「私には、例えばハクスレーのような賢い人にいちじるしい、事物をすばやく把握する能力も機知もない。それで私は批評家としてはだめである。人の論文や著書を読むと、初めはたいてい敬服する。よほど考えた後でないと、その弱点がわかってこない。私には長い純抽象的思索をやってゆく力はいたって乏しい。それだから哲学や数学をやっても、とても成功はおぼつかなかったと思う」
「総決算して良い方の部に入るのは、注意を逃れやすいような事物に気がつき、それをこくめいに観察することにおいて、一般の人にまさっていると思う。また事実を観察蒐集するために勉強することは、ほとんど極度に達した。さらにずっと重要なのは、私の自然科学に対する愛好心が変わらず、しかも熱烈であったことである」
こう書き残したのは、ダーウィンであった
これを読んだ時、懐かしく思い出したことがある
ニューヨークの研究所で恩師だったイギリス人EAB博士の言葉である
博士も自分のことを、頭の良い才気煥発なタイプではなく、slow thinker であると診断していた
そして、ダーウィンのような科学者を目指していると付け加えた
それ以来、どこかで slow thinker という生き方に興味を持った
その時まではこの逆を目指しているように感じていたが、その変更が儘ならなかったからである
残念ながら、この傾向は現代社会に溢れているのではないだろうか
そして、パリでの生活を振り返ってみると、それは slow thinker としての生活ではなかったのか
そんな思いが巡る
しかし、パリ生活がEAB博士の言葉に押されたという自覚はない
手元の記憶からも消えていた
ただ、このような出来事がどこかに堆積していて、その全体がこの体を動かしたのかもしれない
過去と現在が繋がっているように感じる瞬間、いつものことだが頭の中を涼風が吹き抜ける
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