mercredi 19 février 2014

アインシュタインのドキュメンタリーを観る




アインシュタインのドキュメンタリーを観る

躍動するような作りになっていて、1時間半があっという間に過ぎていた

この場で取り上げた科学者も出てくる

フリッツ・ハーバーという科学者 (2011-09-23)

ミレヴァ・マリッチ」 という音を聞き、日本でフランス語をやっている時に聴いたCD "Einstein" のことを思い出した




lundi 17 février 2014

ミカエル・ルヴィナスという音楽家との遭遇


ラジオをつけると、ミカエル・ルヴィナスMichaël Levinas, 1949-)という音楽家の演奏が流れている

哲学者エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas, 1906-1995)さんの息子さんだという

もう60代に入っている音楽家だが、これが初めての遭遇になる

 ご本人の演奏とお話、そして「バルコン」というタイトルのピアノを絡めた作品を聴いてみることにした







「バルコン」はわたしにとって貴重な場所になっている

そのイメージとは必ずしも一致しなかったが、十分に楽しむことができた




samedi 15 février 2014

マルセル・コンシュさん、人生とエピクロスの哲学を語る


哲学雑誌に、マルセル・コンシュ(Marcel Conche, 1922-)さんのインタビューが出ていた

もうすぐ92歳になるところである

わたしがフランス語を始めておそらく初めて触れた哲学者で、印象深いものがある

最初のブログに84歳のコンシュさんの記事がある

マルセル・コンシュ(I) (2006-09-25)


コンシュさんの母親は彼が生まれた時に亡くなっている

祖母とまだ未婚だった二人の叔母に引き取られる

母と呼ぶべき人がいないこの経験が大きな傷として残った

子供時代は自然との触れ合いの中で育つ

しかし、当時はそこに価値があることに気付かなかった

彼の父親は農民だった

省察の生活とは正反対の土を相手にした仕事をしていた

モットーは「土は常に人間を育む」であった

父親の唯一の野心は、家族に食事を与え、無事に育てることであった


コンシュさん ご自身は土との仕事の中で、理性と哲学に目覚める

キリスト教の中で育ったが、悲惨な目に遭っている子供たちを見て、神の存在に疑いを持つ

1956年のことであった

そして、1963年にモンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne, 1533-1592)を発見する

これが哲学人生において重要だったのは、自然な哲学と人工的な哲学との違いに気付いたことだという

 そして、神を中心に回る近代の人工的な哲学ではなく、古代ギリシャの自然な哲学に回帰することを決意する

モンテーニュがルクレティウスエピクロスピュロン、そしてヘラクレイトスへと導いてくれたようだ



エピクロスにとっての自然は、われわれの目に触れるものを超えた世界の全体を意味していた

エピクロスの物理学は、自然は原子と空虚からなるとする

分割不能な原子が無限の空間を飛び回っている

そして、原子が突然その軌跡を変え、それによって新しい世界が生まれるのである

後に、ルクレティウスが clinamen と名付けた原理である

この世界には、創造主も、インテリジェント・デザインも、必然性も、神の摂理も存在しない

エピクロスの世界観である


善く生きるには、衣食住のための自然で必然的な欲求を満たすだけでよい、とエピクロスは言う

食はパンと水だけで良いとも言う

隠遁や禁欲を薦めるものではないが、過度の欲を求める快楽主義とも違う

食べることではなく、食べたことを愉しむという立場になる

この微妙に見える差は、よく考えると途方もなく大きい

それにより、体の苦痛がなくなり(aponie)、精神の安定(アタラクシアataraxie)が生まれるとする

さらに、精神だけに関わる喜びがあるとエピクロスは主張する

それは哲学することで、人間の自然で必然的な欲求に分類されている


現代の大きな問題は、自然を忘れ、すべてを計りに掛けることと関係している

そこから、自然でも必然でもない欲求が生まれているからである

金、物質的な快適さ、名誉や栄光の追及

都会では出世主義者(arriviste)が富や権力を求める

それをエピクロスは常軌を逸したことと呼ぶ

それに挑戦し、そこから離れるのがエピキュリアンである

ストア派と違い、政治への参加も拒否する

しかし、友情は大切にする

世界と断絶しているわけではなく、パーティに誘われれば参加する

しかし、ダンスに興じることはない

重要になるのは苦痛の除去、それが幸福の規準となる


エピクロスの愛についての考えには教えられるところがあるという

愛、肉欲は、自然な欲求だが必然ではないとされる

それがなくとも、散歩したり、走ったり、、、、他の活動で遣り過ごせる、と考える

ただし、憑りつかれたら節度を以って当たること

愛は人生の多くの時間を奪い、重要なことから遠ざけるからだ

  コンシュさんの人生にとって重要なことは、哲学することだという


パソコンについても触れている

目をやられ、人生を複雑にするだけなのでもう止めたという

これには同意したい今日この頃である





jeudi 13 février 2014

映画 "Ida" を観る


今日は午前中に用事があり、街に出る

問題なく進んだランデブーは1時間ほどで終わった

帰り道、先日メトロでポスターを見た映画が丁度始まるところのシネマがある

迷わず入ることにした

パリをベースに活躍するポーランド出身の Paweł Pawlikowski(1957-)監督による "Ida" (2013)

全編白黒

観始めてすぐに感じたことは、どのカットをとっても詩情が漂っており、美しいということ

その印象は結局最後まで変わらなかった

そんなに観ているわけではないが、その中でも珍しい作品であった

 お話はそれほどドラマチックなところもなく、淡々と進む

映像と音楽に触れるだけでも価値のある映画と言えそうだ

 お薦めである









mercredi 12 février 2014

連載エッセイ第13回 「 21 世紀の科学,あるいは新しい 『知のエティック』」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第13回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde » 

医学のあゆみ(2013.2.9) 244 (6): 572-576, 2013


 ご一読、ご批判いただければ幸いです





mardi 11 février 2014

ハイデッガーの 『黒のノート』



今週のル・ポワンにハイデッガーの『黒のノート』(Schwarze Hefte)が来月出版されるという記事があった

二つの顔を持つ哲学者として最初のブログで取り上げたこともある

その時もル・ポワンの記事からであった


今回の 『黒のノート』 はハイデッガーが1930年から書き始めたもので、その公表を希望していた

そこでは、恐ろしいレベルにまで達している反ユダヤ主義が哲学にまで高められているという

以前の記事にもあるが、これまではどちらかというと類推や関係者の証言を基にしたものが多かった

そして、ハイデッガー主義者たちはご本尊の反ユダヤ主義を否定してきた

しかし、今回は1200ページにも及ぶ本人による著述なので、最終的なところに行き着く可能性がある


すでに検討した人の話によると、彼の反ユダヤ主義は疑いようがなく、悪意に満ち、有害でもあるという

ユダヤ陰謀論の立場を採り、ヨーロッパ文化のユダヤ化と闘うことを考えていた

ヨーロッパ文化とは、個人主義、理性主義、民主主義、科学的厳密さ、そしてユダヤ・キリスト教を含むものである

その上で、第二次大戦をユダヤ人に対する戦争と主張している

ナチスのプロパガンダと完全に重なるのである


国籍を持たないコスモポリタニズムは反ユダヤ主義者の一つのテーマである

ハイデッガーは、ユダヤ教は 「存在」 に行き着かないと考えていた

人間が世界内存在であるとすれば、世界を持たないものは人間どころか動物以下であるとしたのである

7年前にも批判的な立場を採ったエマニュエル・フェイ(Emmanuel Faye)は、検討の結果こう言っている 

「それは存在論や必然性、さらには運命論に帰する議論で、この本における省察の最悪の部分である」

今やアングロ・サクソンの国ではほとんど読まれていないが、フランスでは未だに擁護者がいるという


この記事を書いたロジェ・ポル・ドロワ(Roger-Pol Droit)は、こう問いかけている

これだけの証拠が蓄積していても不十分だと言うのだろうか?

更なる証拠を待たなければならないのか?

そして、21世紀の哲学はハイデッガーなしでできるし、そうしなければならない、と結んでいる



ところで、この記事には 「古代ギリシャ語とドイツ語でしか哲学することがなかった偏狭な傲慢さ」 という件がある

最近その傾向が顕著になっているという内にしか向かわない思考ともどこか通じるものを感じる

この流れに抗するためにも、外国語教育が重要になるはずである

単なる道具としての言葉ではなく、精神を開く上でも有効であるという視点で考え直す必要がありそうだ





lundi 10 février 2014

バルコンの感覚を思い出す


連日寒いが、バルコンの時間が取れるようになったのは幸いである

この時間には不思議な力があるからだ

なぜなのか未だにわからないが、思考の空間に全く違う光が当たるのである

長い間忘れていた感覚が戻りつつある

春が来るのが待ち遠しい





vendredi 7 février 2014

今朝のパリの空


今朝のパリの空

久し振りにバルコンに座り、雲の流れを眺める

今日は西から東に早足で流れていた

青空が少しでも顔を見せてくれると元気が出てくる



暫くすると、この空である

雲は一体どこかに飛んで行ったのだろうか

やっとパリらしい天候が戻ってきてくれた

そんな印象である


この空はこれからにどんな影響を及ぼしてくれるのだろうか

よく観察すると、一日は起伏に富む長い流れであることがわかる

そんな実感が湧いている今日この頃でもある




dimanche 2 février 2014

会心の月、久しぶり


昨日の夕方の帰り道

「今日の空は青が深いなぁー」 と思いながら歩いていた

そして暫くすると、この景色が現れた

 誰かが用意してくれていたような感じだ






samedi 1 février 2014

これまでのブログは 「純粋経験」 の貯蔵庫か


昨日のこと

九州大学の先生から Paul Paris 様宛にメールが届いた

来月開く予定のシンポジウムのポスターに、前ブログにある写真を使いたいとのことで驚く

それは、もう3年半前に帰国した折に撮ったCarl Milles(1875-1955)作の「神の手」であった

改めて記事を見直していると、あの一日が鮮明に蘇ってくる

この作品は九州大学にもあるはずだが、どうしてもブログの写真を使いたいという

メールにはその写真が全面を占める試作ポスターが添付されていた
 
 このような形で過去が蘇り、それを多くの方と共有できるようになるとは想像もしていなかった

誠に嬉しいお便りであった


その後、当時の他の記事にも目をやってみた

見れば思い出すが、普段は記憶の底に沈んでいたものばかりである

昔のものを読んでいる時、こんな考えが巡っていた

西田幾多郎が 『善の研究』 で論じている中心概念に 「純粋経験」 がある

詳しく読んでいるわけではないが、現段階でのわたしなりの解釈は次のようになる

この世界に生きている大人のわれわれは、主観と客観、主体と客体の区別をつけて世界と対峙している

 世界を見ている自分と対象としての世界がはっきり分かれている

分けて見るようになっている

対象をどう見るのかは、その時の判断に掛かってくる

それは視点や視野が限定されている可能性が高いからだ


しかし、この区別ができる前、あるいは区別を付けずに世界に対した時はどうなるだろうか

その時は、判断することなしにその中に入り、そのすべてを受け入れることができるのではないだろうか

そのようにして得たものは 「純粋経験」 と言ってよいのだろう

対象の全体を自分の中に取り込んでしまう
 
主体による先入見やフィルターなしに、あるがままを受け入れる

さらに言えば、そのものと一体になるという感覚だろうか

この場合、そこで得られた経験は色付けされない生の形でわれわれの中に残ることになる

そのため、それをどう見るのかは後で如何様にもなる

ある意味では、無限の意味を秘めた原材料がそこに残ることになる

それが純粋であるとすれば、無駄な経験などないことになる

「純粋経験」 なしに、この世界の理解には至らないということでもある


 翻って、これまでのブログに残されたものについて考えてみる

わたしが世界と対する時、「純粋経験」 が可能になる状態に近いところにいるように見える

それは意識していたというよりは、この概念に触れて振り返ってみるとそうであったということである

その内的状態のまま世界に身を投げ出すという感覚がある

まず写真だが、ほとんどの場合、自分を取り巻く世界を留めるために選択せずに撮っている

文章にしてもその時の判断はあるだろうが、世界の全体の反映である心象風景が残るようにしている

 このように見て行くと、これまでのブログが 「純粋経験」 の倉庫のように見えてくるから不思議だ

同様のことが、今その中を歩いているメモについても言えるだろう

解釈し再解釈することを繰り返す中から、将来何が飛び出すのかわからない楽しみを秘めた倉庫でもある


思わぬメールから思わぬリフレクションが羽ばたいたパリの週末である







vendredi 31 janvier 2014

久し振りのパリの空、そして寝る前の本の意外な効果


今朝、久し振りにバルコンに出る
 
やっと求めていたパリの空が戻ってきてくれた

一月振りくらいではないだろうか

ということは、もう最初の月が終わるということ

去年よりは少しだけゆっくり時が流れている感じがする


昨夜、寝る前に本業とは関係のない本を読んでいた

今朝、それが本業と絡み合い、ぼんやりとした塊になった状態で目が覚めた

以前から、寝る前に読む本には意外な効果があるのではないかという感触を持っていた

それを裏付ける目覚めであった

早速、その塊を解き解したところである

新しい姿になるにはまだまだ練り直しが必要だが、少しだけ気分が高揚してきた

これも久し振りのことだ




mercredi 29 janvier 2014

少し落ち着き過ぎでは?


今日も相変わらずの曇り時々雨である

この時期はこんな空模様だっただろうか

コルシカの空が懐かしい


最近、確かに落ち着いた心境になりつつある

5年に亘る飛行から着陸に向かうのに1年、着陸してから落ち着くまでに1年を要したことになる

そうなったらなったで、どこか物足りなさを感じるから不思議だ

あのカオスの中にどっぷり浸かりながら飛んでいた時の方が、心躍るところがあったように見えるからだ

人の心は扱い難い




mardi 28 janvier 2014

2カ月遅れで工事終了


昨年の11月で終わるはずのアパルトマンの外装工事がやっと終わりを迎えた

2カ月の遅れだが、ここはフランス

大きな驚きはない

11月にマンハッタンで見た工事現場を思い出せば、その活気は全く違った

しかし、どうだろう

我が仕事振りに比ぶれば、彼らの仕事は称賛に値するのではないか


いずれにせよ、やっと外に人の気配を感じることなく、障害物なしで空を眺めることができるようになった

問題は、今年に入って快晴となった日を覚えていないくらい曇りと雨が続き、終わりそうにないことだ






mercredi 22 janvier 2014

エヴァ・ヤブロンカさんのセミナーを聴く

Prof. Eva Jablonka (Tel Aviv University)


昨日は夜の8時半から始まるエヴァ・ヤブロンカさんのセミナーを聴くため大学へ向かう

もう4年半ほど前になる

イスラエルで開かれたラマルクとイギリスのケンブリッジであったダーウィンに関する会でお会いした

そのことを今年最初のエッセイに書いたところだったので、何というタイミングかという思いで案内を受け取った

「後世はラマルクの復讐をしたのか、そして初めてのイスラエル」
医学のあゆみ (2014.1.11) 248: 174-178, 2014

興味をお持ちの方はご一読、ご批判いただければ幸いである


セミナーのタイトルは、「文化の生物学」

最近、エピジェネティクスというDNAの断片(所謂、遺伝子)に因らない遺伝が話題になっている

お話は、生物学に始まり、同様のことが文化の伝承においても起こっているという流れであった

彼女と共同研究者のマリオン・ラム博士による先駆的な著作 Four Dimensions in Evolution (MIT Press)に詳しい

タイトルにある4次元とは、遺伝子、細胞、行動、文化のレベルを指している

昔から 'nature or nurture' と言われ、われわれの今を決めているのは遺伝子か環境かという問いがある

日本でも 「氏か育ちか」という言葉があるが、これまでの生物学ではすべて氏が決めているとされてきた

しかし、育ちも無視できないという成果が出始めている

一卵性双生児でも時間が経つと、外からわかる変化があることは観察されていた

さらに、両者の差異は細胞内でも観察されることが明らかになってきた

エヴァさんは、このエピジェネティクスを文化のレベルにまで広げようとしている

どんな環境にいるのか、どんな人と出会うのかで脳の構造が変わる

教育における含みも大きく、われわれをオプティミスティックにしてくれる

逆の見方をすれば、劣悪な環境にいる人たちの状況が将来どのような結果を齎すのかにも思いが至る

実際、そのような例が第二次大戦中にナチに占領されたオランダの飢餓状態で見られた

その状態を経験した母親から生まれた子は、後に統合失調症になる頻度が高かったという

 母親のいた環境が子供に影響を与えていることを示唆する結果である


これまで精子や卵子は代を超えてDNAを運ぶものだと考えられてきた

しかし、上の結果は生殖細胞にはDNAの他に環境から受けた情報も含まれていなければならないことを示唆している

どのようなメカニズムで起こっているのかは明らかではないが、その昔葬り去られたパンゲン説を彷彿とさせる

体細胞が受け取った情報がジェミュールという粒子に蓄積され、それが生殖細胞に運ばれる

ラマルクが19世紀初めに提唱した獲得形質の遺伝のメカニズムを説明する説とも言える

ダーウィンが1868年に提唱した考えである

こちらについても一昨年のエッセイで触れている

ダーウィンのパンゲン説,あるいは科学が求める説明
医学のあゆみ 243 (10): 929-933, 2012
 
 歴史の畝りが見えるようだ


ところで、このセミナーは英語で行われた

しかし、スライドは世話人(写真左)が作り直したフランス語版になっていた

エヴァさんの横で自分のパソコンからスライドを進めていた

 ディスカッションも会場からの「フランス語で!」という声で、フランス語で行われた

ある意味では、演者そっちのけで議論が進むことになる

このようなことは日本では考えられないだろう

 丁重で柔らかな雰囲気の中で進むのだが、そこに文化的な誇りのようなものを見るのは感じ過ぎだろうか

さらに言えば、英語しか受け付けないというもう一方のアロガンスに繋がるようにも見える


ディスカッションが長くなりそうだったので、11時前に失礼した

ところが、外に繋がる扉がすべて閉まっている

しばらく歩き回っているとガードマンと思しき人の影が見えた

近寄って出口を訊くと、これまでどこにいたのかという

厳しい警備だが、この程度は当たり前なのだろう

その問いに答えて、無事外に出ることができた




samedi 18 janvier 2014

ドイツの百科全書派 ヨハン・セバスティャン・バッハ


昨夜、15年ほど前に買った本が目に入ってきた

ヴェルナー・フェーリクス著 『バッハ: 作品と生涯』 (講談社学術文庫、1999)

丁度、ヤノーシュ・シュタルケル(1924-2013)の無伴奏チェロ組曲を聴いているところだった

ぱらぱらとやっていると、「百科全書的志向」 という章が目に付き、その中に入る


啓蒙思想の18世紀

そこでは、百科全書的志向に根ざす人生態度や社会的営みが際立つ意義を持っていた

自己と世界の本質についての開化、知性の開発、理性の行使による知識の普及

そこに、自分の責任で招いた未成熟の迷蒙状態からの脱却を実現する道を見出そうとするものであった

啓蒙思想のルーツは、ルネサンスの人文主義と宗教改革、そして17世紀の理性主義、デカルトとスピノザの哲学であった

それは、知性の力であるラツィオ(ratio)の鍛錬と行使により、哲学体系の構築を目指す哲学である


ヨハン・セバスティャン・バッハ(1685-1750)は、理論的な著作や教科書は書いていない

ただ、彼は自分にとって重要な知識や情報を吸収する意欲と勤勉さを失うことはなかった

音楽についてのあらゆる面をマスターし、作曲に当たってはそのすべての領域を渉猟し、探索した

絶えず新しいジャンルを自家薬籠中のものとし、新境地の開拓に進む

一見相容れない形式を結合し、統合するやり方も思いつきなどではなく、一つのプランを追求した成果であった

ありとあらゆる可能性を探求、実験、動員して、新しい質が見つかるまで刻苦勉励したのである


普遍的な音楽が開花した背景には、ルター派の信仰、キリスト教的エートス、市民社会的思考の融合があった

宗教への帰依と啓蒙主義的世界観とは強く結びつき、両者が対立することはなかった

プロテスタント信徒は、 ラツィオ(ratio)とレリギオ(religio)、理と信をともに重視し、結びつけていた

個人の良心の問題と新しい知の開拓に向けての留まるところを知らない意欲がバッハの中でも結びついていた

ただ、バッハの中には哲学的な素養はなかったという

彼は感じたすべてを音楽の言葉として表現したのである






jeudi 16 janvier 2014

この心境、本物か


2014年に入り、2週間

大きな心の変化が見える

新しい分野に入り、6年余りの受容一筋の生活

それが余りにも快適で、そこから抜け出るのは不可能だった

しかし、今年は少し違うようだ

これまでの蓄積から私なりに何が言えるのか

それを新しい分野の中で問い掛けてみたい

そんな積極的な気持ちが見える

これまであれだけ苦労してそこに入りたいと思っていた心境である

この心境、本物だろうか





dimanche 12 janvier 2014

連載エッセイ第12回 「初めて知る 『世界哲学デー』 で哲学教育を考える」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第12回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde » 


医学のあゆみ(2013.1.12) 244 (2): 196-199, 2013


 ご一読、ご批判いただければ幸いです







jeudi 9 janvier 2014

過去を掘り起し、味わい直す時に巡る想い


7年目に入り、「いま・ここ」 にあるものに対する意欲が少なくなり、振り返る余裕が出ている

動き回り、目に触れるものをとにかく取り入れたいという欲求が少なくなっているのがわかる

謂わば、すべてが日常に落ち着き始めているということになるのだろうか

この機会に、2008年からのメモを読み直し、具体的に掘り起こす作業を始めることにした

これまではそんな余裕はなく、吸収に忙しかったことになる


これまでの6年余りの時間を味わい直す試み

ひょっとすると、それに要する時間は実際の時間と同じくらいになるのかもしれない

しかし、それは 「いま・ここ」 を追い求め続けた場合と同じかそれ以上のものを齎してくれそうな予感がする

それにしても、これまでの時間を意識的に振り返る時、想像以上の時が経過していることに驚く

普段の意識では、時の流れは全く感じないのだが、、、




もう4年ほど前に前ブログで取り上げた歌がある

ちあきなおみ 「祭りの花を買いに行く」 (2010-02-11)

今回、作者友川カズキ氏の歌を聴いてみた

あっさりしていて、拍子抜けする





vendredi 3 janvier 2014

パスカル・パオリとともにパリに戻る


行きが嘘のような静かな飛行を終え、パリに戻った

すでに素晴らしい景色と親しみやすい人々を懐かしく思い出している


ボニファシオからフィガリ空港までのタクシーの中、運転手が日本人か?と声を掛けてきた

 そうだと答えると、パリに住んでいてボニファシオに家を持っているバイオリニストを教えてくれた

そう言えば、前日もボニファシオに住む日本人パティシエを知っているという人がいた

この町にも日本人が暮らしている

よく考えれば不思議でもない話だが、少し驚いていた


 それから、パスカル・パオリ(Pascal Paoli, 1725-1807)を知っているか、と訊いてきた

その音はどこかで聞いたことがあるが、すぐに出てこない

そう答えると、コルシカの独立運動の指導者パスカル・パオリと民主主義を熱く語り始めた

こちらを見ながらなので、危なくて仕様がない


そして、景色の良いところに来ると、降りてこの景色を味わおうと言う

おまけに、客の記念写真まで撮ってくれる

もう一度来るとしたら、どこがお勧めか訊いてみた

アジャクシオは都会過ぎるので、お勧めはパオリ時代のコルシカの首都ポルテだという

山の中で、コルシカ大学がそこにあるらしい


空港に着くと、付いて来いと言って空港内の店に入る

何をするのかと思ったところ、パオリと独立運動の本をプレゼントしたいというのだ

残念ながらその本はなかったが、熱い人だった


帰ってからパオリについて調べてみた

やはり、すでに聞いた名前であった

もう6年半前になるが、前ブログで取り上げていたのだ

その時の世界が開けたような感じが蘇ってきた

それだけではなく、コルシカ大学の学生にフランス語を習っていたことも思い出した

そこからパスカル・パオリに繋がっていたのである

Les fantômes de Goya ― Pascal Paoli ― Ulrich Mühe (2007-07-27)

全く初めての島ではなかったことになる










mercredi 1 janvier 2014

2014年元旦の想い



2014年が明けた

新年最初の仕事は、エッセイの仕上げであった

対象をできるだけ広い視界の中に置き直して考えてみる

それがうまく行くのが、なぜかこちらのカフェである

あるいは、こちらのカフェでその感覚が芽生えてきたとも言える

元旦から開けている奇特なカフェでの初仕事であった
 

その様子を例えると、こうなるだろう

手におもちゃ箱を持っている

それをひっくり返すと、おもちゃは床に散らばる

その様子をフィルムに収め、それを逆回しにする

そのあたりに散らばっていたものが一瞬にして一つのところに収まる

それが「こと」が纏まる最後の瞬間になる

この瞬間を味わうために毎月を過ごしていると言えば大袈裟だろうか


この譬えは、前ブログでも使ったことがある

その時は、望ましい人生最後の瞬間をイメージしたのではなかったかと思う

この世界を理解するためには、上で言うおもちゃをできるだけ沢山持っていることが大切になる

それを安易に纏めることなく、そのあたりに散らかったままにしておく

そして、最後の最後にそれらのすべてを掻き集める

そんなイメージであった


一晩寝て新しい年になったからと言って、特別の期待はない

今年もこれまで通り僅かばかりの悩みを抱えながら歩むことになるのだろう

一仕事終わった後、お気に入りの場所になった入り江を散策

平穏な元旦の昼下がりである