samedi 31 août 2013

帰国して語る日、近し


9月に帰国することになっている

最近では「来日」と揶揄する人もいるが、それだけ長くなったということだろう  

天が鎮まることを願っているが、願いが叶うことはないと予想している

今回は、以下の大学で講演が予定されている

9月9日(月)
医学・科学のための哲学を考える
Think about how to utilize philosophy for medicine and science
東京医科大学

9月12日(木)
哲学の視点から科学を考える
Science through the lens of philosophy
奈良女子大学

9月13日(金)
新しい 「知のエティック」 を考える
Reflecting on a new 'ethics of knowledge'
博士課程教育リーディングプログラム
高い教養を涵養する特論
千葉大学
 
10日(火)、11日(水)にはサイファイカフェ・SHEがあるので、魔の1週間になりそうである

無事に終わることを願うばかりである



vendredi 30 août 2013

ジャック・ヴェルジェス氏亡くなる


前ブログで取り上げた弁護士ジャック・ヴェルジェス(Jacques Vvergès, 1925-2013)氏が8月15日に亡くなっていたことを知る

享年88


5年前、ほんの偶然からこの方を知るようになった

日本では見掛けない強烈な個性の持ち主だった




mercredi 28 août 2013

人生について広く語り、パリの宵を味わう


今夜は日本から乾誠治先生(熊本大学)が研究室の学生さんとともにパリを訪問された

ミラノでの国際免疫学会に参加後、明日帰国されるという忙しい時間を割いていただいた

お陰様で、研究、教育、哲学、宗教、人生などについて貴重なお話を伺うことができた

それは恰も、揺蕩うように流れる時を味わうようであった

わたしが研究している時には、それほどお話しする機会はなかったと記憶している
 
しかし、このような境遇に置かれるようになり、人生に絡む話題についても意見交換が可能になっている

実に不思議である

庵の住人としては、今を生きる若い方のご意見は外気に触れたような気分で、大いに参考になった

拙エッセイも読んでいただいているとのこと

その中に、これからの指針のようなものが見つかるとすれば嬉しいのだが、、、


今夜は、最近では稀ではないが、危うく写真を撮るのを忘れるところであった

それくらい、話に花が咲き、集中していたということだろう

その詳細も折に触れて浮び上がってくるのではないだろうか

このような時間はこれからも大切にしていきたいものである




vendredi 23 août 2013

休みを取ること、考えること、そして懐かしさが繋がる


昨日は朝から用事で街に出る

銀行のようなところでも日仏文化比較などの会話ができる

日本では仕事に関係のない話題について個人的な意見の交換などできないだろう

仕事で相手に対している時は、自らを殺し、ある型の中で動いているように見えることが多い

こちらの様子を見ていると、公的な時にも個を出すことには抵抗がないように見える

人間がいつも生きているように見えるのだ
 
因みに、彼女が1か月のヴァカンスから帰ってきたというところから、そちらの話題に入って行った


話をしながら考えていた

1か月の休みを取るということは、まさに日常から離れること

忙しく動いている時には難しいだろういろいろなことに思いを巡らす時間が与えられることを意味している

そこでは抽象的なことにも目をやる余裕ができるだろう

自らと対話する時間も必然的に増えることだろう

敢えて言えば、哲学する時間がそこにできることになる

日本には、忙しく動いていることが充実していることであり、望ましいという文化があるように見える

日本が考えていないように見えるのは、休みも取らずに忙しくしていることが関係しているのではないか

兎に角、考えるためには心の余裕が生まれる無為な時間が必要になるからだ

この話題、前夜日本からパリに立ち寄った方との話にも繋がる



 ところで、銀行では懐かしさを呼ぶ言葉と出会った



それから興味深い繋がりが現れた

用事を済ませた後、割と気に入っているリブレリーへ

そこでバルバラ・カッサン(Barbara Cassin, 1947-)という初めての方の本を手に取った


その中に、昨日取り上げた先日観たばかりのハンナ・アーレント(1906-1975)さんのインタビューのことが出てくる

また、僅か28歳で亡くなったノヴァーリス(1772-1801)のこんな言葉もあった

 「哲学は、厳密に言うと、郷愁である

それはあらゆる場所を自分の家にするように駆り立てる何かである

哲学するわれわれが自分の家の外のあらゆる場所にいる時にだけ、哲学が哲学たり得るのである」

哲学とは、つまり、この世界の全体と常に一体になっているということなのか

その全体に向けての運動が哲学であり、そのモーターが郷愁ということになるのか


自らを振り返ってみる

そこには人類の営みのすべてに対する想いが見えてくる

このところ感じていたのは、この世界には人類の営みの蓄積しかないということである

 その全体に対する強い想い

それを郷愁と言ったノヴァーリスの慧眼に感心する


それだけではなかった

帰って調べると、以前に読んだアラン・バディウ(1937-)さんとの共著があることがわかった


 何とも嬉しい発見であった




jeudi 22 août 2013

ハンナ・アーレントさん、政治と哲学を語る




このブログでも彼女の映画について触れている

映画 "Hannah Arendt" を観る(2013-04-26)



先日、政治についての彼女の考えを聴いた

聞き手はギュンター・ガウス(Günter Gaus)さん

お二人とも煙草をやりながらのインタビューで、なかなか味がある

今の日本では大変なことになりそうだが、アーレントさんであれば何と論駁するだろうか

 真剣勝負の迫力あるインタビュー

このような緊張感のある対話を観ることも少なくなった

今回印象に残ったアーレントさんの言葉をいくつか

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「私は政治哲学者ではない、政治理論の専門家である

哲学と政治はそもそも緊張関係にある

それぞれ静的な思考の世界と行動の世界にあるからだ」



「わたしにとって最も重要なことは理解すること、その思考過程が最も重要である

何かを言うため、影響を与えるために書くのではない、理解するために書いている

読者がそのように理解してくれるとすれば、最高の満足である」



「第二次大戦中の経験から、インテリはあらゆることの解釈を捏造することを知った

そしてお互いを批判しない

インテリの中では協力するが、その外とは関係を持たない

それがインテリというものの本質であることがわかった

それ以来、インテリの世界には一切関与しないことにした」



「英語もフランス語もやるが、ドイツ語は何物にも代えがたい

豊かな仕事は母国語からしか出てこない」



ヤスパースが話し始めると、すべてが明快になる

彼ほど話すことに信頼を置いている人間を見たことがない

彼は理性と繋がる自由を理解していた

それが実践されている現場に居合わせることができたのである」




mercredi 21 août 2013

久し振りのパサージュ、そして一つの疑問が解ける


昨日は朝から用事があり街に出た

想像以上に気持ち良く 「こと」 を済ますことができた

最終的に良かったのかどうかは、来月にならなければわからない

気分よく歩いているとパサージュが現れたので躊躇なく入る

その瞬間、外とは違う空間に身を置いたためか、解放感のようなものが襲ってくる

早速写真に収めた

しかし、今その感覚を味わうことはできない

観察者がその中にいる時とそこから離れて見直す時に現れる大きな違いを改めて感じる

小さな食堂と言った方が良い洒落たお店がいくつか目に付いた


ところで、帰りに先日閉じ込められた公園の横を通った

その時、笛を吹き、そのまま歩き去る男を見掛ける

背中にSECURITEの文字があったので、公園を管理している人だろう

丁度7時半であった 

少なくとも、30分前に警告を発していることはわかった

門を閉める前にもお願いしたいところである

 当分の間は入らないことにしたのだが、、、





mardi 20 août 2013

中野幹三著 『統合失調症の精神分析』 を読む


ひょんなことから手にする本がある

普通はその中に何か通じるものを読み取り、さらに読み進むというものが多い

だが、この本との付き合いはこれまで避けていた義務的な要素が強いものとなった

専門外のお話に長い時間耐えたためだろうか、それ以前には見えなかった景色が今拡がっている

最初に、なぜ義務的な読書になったのかがわかる著者との遭遇について触れてみたい

このエピソードは、これまでもどこかに書いているはずである


2006年春、わたしはあるレストランのカウンターで偶然に隣り合わせた方と言葉を交わすことになった

その方から 「タンパク質に精神があると思いますか?」 という問いを投げ掛けられたのである

それまで物理還元主義を金科玉条の御旗としていた免疫学の研究者にとって、それは形容し難い衝撃であった

と同時に、このような問いが成立し得る世界に強い興味を覚えたのである

さらに、現代科学における頭の使い方、問いの出し方には大きな制約が加わっていることにも気付くことになった

翌年には退職することになっていたわたしは、残りの時間のすべてを考え、振り返ることに使おうと考え始めていた

これまで先送りにしてきた問題や人類の遺産の中を自由に散策したいという欲求を感じていたのである

もしこの時期でなければ、このような問いに対しては冷淡な態度をとっていたのではないかと想像される

そして、今年の春に帰国した折、再びそのレストランを訪れた

そこで何と7年ぶりにその方と再会することになったのである

精神科の医師、中野幹三氏であった

これからは医療の現場を離れ隠居されること、そしてこれまでの成果を本に纏められたことを知らされた

統合失調症の精神分析―心的装置の「無底」と 根源的アイデンティティ―』 (金剛出版、2013)


症例がふんだんに取り上げられているこの本を読み始めてまず驚いたことは、患者さんの発する言葉であった

常人の想像を超える奔放さで言葉が氾濫しているという印象であった
 
そこに見られる詩的で、時に哲学的な響きのある遠慮の無さにも驚くことになった

わたしの感想について、中野先生からのお便りには次の言葉があった

「傷ついたものだけに与えられた特別な感受性があるように思われます

それが自然の神秘を、我々凡人に教えてくれているように感じています」


われわれは日常に生きるために思考せずに済むようルチーン化された中に身を置いている

われわれの精神の動きは、この社会に生きるためにその迸りを抑制されているのではないか

そして、その日常にこのような精神が侵入した時、社会はどの程度許容できるのだろうか

普通は異質なもの、日常を妨げるものとして容易に排除されることになりそうである

 

さらに驚いたことは、胎児と母親との間の関係が、その後の精神の状態に影響を与える可能性

患者さんが胎児期のことを雄弁に語っていることであった

以前は視野になかった意識のないところでの影響も、今では想像できなくもない

しかし、普通は証明が難しそうに見えることは捨象てしまいやすい
 
やはり、病気になることにより、普段は向かわない意識の深いところに入って行けるということなのか


フロイトの言うエスが最も深い 「無底」 と言われるところにあり、そこから自我が生まれてくるという


その過程に断絶が起こると統合失調症になるという考え

エスの中で起こるリビドー備給とそれに対抗する機転があるとする仮定

そのバランスにより生命の発露であるエロスが花開いたり、抑制されたりするという見方

実に興味深い


意識されていない自らの根のようなところに生命の根源があり、そこで普通はゆったりできる

しかしその場所から引き離され、居場所がなくなることが統合失調症の原因になりそうだとの結論

つまり、深いレベルでのアイデンティティに絡む病気であることになる

わたしの中では、物理化学的な視点でのアイデンティティしか頭になかった

しかし、精神の奥深いところにアイデンティティを決めるものがあり、それをこの病気の本質と捉える見方

この本を読む前にははっきりしなかったこの病気のイメージが、ぼんやりと顔を出してきたという印象がある


その他にも原母と原父という概念や日本の神話の分析から得られた異界とエス、霊魂とエロスとの対応など

興味深い解析がされていた

残念ながら、これらの背景に関する知識が不足していて十分な理解には至らなかった

ただ、これからこの方面のものを読んでいくための一つの指標になりそうである




lundi 19 août 2013

世界最高齢は 123歳?




世界最高齢のボリビア人

アンデス山脈の4000メートルのところで一人で暮らす123歳

メールのサイトでニュースとなっていた



検索したところ、AFPよりNHKのニュースの方が詳しいようだ





vendredi 16 août 2013

宮崎駿対談を観る



昨日と少しは繋がっているのだろうか

いろいろ歩いている時に行き当たった

落ち着いた話が聴ける






jeudi 15 août 2013

8月15日のひこうき雲

8月15日の日の出


すでに空は荒らされていた

日本では新井由美の 「ひこうき雲」 が話題とのこと

久しぶりに聴いてみた


 ユーミンについては思い出すことがある

7年に亘るアメリカから帰り、最初に聴いたのがユーミンのカセット・テープだった 

そこで感じたのは、アメリカの女性とは違う日本女性の柔らかさであった

漢字ではなく、ひらかなの世界とでも言えばよいのだろうか

遥か彼方の記憶が蘇ってくるのも捨て難い



ここでは違うバージョンを貼り付けてみた






mardi 13 août 2013

文系と理系の研究、そして専門の深化と超越について


「セーレーテ シュール ラジオ・クラシックッ」

"C'est l'été sur Radio Classique"

ラジオをつけると流れるゆったりしたこの語りが心地よかった

 このところ、昔の放送を聴くような印象がある

それほど涼しさを感じるようになっている


科学の分野にいる時、文系の方が特定の作家や哲学者について研究することに違和感を持っていた

「・・・における…の問題について」 という類いである

一人の人間の中に入って研究することが、窮屈に見えたからだろう

もっといろいろな問題について考えてもよいのではないか、とぼんやり考えていたのである

その固定観念はこちらに来てからも変わらず、一つの問題について多方面から考えたいと思ってやってきた


ところがどうだろうか

いろいろな人について読み、その問題についての考えは深まるかもしれない

しかし、それだけでは視点が軸がしっかりしないように感じるようになっている

自分だけに頼っているためか、深度に限界があるように見えるのである

一人に絞って、その人間から見える世界について深めておくことも有効なのではないか

ある人間が、どのようなことを問題とし、それをどのように考えていたかの詳細を知っていること

それは無駄ではないどころか、一つの指標として欠かせないのではないか

問題は、そこに留まっているのではなく、そこからより広く大きな問いに向かうことができるかにあるのではないか

そんな考えも浮かんでくる


 翻って、科学の領域について見直してみる

実は、そこで行われることも 「・・・における・・・の問題について」 の研究ではないのか

今ではその度合いがどんどん進んでいる気配さえある

ここでも、そこからどれだけ大きな問いに向かうことができるのかが問題になるのだろう

そうすると、わたしがぼんやり考えていた文系の研究と本質的に変わらないことになる

一つを深め、それを広げるという作業が必要だという点において

いずれも時間のかかる大変な営みになるのだろう

「いずれも」 には文系と理系という含みと、営みの前半と後半という含みがある

前半と後半について言えば、「こと」 を後半にまで持ち込みたいものである

そんな考えが巡ったヴァカンス真っ只中である




lundi 12 août 2013

連載エッセイ第7回 「 ニールス・イェルネというヨーロッパの哲学的科学者から見えてくるもの」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第7回エッセイを紹介いたします

 ご一読、ご批判いただければ幸いです



samedi 10 août 2013

オッカムのほうき "Ockham's Broom" をどう扱うか


先日、「オッカムのほうき」(Ockham's Broom) という言葉を初めて聞いた

哲学に詳しい方は 「オッカムの剃刀」 (Ockham's razor) には馴染があるはず

オッカムのウィリアム (William of Ockham, 1285-1347)が使った哲学的推論のための原則である

現代的に解釈すれば、こうなるだろうか

競合する仮説がある時には、推論がより少ない仮説を選ぶべきである

あるいは、最も単純な仮説が最も真実に近い

剃刀で贅肉を削ぎ落とすという含みがあるのだろうか

常に正しいわけではないが、よく出される考え方である


ところで、ほうきの方はどうだろうか

剃刀が14世紀ならば、こちらは現代である

哲学的科学者と言えるシドニー・ブレナー(Sydney Brenner, 1927-)さんが考えた造語とのこと

いつも興味深いことを考えている

その意味するところは、不都合な事実をカーペットの下に掃いて隠すためのほうき

その行為も含んでいるのだろう

まだ広まっていない言葉である


科学の領域で説明できない事実がある時、それを除外して論を進め、発表しようとする

そのために大切なことを見逃すこともある
 
このほうきは科学の領域に限らず至るところで使われているようで、厭というほど見せつけられている

偶にカーペットをひっくり返して掃除すると、重要な発見が待っているかもしれない


オッカムのほうきの例を免疫学に求めれば、免疫反応を増強するために使われるアジュバントがあるだろう

抗原とともに細菌などが入ったアジュバントを投与しなければ、抗体がなかなか作られないことがある

長い間そのことには目を瞑り、アジュバントを思考の外に置いて研究が進められていた

そこに、これは免疫学の "dirty little secret" だと指摘する人物が現れたのである

残念ながら脳腫瘍で若くして亡くなったチャールズ・ジェインウェイ(Charles Janeway, Jr., 1943–2003)さんである

その指摘により、進化の早い時期から存在する細胞がまず活性化しなければ免疫反応が起こらないことが明らかになった

そこにアジュバントが絡んでいたわけである

この流れはジュール・ホフマン(Jules Hoffmann, 1941-)さんらの2011年のノーベル賞に繋がることになった


真理に近づくためには、至るところにあるオッカムのほうきを一掃する必要があるかもしれない




jeudi 8 août 2013

昔のブログを眺め、古い日本に触れる

アンリ・マルタン 『秋の橋』 
Henri Martin (1860-1943)
Pont à l'automne


連日30℃を超える日々も懐かしく、そよ吹く風にはすでに秋の気配が忍び込んでいる

今年は夏バテのようなものを経験

日本の状況を重ねあわせれば、今まさに夏休み

こちらでもそれに肖ろうという気分である


先日、前ブログ A view from Paris をぼんやりと眺めていた

こちらに来る前後の2007年から4年間、休みなく書いている

よくもいろいろなことを書いているものだと感心することしきり

受容体が全開だったことがわかる

読み直すと思い出すが、今に繋がることを引き出すことができない

 走りながら書いていたのだろう

反応することに追われ、振り返る余裕がなかったようだ
 
これが最初のブログと違う点になる

こちらに来た当初は、わずか2年のブログに残された思索内容がよく浮かんできたものだ

見方を変えると、AVFPには生の素材が眠っていて、何か新鮮なものを抽出できる可能性がある

もう少しあとの作業になるのだろうが、、


そしていま、この場においては徐々に走る速度を緩め、一歩引いてものを観ようとしているようだ

日常的に目に触れるところから離れ、中に、奥に入るとでも形容される視点への移行だろうか

 興味深い変化である

ブログは2005年2月から始めているので、もう8年目に入っていることになる

変化があって当然なのだろう



ところで、今週に入ってからはお休みモードになり、日本のものに触れていた

西田幾多郎や西行に関するものなど

こういう時、頭の切り替えが必要である

科学と哲学と文学と宗教

西洋と東洋・日本

フランス語・英語と日本語

 まさに、頭の体操、筋肉運動である

どんなこともすべてを知ることはできないのだから、すべてについて少しずつ知りましょう

そう言うパスカルさんに従っているようである



samedi 3 août 2013

何のために、誰のために哲学するのか


7月上旬、モンペリエで "ISHPSSB 2013" に参加した

International Society for History, Philosophy and Social Studies of Biology の隔年の会である

その中に、3月に出た本についてのラウンド・テーブルがあった


主題とは直接関係ないが、印象に残る編者からの問い掛けがあった

モントリオール大学の哲学者フレデリック・ブシャール(Frédéric Bouchard)さんの発言である


科学者ではない哲学者がどういう立場で哲学するのかを明確にしなければならない

逆に言うと、一つの問題を論じる時にその立場が自ずと明らかになる

つまり

生物学に何らかの貢献をしようとして哲学するのか

生物学の現場とは関係なく、自らの興味に基づいて哲学するのか

生物学を哲学するのは形而上学への問題提起を探るためなのか

生物学の哲学の存在意義をどこに見ているのかを考えよ、ということである


これは科学にいた者にとっては至極当たり前の問いになる

科学者が哲学を敬遠するのは、そこで何が行われているのかわからないことがある

たとえそれがわかったとしても、科学に役に立つのかという疑問が付いて回る

哲学など頭になくても科学者としては十分にやっていけるというのが普通の受け止めである

それ故、哲学をどういう立場でやるのかを問うことなしに科学にその必要性を説くことは不可能だろう

生物学者に対する哲学教育をどう考えるかという問題とも直結してくる

意外にも、科学者への教育は哲学の側の盲点になっているというのが今回の会での印象であった


いずれにせよ、これらの問い掛けは何も生物学の哲学に限らず、あらゆる分野で求められることなのだろうが、、、





jeudi 1 août 2013

映画 "Le Quatuor" 「25年目の弦楽四重奏」 を観る

フランス語で 「ル・クワテュオール」 をラ・パゴドLa Pagode) で観る

日本でも 「25年目の弦楽四重奏」 として上映中の模様

この劇場の前は何度も通っているが、入るのは初めて

 この映画に気が付いたのは、月初めのモンペリエ

生憎、連日猛暑の上忙しく、その時間は取れなかった

昨日、ヴァカンスの街を味わうとともに、この映画をやっと観ることができた


舞台がマンハッタンで、住んでいたすぐ近くの景色も出てくるので親しみを感じる

冒頭から時間の問題が出てくる

過去、現在、未来が相互に入り組んでいるというような

始めには終わりが、終わりには始まりが組み込まれているというような

ダーウィンの自然選択が出てきたりする

話題やテンポのとり方がややヨーロッパぽい

心理劇とでもいうのだろうか

4半世紀も一緒にやっているカルテットのチェリストがパーキンソン病に罹っていることがわかる

それからそれぞれの間で生々しい感情と人の交錯が表に出てくる

エピキュリアンとしては避けたいものばかりだったが、観ている分には問題なしとしたい

総じて言えば、それほどの違和感なく味わうことができたアメリカ映画であった



時間のお話は、T・S・エリオット(Thomas Stearns Eliot, 1888-1965)が絡んでいるのだろうか

最後のクレジットに名前があったような気がしたが、、

例えば、こんなのがある



BURNT NORTON (No. 1 of 'Four Quartets')

I

Time present and time past
Are both perhaps present in time future,
And time future contained in time past.
If all time is eternally present
All time is unredeemable.
What might have been is an abstraction
Remaining a perpetual possibility
Only in a world of speculation.
What might have been and what has been
Point to one end, which is always present.
Footfalls echo in the memory
Down the passage which we did not take
Towards the door we never opened
Into the rose-garden. My words echo
Thus, in your mind.
But to what purpose
Disturbing the dust on a bowl of rose-leaves
I do not know.
Other echoes
Inhabit the garden. Shall we follow?
Quick, said the bird, find them, find them,
Round the corner. Through the first gate,
Into our first world, shall we follow
The deception of the thrush? Into our first world.
There they were, dignified, invisible,
Moving without pressure, over the dead leaves,
In the autumn heat, through the vibrant air,
And the bird called, in response to
The unheard music hidden in the shrubbery,
And the unseen eyebeam crossed, for the roses
Had the look of flowers that are looked at.
There they were as our guests, accepted and accepting.
So we moved, and they, in a formal pattern,
Along the empty alley, into the box circle,
To look down into the drained pool.
Dry the pool, dry concrete, brown edged,
And the pool was filled with water out of sunlight,
And the lotos rose, quietly, quietly,
The surface glittered out of heart of light,
And they were behind us, reflected in the pool.
Then a cloud passed, and the pool was empty.
Go, said the bird, for the leaves were full of children,
Hidden excitedly, containing laughter.
Go, go, go, said the bird: human kind
Cannot bear very much reality.
Time past and time future
What might have been and what has been
Point to one end, which is always present.