« Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)
「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ」(ポール・エリュアール)
lundi 13 juin 2011
レフ・シェストフ、あるいはギュンター・アンダースという哲学者、そして理性の後に来るもの
昨日、科学論文のレフリーの依頼があり、驚く。
まだ理解できそうだったので引き受けることにした。
今朝、コメントを最終チェックして出す。
こういう仕事は来た時にすぐ手を付けないと駄目だということをこれまでに学んでいる。
そうしなければ先延ばしになり、追いつめられた精神状態での仕事になるからだ。
すっきりしたせいか、今日も危うくビブリオテークに出掛けるところだった。
昨日が聖霊降臨祭 (Pentecôte)。
今日はその月曜日 (Lundi de pentecôte) で祝日。
状況は何も変わらないのに、少しだけほっとしていた。
昨日のこと、哲学雑誌のページを何気なく開け、この言葉に出遭う。
「理性が勝利を収めるに従い、現実の空間がどんどん小さくなる」
この言葉はレフ・シェストフ(Léon Chestov ; Lev Shestov, 1866-1938) というキエフで生まれパリで亡くなったユダヤ人哲学者のもの。一体どういう意味だろうか。記事ではこう説明されている。
4世紀ほど前にガリレオ (1564 - 1642) とデカルト (1596 - 1650) は自然を数学の言葉に置き換えることにより世界の理解が進むという科学的な理性 (ガリレオ的理性) を確立した。確かにその後の展開を見れば、自然の理解は大きく進んだのは間違いない。そのやり方は便利な生活を営むことができるようになるかわりに、自然の破壊も進めることになった。
1911年、アーネスト・ラザフォード (Ernest Rutherford, 1871-1937) が原子核を発見した。その発見は、物質は安定した素子、分割不能な原子からなるのではなく、常に動いている微粒子からなることを示した。この発見が広島、長崎、チェルノブイリ、福島に導くことになった。
核の世紀になる20世紀前半、エトムント・フッサール (Edmund Husserl, 1859–1938) はシェストフの批判を知り、足元が崩れていくのを感じた。ナチズムから自己破壊に至る過程で責任を問うべきは、国家でも知識人でもなく、ガリレオ的理性の概念であるとフッサールは考える。
しかし、それは理性を敵に回すことではない。理性に至る新たな道、新たな理性を探り出すのが哲学に課せられた問題なのだとフッサールは考える。その回答は、良心、人間の身体、真の歴史、倫理的生活、地球という唯一の土地、これらに繋がること。そして、感受性、愛情、道徳を豊かにすることにより、技術的な理性を使うだけではカタストロフになる運命を見通すことができるようになる。
ハンナ・アーレント (Hannah Arendt, 1906-1975) や彼女の夫でもあったギュンター・アンダース (Günther Anders, 1902-1992) などのフッサールの後継者たちは、非理性に堕することなく、ガリレオ的理性の独占が齎す危険性をわれわれに伝えてくれた。
一夜明けて、同意するところの多いシェストフ、フッサール、ギュンター・アンダース御三方の方向性を振り返る。
理性が勝つと問題なので理性を捨てるべきだ、あるいは、今回の福島でも明らかになったように、科学は間違いを起こし頼りにならないので科学的思考を否定すべきだ、という議論が出ることがある。しかし、この考え方には与しない。それに代わる優れた考え方が今あるだろうか。
あくまでも理性的な、科学的な考え方を突き詰めてみること。それを徹底的に進めた上で、その考え方ではどうしても理解できないことがこの世界にはあるということを体で感じ取ることができなければ、その後の歩みも覚束ないものになるだろう。科学に対する強烈な批判が生れてきたのが西欧だったという事実は、そこにわれわれの想像を超える堅牢な理性の壁があったからではないだろうか。
理性的な思考をベースに据えながら、同時にその独占を許さないようにすること。独占を許すと、見える世界が限られてくるからである。そして、それが存在するもののすべてであるかのような錯覚に陥り、そのことにも気付かなくなる。これこそ、シェストフさんが言った 「現実の空間が小さくなる」 の意味ではないだろうか。
そこから逃れるためには、科学を超えた知に関する理解がなければならないだろう。それが倫理を含めた哲学であり、歴史であり、文学であり、専門家から抜け出した人間としての反応になる。そして何よりも、その思考過程を自由に表明し、論を戦わせる姿勢とそれを由とする社会の空気が不可欠になるだろう。
最後に、今回登場した方々について一言だけ。
シェストフさんは今回初めて知ることになった。しかし、彼の作品は60-70年代に13巻の選集として日本に紹介されていたようだ。当時は理性への道を一直線で、興味の外だったのかもしれない。
ギュンター・アンダースさんのテーマは、テクノロジーの時代の哲学。特に、われわれの倫理や存在に与えるマスメディアの影響、核の脅威、ユダヤ人虐殺、哲学者であることの意味に焦点を合わせていたとのこと。しばしば、哲学者と言われることを忌避したという。彼のテーマには興味が重なり合うところが多い。
そして、フッサールさんだが、5年前にいただいた御宣託がある。それはフッサールやハイデッガーを味わうために生れてきたというもの。これまでも何度かこのことに触れたことがある。常に気になる存在だったのだが、今一つピンとこなかった。しかし、今回はその意味がわかりつつあるというところだろうか。
イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)
Inscription à :
Publier les commentaires (Atom)
Aucun commentaire:
Enregistrer un commentaire