dimanche 10 novembre 2013

オギュスタン・ベルクさんの語りを振り返る

Groupe des cinq, partie (Eugène Dodeigne, 1974)


今朝、最近触れたいくつかの言葉が繋がり、目が覚めた

ひとつは、丸山健二氏の言っていた 「ベタな表現」

「もの・こと」 をそのまま言っているに過ぎない、という意味だろうか

本居宣長に肖れば、意だけで済まし、姿には目が行かない状態になるのだろう

言葉の背後に何もない状態、すなわち考えていない状態とも言えるかもしれない


それから、茂木健一郎氏の 「日本人は国家は最初からそこあると思い、国家とは何かを考えない」 という言葉

これは状況の中でしか動くことができない状態、自分たちがいる状態を客体化できない状態を表現している

ルスラン・メジトフ(Ruslan Medzhitov)さんのところでも触れた 「対象の客体化の強度」 にも繋がる

この状態を克服するためには根源を問い直す哲学的な問いが不可欠になるが、われわれにそういう発想は乏しい


そこに、昨日聴いたオギュスタン・ベルクさんのお話が絡み合ってきたのだ

上の二つの状態を克服している、あるいはしようとした跡が見られる世界が広がっていると感じたからだろう

あるいはまた、そのような意識があったと言うよりも、文化が自然にそう要求しているのかもしれないが、、

日本では多い解説調のお話ではなく、自己がそこに深く関わっている思索の跡が見える語り

当然のことながら、それを表現する言葉も 「ベタ」 ではない

多くの示唆を得ていた時間であったことを改めて思う




Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire