jeudi 30 juin 2011

ニューヨークの残り香を味わう




早いもので今日で一年の半分が経過したことになる。
今年の初めも思い出すことはできないが、この間に少しは前に進んでいるのだろうか。
横に歩み始めたことは何となく感じるのだが、、。

今日はニューヨークで触れた領域を振り返っていた。
マルチェロ・バルビエリさんから論文が送られてきたり、注文した本も届き始めている。
これまでに溜まっていることとどこかで結び付くようなことになればよいのだが、、。

人間のすることに無駄と言われるものはないと感じるようになっている。
すべてはどのような時間の枠で見るかに掛っていると思うからだ。
見方を変えると、いろいろな枠を用意して物事を見直す作業が必要になるということだろうか。

今週はゆっくりとニューヨークの残り香を味わうことになりそうだ。





ところで、ニューヨークでは昔のように毎日薄いアメリカンコーヒーをがぶ飲みしていた。
周りは声が大きく、話が速いのである。
エスプレッソではあの騒音と流れの速さに太刀打ちできないのだ。

日曜のこと、読んでいた本から目を上げるとこんな景色が目に入り失礼させていただいた。
お話を伺っていると大学の先生のようで、物凄いエネルギーを発散されていた。
東洋の端から来た者などは吹けば飛ぶよな存在感である。
人のことは言えないが、アメリカの健康問題もこれから大変そうである。


mercredi 29 juin 2011

クラーク精神から近代科学の受容と日本のこれからを考える


William Smith Clark (1826-1886)
Source: Hokkaido University Library


今年の3月11日、日本を揺るがす地震・津波・放射能汚染の被害が東北地方を中心に広がった。まさに黙示録(アポカリプス)の世界とも言われるこの災害により、自然の驚異的な力に改めて畏怖の念を覚えただけではなく、科学技術を用いる際のわれわれの考え方に大きな問題があることも見えてきた。アポカリプスとはカタストロフィーではなく、それまで隠れていたことが顕わになることを意味している。それは科学を具体化する人たちの精神の荒廃であり、われわれ自身が持っていなければならない科学精神の衰弱をも意味しているように見える。

2010年10月のある夜、日本語を読みたくなった私はその前年日本の古本屋で手に入れた渡辺正雄著『日本人と近代科学』(岩波新書、1967年)を読んでいた (この本については、前ブログで紹介している)。日本とアメリカで科学をやった後フランスで科学哲学を学ぶ中、日本の科学は技術を優先し、それができれば事足れりとするところがあり、科学の精神面での理解が欠落しているのではないかと感じるようになっていた。この本を手に取ったのは、そこに何らかのヒントがあるのではないかという期待があったからかもしれない。

著者の渡辺氏は、西洋の近代科学を見る場合の軸として忘れてならないのはキリスト教であることを強調している。西洋の伝統的な世界観は神を基本とし、神が創造した自然の中に現れているだろう法則を見つけ出すのが科学(者)の仕事であったと考えている。その上で、明治期の日本が西洋の学術を摂取する際、それを生み出した思想的・文化的基盤に思いを致すことなく、技術的な導入・模倣に終始したこと、そして学術の諸分野の相互の関連を考慮することもなく、細分化された専門分野を個別に学び取ってきたその状態が継続したことが現在の問題を引き起こす原因になっていると見立てている。そして、しばらくするとこのような文章が現れ、目から鱗が落ちることになった。
「それだけに、同じ時代のこの日本の一部にキリスト教的観点を最重要視したキリスト教主導の教育(女子教育も含む)が開始されていたこと、またW.S.クラークを初代教頭に迎えた札幌農学校のように、国立でありながらキリスト教と近代科学の両面に重きを置いた教育機関が存在していたことの意義は無視してならないところである」

つまり、北海道大学の前身には科学を技術的側面だけではなく、その文化的・思想的背景を含めて学ぶことが可能な環境が揃っていたことが見えてくる。著者はこの本のテーマの外にあるとして、この問題に深入りしていない。このような指摘を読むのはこの時が初めだったので、当時の状況を調べてみた。



内村鑑三(1861-1930)
Source: Hokkaido University Library


札幌農学校では第一期生からキリスト教精神としての理想主義、道徳教育、博愛精神などが教育の基本に置かれ、英語で教育が行われていた。一期生には後の農学校長で、東北帝国大学農科大学長や北海道帝国大学初代総長を務めた佐藤昌介、二期生には新渡戸稲造、内村鑑三などの日本、そして世界をリードする人材がいたことはあまりにも有名である。しかし、時代とともに当初の理想が忘れられ、内村鑑三は1926年5月14日に開かれた大学創基50周年の折に次のような言葉を北海タイムス紙(現在の北海道新聞)に発表し、式典への招待を断っている。

「明治の初年において、私どもが北海道についていだいた理想は、はなはだ高いものでありました。その第一は北海道を浄化せんとすることでありました。
・・・ここ札幌を日本第一の収穫地ならびに精神の修養地となさんことでありました。
しかしながら今日にいたって事実如何と観察すれば、理想はいずれも裏切られたのであります。北海道は日本を浄化するどころか、かえって内地の俗化するところとなりました。いまや日本中で北海道ほど俗人のばっこするところはないと思います。
・・・
札幌が出したものは多数の従順なる官僚、利欲にたけたる実業家、又は温良の紳士であります。しかれども正義に燃え、真理を熱愛し、社会人類のために犠牲たらんとする人物は一人も出しません。積極的の大人物でありません。進んで善事を及ぼさんといたしません。主として消極的の人間であります。
私はクラーク先生の精神は、札幌に残っているとは思いません。残っているのは先生の名であります。そして今度先生の銅像ができたとのことであります。しかしそれだけのことであります。先生の自由の精神、キリストの信仰、それは今は札幌にありません。札幌は先生のボーイズ・ビー・アンビシャスの広い意味においてこれを知りません」
(蝦名賢造著 『札幌農学校・北海道大学百二十五年―クラーク精神の継承と北大中興の祖・杉野目晴貞』p.64-65; 西田書店、2003年)

事に当たる時、自らの精神の中に入り、自らを振り返ることの大切さを農学校開校当時の教育者は教え、学生もその哲学の下に研鑽に励んでいた。知識だけではなく、その知識を支えるべき精神的基盤を重視する教育であった。しかし、その精神が次第に風化し、内村の痛烈な批判を受けることになる。

わたしは経験を積み重ねる中で、教育についてこのように考えるようになった。それは、行動の基に哲学的思索を置き、その哲学を生きることにより世界を変えることができることを次世代に伝えることに尽きるのではないかというものだ。背後にある精神を忘れたまま、技術に偏った片肺飛行を続ける日本の現状を目にする時、ウィリアム・クラーク博士の精神性溢れる教育に想いを致し、その精神を蘇らせることが今求められているのではないだろうか。



新渡戸稲造(1862-1933)
Ⓒ 2004 National Diet Library, Japan


ここで、クラーク精神という言葉からさらに想像を羽ばたかせてみたい。この精神の基本にはキリスト教の理想主義や博愛精神があったとされるが、それを可能にするためにはものを考える時に省みる姿勢、自らに戻る精神運動がなければならないだろう。自らを対象にすることもその一つだが、自らの行っている仕事や研究、自らの属する社会(家庭から国家まで)も対象になり得るし、すべきだろう。それならほとんどの人がやっていると答えるかもしれない。しかし、ここで言う 「考える、省みる」 とは、仕事や研究の中の細かい事柄、家の中の具体的なやりくりを対象にしているのではない。仕事をするということ、仕事が対象としているもの、仕事と他のこととの関係など、仕事そのもののについて考えることを意味している。ここで言う仕事はあらゆることに置換できる。例えば、医者はいろいろな病気の発症メカニズム、診断法、治療法については詳しく知っているが、そもそも病気とは何なのかについて考えているとは限らないという状況と似ている。つまり、専門の中で考えるのではなく、それを超えた知を求める姿勢、専門を上から見て考える姿勢とでも換言できるかもしれない。

哲学の定義は人様々だろう。わたしは上で述べたような姿勢で対象に当たるのが哲学的態度だと考えている。そうすると、遠くから眺める日本の空間にはこの姿勢が著しく乏しいように見える。そして、おそらくそのことが原因ではないかと想像されるが、日本が一人の大人としてこの世界に生きているという姿が見えてこない。日本人の知性が見えてこないのだ。上で述べたような意味での哲学を一人ひとりが実践することがなければ、いつまでもこの状況は変わらないだろう。生き生きとした空間には変貌しないだろう。その基礎ができて初めて日本の科学のみならず国としての再生が静かに始まるような気がしている。ユートピアンの遥かな夢だろうか。



mardi 28 juin 2011

真夏のパリに戻り、その静けさに驚く


Circle of Animals/Zodiac Heads

艾未未 Ai Weiwei (b. 1957)


今朝、パリに戻ってきた。
アパルトマンに戻り、その静けさに初めて気付く。
自然の音しか聞こえないと言っても過言ではない。
時の流れが見えるようだ。
ここに4年にいてからのマンハッタン。
その音に過剰に反応したのはごくごく自然だったのではないか。





ニューヨークのあの喧騒は常にこの現実に注意を引き付ける。
今に対応し、今の事実を集めるのに忙しくなるのはよく理解できる。
少し引いて考えましょうか、などという余裕を与えない流れの速さがある。
聞えてくる会話も今のことばかり。
ただ、その今のことについてはかなりしつこく追求する。
そのレベルは追究と言った方がよいところまで行くことがある。
それはなかなか真似できないところだ。




Empire
Eva Rothschild (b. 1972)


マンハッタンに比べると、ここでの生活は庵に籠っていると言ってよいだろう。
進歩から一見距離を取っているように見える旧大陸の落ち着き。
この空気は流れから離れて考えてみようとする者の生理に合っているようだ。



今日はマンハッタンにも劣らない蒸し暑さだ。
今や夏真っ盛りか。
今しがた遠雷と通り雨が行った。







lundi 27 juin 2011

ダグ・ハマーショルド・プラザで Steinunn Thórarinsdóttir さんの作品に感じる


Dag Hammarskjold Plaza


マンハッタン散策中、ダグ・ハマーショルド・プラザで不思議な造形に出遭った。
Steinunn Thórarinsdóttir (ステイナン・ソラランスドーティ? )という彫刻家の作品だった。
彼女は1955年、アイスランドはレイキャヴィークの生れ。
イギリスとイタリアでトレーニングを受けている。
この作品は BORDERS という。





















dimanche 26 juin 2011

フリック・コレクションでジョヴァンニ・ベリーニ、そしてイーストリバーサイドでの時間

昨日、オーガナイザーの Tori さんにこう言ってから会場を後にした。
わたしの抄録をプログラムに入れる決断をしたあなたの蛮勇に感謝します。

今日はニューヨーク最後の一日。
午前中、会で出遭った方々を振り返っていた。
関連のサイトで資料を眺め、本を注文したりしながら。
しばらく時間がかかりそうである。

午後からTori さんお勧めのフリック・コレクションへ。
何ということだろうか、ここは初めてになる。
こじんまりした美術館だ。
週末のせいか、結構混んでいる。
入り口でサックを一方の肩に掛けるか、前に抱えてくださいと言われる。
理由はわからないが、規則とのこと。
フェルメール、ラトゥール、ターナー、ベラスケス、ファン・ダイク、レンブラント、
グレコ、ゴヤ、ミレーなどが目に付く。




St. Francis in the Desert
Giovanni Bellini (c.1430-1516)


今、ジョヴァンニ・ベリーニの 「恍惚の聖フランチェスコ」 が再解釈されている。
アッシジの聖フランチェスコとイタリアルネサンスの画家の組み合わせになる。
フリック・コレクションの解説は次のようになっている。















1時間ほどでフリック・コレクションを出た後、イーストリバー沿いまで足を伸ばす。
週末には川の匂いと感じながらベンチに腰掛け、ニューヨークタイムズを読んでいた。
時にはジョギングをしたり、サイクリングもやったところだ。
FDRがすぐ横を走っているので非常に五月蠅い。
騒音の記憶は残っていないので、当時は気にならなかったのだろう。
しばらく我慢して数日前に手に入れたばかりの本を読みながら、ぼんやりする。


これまで遠くにあったアメリカでの7年の生活の意味について想いが巡っていた。
その中で浮かび上がってきた一つは、すでに触れたイギリス人の影響である。
カフェで会の準備をしている時、こんな問い掛けが聞こえた。
今、なぜ、こんなところで、こんなことをしているのか。
そして思い当たったのが、EAB先生との時間だったのである。

それから、なぜフランス文化にあれほどまでに入って行けたのかについて。
それも実はアメリカ生活と関係があるのではないか、という回答が浮かんできた。
アメリカ生活はわたしの中に米語による世界観を植え付けた。
その結果、日本に帰ってからもその世界観の中で生活していた。
頭の中が一色で染まっていたとでも言うのだろうか。
それがなければフランス語やフランス文化の異質さに気付かなかったのではないか。
あれほどの感度を以って。

再びのニューヨークで数十年前と今が確実に繋がっているような感覚が襲っていた。





samedi 25 juin 2011

会議最終日、発表はフレンチ・アクセント、そして新参者へのシャワー?

今朝は6時起き。
会議は今日が最終日で、発表が控えている。
早速、内容をチェックするために近くのカフェへ。
今回は毎日バージョンが変わるという目まぐるしい状態だった。
どのような内容にするのか、毎日発表を聞きながら迷っていたということだろう。
それが最後の瞬間まで続くことになった。
こういうことは初めての経験になる。
初めての分野なので致し方ないかもしれない。




朝の準備が長引き、30分ほど遅れて会場に到着。
しかし、予定が変更になり、30分遅れで始まるところだった。
何かを感じる。
わたしの発表は午後一番。
ランチを取りながらの最終チェックとなった。

発表は可もなし不可もなし、というところだろうか。
出来は別にして、ぶっつけ本番に近い方が気分的には盛り上がるタイプになる。
準備したものをこなすのではなく、その時の自分を総動員するからだろう。
発表を終えると、次々に質問というよりはサジェスチョンが出て驚く。
また、セッションが終わった後も多くの方から言葉を掛けていただいた。
新しく入ってきた者へのシャワーなのだろうか。




カナダの言語学の老教授は若い学生に対するように語りかけてくれた。
あなたの研究にはこのような考え方がよいのではないか、という調子である。
後ほど関連文献を送っていただけるという。

イタリアの神経生物学の教授は、あなたの頭の使い方に共感すると言っていた。
彼自身も3年前にこの分野に入ってきたからだろう。

ブリュッセルの人工知能の研究者からはこんな提案があった。
お互いにご近所なので行き来しながらディスカッションしましょう。

ドリオン・セーガンさんからは新しい見方を展開している方を紹介していただくことに。
コペンハーゲンの研究者はいろいろと仲介の労を取ってくれた。
こちらから頼んだ訳ではないので、新人に対する心遣いなのだろうか。
そして、関連文献を山ほど送るとのこと。
これからもお世話になりそうだ。

2日前のパーティで向かい中央になった方はプラハで教えているアメリカ人。
右の若者はパリ大学でテーズを終え、デューク大学でポスドクをやっているカナダ人。
そして、左の方はカンザスの科学技術館で進化や創発を研究しているスペイン人。
とにかく、人の動きがダイナミックだ。
地球を広く使っている彼らの姿が浮かび上がる。




嵐が過ぎると頭の中が熱くなり、形の見えない塊が渦巻いているように感じる。
これをカオスと言うのだろうか。
これから読まなければならない論文や本の山ができそうである。
それにしてもありがたい出遭いを齎してくれた会であった。
一つの理由は分野が小さいので付き合いが濃い可能性がある。
そこに初めての人が入ってくれば一目瞭然だろう。
そのことに気付かないというお目出度さなのだ。
二つ目は基盤を作るのがこれからという熱のようなものがあるためかもしれない。
それが成功するのか、失敗に終わるのか。
役人の科学ではなく、芸術家の科学とでも形容すると誤解を招くだろうか。





発表の後、パーティで横になったロンドンの建築家とも言葉を交わす。
彼の発表は結構レベルが高いもので感心して聞いていた。
わたしの発表について、彼は少しにやりとしながらこう言った。
あなたの英語にはフレンチ・アクセントがありますよ。

あれほど違和感があったはずのフランス人の英語。
そう言えば、このところその英語に抵抗がなくなっているとは思っていたのだが、、。
フランス人の英語に感染していたとは、ショックである。
ニューヨーク・アクセントがありますよ、などと言われた時代は遥か彼方のようだ。





とにかく、すべてが終わって気分が晴れ上がったニューヨークの週末。
マンハッタンをいつものように横断する。
僅か1週間程度だが、パリを発った時の状態を思い出すことができない。
今回は完全に別世界に入っていたのでその感が特に強い。

途中、シガーでもと思ったが、吸う場所がない。
道に出た席でも駄目。
あなたにとっても周りの人にとってもよいのですよ、とは女主人の言葉。
不健康なパリが懐かしい。






vendredi 24 juin 2011

会議三日目、気分すっきり二題、不思議一題


本日も曇り。
高層ビルは霧の中。
じめじめした日々が続いている。




午前中のセッションから。
座長が演者の写真を撮っている。
何とも長閑な景色だ。
これでよいのだろう。







Dr. Marcello Barbieri (Italy) vs. Dr. Søren Brier (Denmark)


そうかと思うと、激しいやり取りもあった。
新しい見方を提示した方とその見方を注意深く見る必要があるとする方との間で。
注意を喚起したいバルビエリさんは席を立ち、歩き回りながら自説を展開した。
このような真剣さを見るのは精神衛生によい。
時間がしっかり守られているのもよい精神状態に貢献しているのかもしれない。





お昼の休みにイサム・ノグチさんと遭遇したレストランを再度探してみた。
どこか気になったのだろう。
前回入った道をさらに進んでみたところ、そのレストランが現れた。
記憶が全く当てにならない。
名前は覚えていなかったが、1979年開店とあったので間違いない。
中に入るとご主人はこちらの顔に馴染みがあると言う。
細かいことも正確に覚えていたことには驚いた。
残念ながら、わたしの方は記憶がなくなっている。
ただ、話しているうちに昔の感覚は戻ってきた。

ノグチさんはこの町にいる時には週に一度、決まった席に座っていたとのこと。
お住まいもすぐ近くで、わたしの隣組だったことを初めて知る。
ご主人の口からは、衰退する日本を心配する言葉が多く出ていた。

すっきりした気分で午後のセッションに向かった。



Dorion Sagan (b. 1959, science writer)


午後、カール・セーガンさんリン・マーギュリスさんの息子さんが登壇。
実に不思議な気分だ。
わたしがアメリカにいる当時、カールさんはテレビで宇宙の不思議を語っていた。
あの独特の口調で。
そして今その息子さんが科学と哲学について語っている。
なぜか不思議な気分になるのだ。



Dr. Sara Cannizarro (London) and Dr. Kalevi Kull (Estonia)






jeudi 23 juin 2011

会議二日目、欧米日の違い、そして夕食会


Dr. Victoria Alexander (organizer) & Daniella (intern)


まだでしたよね、と言ってオーガナイザーの Tori さんが挨拶してくれる。
昨日の彼女の発表を聞いて、わたしの視点と近いところがあるのがわかる。
専門は違うが、キーワードがかなり重なっている。
わたしのような者にも寛大な理由がそのあたりにあるのかもしれない。
師匠の教えを守り、伝統に安住するタイプではないようだ。
これから先に繋がる何かがあるような印象を持った。

一方、ヨーロッパの権威と思われる方は若手の質問を切り捨てていた。
科学の分野ではあまり見かけない光景だ。
このような方はお一人だけだったが、、。
二日間の印象でしかないが、ヨーロッパの方は伝統に忠実なところがある。
それに対して、新大陸では歴史に拘らず自由に研究しているように見える。


お昼に外に出ると今日も雨。
雨宿りのため近場のレストランに入る。
それから昨日と同様の豪雨となった。
今回、ランチの時間は2時間半取ってある。
ランチを終えた辺りで丁度小降りになってくれた。




午後のセッションでは日本と西洋の文化の違いを改めて感じていた。
こちらでは常に自らを表現していなければならない。
その術がなければ生きていけない。
日本で自らを抑えるように育てられていると、この社会に長居すると疲れるのだ。
ただ、見ている分には大いに楽しめる。
人間の中にあるいろいろな可能性が表れているからだろう。
文化活動の基には自然な人間の発露がなければならないはずだ。
科学もその例外ではないだろう。




夕食会が Lower East Side のビストロであった。
今回初めてサブウェイに乗る。
チケットが昔とは違っている以外、違和感はなかった。
ニューヨークタイムズを買ってみて、余りに細長いのに驚く。
昔から変わっていないのだろうか。




パーティでは皆さん和やかになり、話がはずむ。
わたしの右にはカナダの女性詩人にしてサイエンスライターが、
また左にはイギリス人でロンドンから参加された方が座った。
カナダの方は物理学についての詩も書いていて学会のサイトに出ているとのこと。
ロンドンの方は建築家を途中でお休みして哲学の院生をやっている。
院生同士、研究面も含めいろいろと盛り上がった。
わたしの観察になるイギリス人は楽天的、という話を出してみた。
喜ぶべきなのでしょうかね、という返答。
それと押しつけがましくなく、あっさりしているようにも感じる。
向かいの御三方とともに明日以降に発表を控えている。

彼らと話していると、こちらが発表する上で参考になることが多かった。
どのような考え方の人を相手にすればよいのかがぼんやりと見えてくるからだ。
その意味では、良い時間となった。
ほぼ3時間でお店を後にした。




帰りのサブウェイではいかにもニューヨークという音楽が流れていた。



mercredi 22 juin 2011

会議初日はびしょ濡れの一日



今朝も5時起き。
関連の本を読む。
この五月蠅さに慣れることはあるだろうか。
会場のロックフェラー大学まで40-50分の散策。
今日はセントラルパークの中に入る。
朝の早くからジョギングとサイクリングに汗を流す人が大勢いる。
昔を思い出し、一緒に走るか、サイクリングでもという気分になる。
これはパリではなかなか起こらない変化だ。
大学はイーストリバー沿いにあるのでマンハッタンを横切ることになる。
着いた時には全身汗びっしょり。
朝のコーヒーを飲んでから会場に向かった。





朝のセッションが今終わったところ。
この分野について以前から気になっている点があることはここでも触れた。
最初のセッションで話したこの分野のリーダーも同じ認識を持っていることを知る。
今採っている視点とそこから見えてくるものを話す方向でよいのかもしれない。
まだ時間があるので、もう少し様子を見てみたい。


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会が終わり歩き始めると、ぽつぽつと頭に感じる。
次第に強さを増し、レキシントン・アベニュー辺りで本降りになる。
叩きつけるようになったので、雨宿りを決める。







雨に咽ぶ街並みも摩天楼もなかなか味があった。
今日は行きも帰りもびっしょりの一日となった。