王立美術館に着いた時にはびしょ濡れ

今年を占うには丁度良いのではないか

美術館は客が多く、入る気がなくなる

それにしても、自らを日本語で名乗る美術館も珍しいのではないか



お隣のマグリット美術館も満員御礼

これほど人気があるところだとは思いもよらなかった
 
仕方なく、来た道を戻る







帰り道、ショーウィンドウを眺めている時、今年の干支を思い出した

やや危険な兆候である



雨に濡れたので、外を乾かし内を潤すためにビストロに寄る

長い間歩いたせいか、お勧めのビールがなかなか良かった

Troubadour という



終わりよしで、今日はよしとしたい





vendredi 2 janvier 2015

ブリュッセル3日目、グラン・プラスの空間を味わう


2015年二日目は、朝から重い雲で空が覆われ、雨模様

しかし、出かける頃には雨も上がり、晴れ間も見えた

朝のうち、近くのカフェで一仕事してから、スターリングラード通りを市庁舎方面に向かった

人通りは少なく、まだ眠りについている新年を思わせる

暫く歩くと、人だかりが目に入った



小便小僧の像であった

そこから続く道は人の波

これほどの人が出ているとは思わなかった

日本語も聞こえる

その人の波に乗って歩を進めると、市庁舎広場(グラン・プラス)に着いた

建物の至るところに金箔が使われ、華やかである

市庁舎の前には、王の家(Maison du Roi)があった






まだ、クリスマスの香りが残っている

広場というところに出ると、なぜか心が解放されたように感じる

この感覚は、ヨーロッパに来てからのものではないだろうか

昨日の写真にあったベルギーの英雄とされるフランソワ・アネセンス

1717年の暴動を首謀した罪で、1719年にこの広場で断頭台の露と消えたという




街中を歩いている時、どこからともなく心躍る音楽が聞こえてきたので動画ボタンを押した

新年初のビデオとなった


帰り道、Evasions というリブレリーを見つけ、そこで今年初の豊穣の時を過ごす

興味を惹かれる古本があり、数冊手に入れた




jeudi 1 janvier 2015

今年注目すること



ブリュッセルでの新年の朝、散策に出る

道には霜が降り、滑りやすくなっている

道が滑るという感覚も久しぶりである

どうも今年は滑る年になる予感がする


ホテルはアラビア文字が溢れる界隈にあることが判明

朝から開いていた天井の高いカフェに入る

なかなか感じが良い

今年最初の飲み物は、モロッコ・コーヒーとなった

カフェの親爺さんが 「ボナネ!」 と言って、握手を求めてきた

そこで、初仕事をした


今年の注目点は、どれだけ 「その中に入る」 ことができるのか

永遠すなわち至福の時をどれだけ味わうことができるのか

ということになりそうだ