dimanche 31 mai 2015

マリオ・バルガス・リョサさんが観る世界、あるいは文化の民主化ではなく無教養


マリオ・バルガス・リョサ(Mario Vargas Llosa, 1936- )さんのインタビューを読む

 この方については以前のブログでも触れている





ⒸLe Point (28 mai 2015)


今回のインタビューは、リョサさんの小説(2007)とエッセイ(2009)が仏訳されたのを機に行われた

小説は Le héros discret(目立たない英雄)、エッセイは La civilisation du spectacle(見世物の文明)  

この二つには、世界的に蔓延する以下の流れに抗する姿勢が見られるという

それは、知性をくだらないものと見ること、政治を冷笑すること、娯楽における芸術の低下である

印象に残ったことを書き出してみたい


アメリカとキューバの和解について

これには二つの側面がある

一つは経済的な側面で、もう一つは政治的側面になる

今回の和解は、経済的には良いことである

これまで政治的、文化的に虐げられてきたキューバ人に新たな機会が訪れる可能性があるから

これからの経済的発展が民主主義の発展に繋がるように期待したい

ただ、それは確かなことではない

中国がそうであるように、権力は外に開きながら、内において独裁を継続できるからである

キューバに求められるのは、世界規模の資本主義よりは民主主義に開くこと

なぜなら、民主主義は資本主義の副産物ではないからだ


フランスのオランド大統領がビジネスマンとともに血塗られた手を持つキューバの独裁者と握手した

これは西側の指導者では最初のことで、おぞましいことである

カストロロべス・ピエール、コンゴで最初の大虐殺を行ったベルギーのレオポルド2世ヒムラーと同列にある


政治と文学について

1990年にペルーの大統領候補になった

当選はしなかったが、政治は天職ではなかった

それ以来、西欧の民主政治に主体的に参加する証人として、スペインに住んでいる

リベラルな思想をドグマやプログラムとしてではなく、理想として擁護している

わたしの信念は、すべてのカギは政治にあるということ

インテリ、特に作家はそこから離れてはならない

それは自殺行為になるからだ


ノーベル賞は左派の価値に動かされている

2010年にわたしが文学賞を貰ったのは、文学によって自由を擁護したからである

ソール・ベローナイポールも同じである

過去のものの中に将来のために維持しなければならないものがある

それが、差異であり、階級であり、エリートである

抗すべき正当性のあるものとして、文化の平等化・平均化(le nivellement culturel)がある

わたしは保守反動かもしれないが、フランス19世紀のリベラルとは相性が良い

それから、レイモン・アロンカール・ポッパージャン・フランソワ・ルヴェル

見世物の世界になってしまった文化的砂漠の中で、少数派のものをエッセイや小説で保存したい


『見世物の文明』 について

寧ろ、文明のない見世物と言った方がよいかもしれない

文化という言葉は、僅か2-3世代の間にその意味を大きく変えてしまった

昔は、上質な文化(haute culture)、思想、芸術、美学についてのコンセンサスが世界的にあった

今日、すべての文化は同等であると見做されている

文化が省察、批評、問い掛けと同義であることを止め、気分転換や気晴らしの同義語になっている

アカデミアの中で文化は生き残っているが、社会からは隔離された辺縁の存在にしか過ぎない

大衆文化はテレビで、これは世界的な現象である

それが絵画、音楽、さらに文学や哲学までをも汚染している

文化の民主化はなく、あったのは無教養だった

今やエリートの中にまで、芸術を味わわず無知なままで満足している人間を見掛る


現在の問題は、エリートの存在を否定する考え方である

プルーストアインシュタインをすべての人が理解できるわけではない

すべてのエリートは過去の遺物であり、民主主義の時代には消え去るべきものという考え方

これこそ最大の誤解であり、自由(liberté)ではなく知的放蕩(libertinage intellectuel)に導く思想である


文学の役割について

文学は批判精神を維持するため、世界は良く出来上がり社会はうまく動いているという信念と闘うためにある

真の文学には、常に異議申し立ての要素がある

混乱を極める時代には、これまでにも増してそれが必要にある

われわれの目を開かせるのである

しかし、多くの作家は娯楽の提供者になっている

眠りの中にある子供のように、われわれの目を閉じさせるのである

小説とは夢を見させることではなく、世界の混沌や社会の意味の欠陥を描くことである


 今日の悪は、ゆっくり進む精神と制度の腐敗、そして以下のように主張するシニシズムである

 「美、それが何のためになる?真理は存在しない。すべては同じように価値がある」

 思考の放棄である

 文学の一つの機能として、以下のことが挙げられる

われわれが立つ地が確しかなものであり、生きている町の色が鮮やかであることを思い起させること

 そして、至るところに悪魔が待っていることも



 なぜ書くのか? -- それは、わたしが幸福ではないからだ






vendredi 29 mai 2015

フランス人による自己分析


今日、定期健診に出かけた

いつも雑談に何が飛び出すのか楽しみにしている

こういう楽しみは日本では味わえなかったものだ

今日も 「お仕事の方はいかがですか?」 で始まった

さっぱりです、と言いたいところだったが、今年が最後ですので、と答えた

そうすると、「それが終わったらどうされるのですか?」 と続いた

それに対しては、フランス(人、文化)はかなり特徴的(特殊)ですから、と答えた

すると、「本当にフランス人は変わってますから」 と言って、一つの形容詞を発した

残念ながら聞き取れなかったが、「翻訳は難しいのですが、、」 と言って次のような説明をした

一つのところに向かう時、スキーのスラロームのようにいろいろな点をかわしながら攻めていく

その後に、「日本人のように直線的に進むのではなく」 と注釈を加えた

だから面白いのだ、という

わたしに言わせれば、スリリングであり、刺激的でもある

さらに、フランス人について次のような分析が続いた

家にいる時には、エゴイストで、エクストリミスト(過激主義者)

どこまでも自己中心的で、自分が満足するかどうかが唯一の判断基準である

しかし、一旦家を出るとソーシャリストになる

その意味は、他の人のことも考え、皆さんがうまくいくように配慮するということらしい

ただ、それは表面的なものにしか見えないという

 人間誰しもそのような傾向はあると思われるが、その落差が著しいということなのか

担当の先生が自分たちをそのように見ていることを初めて知った

「ところで、この環境に7-8年もいるとなかなか去り難いのではないですか?」 と問いかけてきた

確かに難しいことになるのだろうが、その前にやることがあるので、と言葉を濁した


いつも前もって予定を決めることはしない

これが心の自由を保つ秘訣の一つになっている

半年後にどのような心境になっているのか分からないからだ

と同時に、これが 「ことを成す」 上での障害にもなっている

これがわたしの人生か


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31 mai 2015

フランス人は自己中心的だが、一旦社会に出るとその要素が薄まるという観察

自己に対する執着が強いだけに、外に出た時は戦略的に振る舞わなければならないのかもしれない

そう気付いたのは、日本のいくつかのテレビ番組を観たからである

 街に出ている日本人の様子には戦略的に対応するという態度は全く見られず、素朴で素直なものであった

ある状況の中にいる時、自分の望むところに上手に持って行くという能力に欠けるところがあるようだ

どこかあなた任せのところがある

そもそもそんなことを望まないし、その必要もない状況の中にいるからだろう

それは自らの中を見ればよく分かる

外交下手と言われる日本だが、われわれの日常が戦略的な要素から程遠いところにあるからではないか

日曜の朝、雨音を聞きながらこんな考えが巡っていた





dimanche 24 mai 2015

ロバート・オッペンハイマーの人生を観直す


 2011年9月24日に 「ロバート・オッペンハイマーの人生を観る」 という記事を書いた

PBSのドキュドラマは途中までしか観ることができなかったが、素晴らしいものであった

その後再訪したが、観られる部分はさらに短くなり、冒頭だけになっていた

ということで、完全に諦めていたが、今日偶然にもその全編をYoutubeで見つけることができた

その全体を味わい直してみたい


The Trials of J. Robert Oppenheimer






samedi 23 mai 2015

グレン・グールドの人生、あるいは芸術家とは



先日のあるリブレリーでのこと

通り過ぎようとした時、誰かに見られているように感じ、戻るとこの本があった

ボルドー生まれの漫画家サンドリーヌ・ルヴェル(1969-)さんの新作

ご自身もピアノをやるようだ

表紙だけを見て、立ち去った


現代における芸術家の存在価値は?

細分化し、精妙に組織化される社会にあって、型に嵌った生活を送らざるを得ない現代人

その生活では、人間に本来具わっているものの多くが抑えられている

その枠からはみ出し、抑制されている領域に眠るものも含めたところから表現しようとする人

それが芸術家と言われる人間になるのか

尤もらしいところから最も離れた表現をする

奇を衒うのではなく、何でもないそこにあるものに全く新しい光を当てる

それは、われわれの精神を覚醒させ、解放する

真の芸術家には、その力がある

そこに芸術家の存在価値があり、なぜわれわれが芸術を必要としているのかの理由もありそうだ






mercredi 20 mai 2015

今年3回目のランデブー


今日は今年3回目の教授とのランデブーとなった

場所の変更がわたしの方に連絡されていなかったため、1時間遅れの開始となった

大学の方針転換で、スケジュールがタイトになっている

これからも一か月に1回の予定でランデブーを行うとのこと

と言うことは、あと3回くらいのものだろう

それで本当に大丈夫なのか

全く心許ない

「賽は投げられた」 という表現が出ていたが、ルビコンを渡った心境である

かなり遅いが、これまでそういう心境にならなかったのだから致し方ない

これまで同じようなことを何度も書いたように思う

しかし、今回が一番 「その気」 に近いところにあるように感じる

1時間ほどのランデブーの後、久し振りにサン・ジェルマン・デ・プレまで出た




本日の偶然






mardi 19 mai 2015

中村元氏によるブッダの人生、そしてその後に虹


時の流れを眺めていた今日の夕方

シャッターを開けると、久し振りに虹を拝むことができた

この後暫くすると、青空が見えてきた


今日は Youtube を流しっぱなしにしていた

そうすると、なぜか中村元氏によるブッダについてのお話が聞こえてきた

二つ続いていて、それぞれ2時間を超える

最初のものを聴いていたが、自分の中にあるものと響き合うことが多く、驚く



二つ目は、いずれ時間ができた時に取っておくことにした

この時間が虹に繋がっていたのか

それは分からない

前の記事の写真には仏像が写っている





dimanche 17 mai 2015

マスターの教育のことなど


ホテルから下を見ると、この景色が目に入った

背中が見える像は仏像のように見える

遠くにあるのによく気付いたものである


ボルドーでは、当地在住の友人とその友人でやはり学生をしている方とのディネがあった

仕事を辞めて、学生として学び直しているとのこと

そういう方は意外に多いのでは、という感触を持った

会話の中で、「マスターの教育がわたしの新しい好み(goût)を育ててくれた」 ということを語った

これは、時とともに強く感じるようになっていること

苦しくはあったが、あの時間がなければおそらく今のようにはなっていなかったのではないか

そう思わせてくれるほどのものである


このような長期滞在が可能になっている要因として、授業(登録)料があることを忘れてはならない

今の日本から見れば破格の年間2-3万という額でなければ、到底不可能だっただろう

知への最初のハードルが低いということは、個人はもちろん国にとってもよいことではないだろうか

 二日続けて、やはり、ここはフランスなのである


このように未来ある若い方々と話していると、こちらもそんな錯覚に陥ってくる

貴重な時間であった

 今日、パリに戻る





samedi 16 mai 2015

とんでもない名前に、お互い思わず吹き出す


昨日のこと

飲み物だけの方はカウンターで、と言われて別のカフェを探す

しばらく歩くと、日本の音が現れたので日本人がやっているのかと思い、中を覗いてみる

お茶が専門らしいが、人がいない

 お客さんだと思ったテーブルに座って話している人たちが、お店の人だった

 コーヒーですか、と訊いてきたので、テと答えると、メニューを持ってきた

 半端じゃない数のお茶を置いている

よく見ると、名前のところに日付と説明が付いている



 折角なので、この店で一番古いものを注文する

すると、とんでもない答えが返ってきた

何と、ブレンドした時の気分で適当に名前を付けている、という

中身とは何の関係もないことになる

それじゃ、名前に苦労しませんね、と言いながら、思わず吹き出す

上の写真の方も思いっ切り唱和していた



こういう瞬間は、何とも幸せな気分になる

やはり、ここはフランスである






vendredi 15 mai 2015

今年初めてのボルドー

ボルドーの勝利広場


久し振りのボルドーに入った

この週末をいつもと違う場所で考えてみましょうということになる

今朝方は雨音が聞えたが、出る頃には風はあるものの気持ちよく晴れ上がってくれた

この町の空も変わりやすい


プティ・デジュネを昨年も入った "Nature"の像の見えるカフェで取っている

客はわたし一人だろうか

外は仕事に向かう人が行き交っている

自転車通勤も稀ではない

今、客が入ってきた








lundi 11 mai 2015

mercredi 6 mai 2015

7年前から生き直す


前ブログは、「A VIEW FROM PARIS パリから観る」 というタイトルであった

サブタイトルは、Le savoir, c'est le salut とした

そこから丁度4年前にこちらに移ってきた

あれからもう4年も経つのである

驚き以外の何物でもない


Excite ブログから Google Blogger に移ってきて、Dynamic Views というモデルがあることを知った

現在のスタイルで、確かに動きがあるので面白い

前ブログもこのバージョンにすると違った側面が見えるのではないか

そんなことを思い4年前の秋に試してみたが、このブログに忙しくすぐに挫折した

当時は、元々の日付でアップしていた

暇にしていた先月、そのことが思い出されたので見直してみると、丁度4月の前で止まっていた

2008年のである

2008年春と言えば、こちらに来てまだ1年も経っていない

そこには、忘れかけていた新鮮な感覚が随所に見られる

 ということで、これまで読み返すこともなかった前ブログとともに、7年前から歩み直すことにした

今回は現在の日付でアップするが、当時の日付を冒頭に添えることにした

新しいサイトは、以下の通り


記憶の補強とそこにあるのだが気付かなかったことの発見などが期待される

上の写真は7年前の今日撮ったものになる


このような時のやり取りをするようになったのも、正月の 「出来事」 が関係しているのではないか

そんな思いも湧いている


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(10 mai 2015)

7年前を掘り起こし始めてまだ時間は経っていない

しかし、その中で大きな変化が見えてきた

古い記事を移す時に見直すが、その時は大昔のように感じている

写真などから、過去は過去として蘇ってくる

しかし、出来上がったサイトを読んでいるうちに、その時が今と重なるようになってきたのである

一つには、記事を現在の日付で出していることが関係あるのかもしれない

「いま」 がその記事と絡んでくるのだろう

もう一つは、「いま」 の立場から7年前に対して口を出すようになったからだろう

7年前が今と溶け合っているという感覚が生まれている

現在と7年前のコラボという風情がある

これはまさに目指している 「過去を現在に引き戻し、共に生きる」 ことの実践になるだろう

予想外の不思議の効果である






lundi 4 mai 2015

英語の世界にいないことの効果


少しだけリズム感が出てきたようだ

朝、これまでのメモに目を通す

3年ほど前の観察に、こんなのがあった

「英語の世界にいないことが、現実との距離を取る上で重要だったのではないか

それが思考に向かう余裕を与えていたのではないか」


 その後の経験を踏まえた今でも、この観察には同意せざるを得ない

この距離感は、もう飽き飽きしていた英語にも新しい目を向ける切っ掛けを与えた

英語が新鮮になってきたのである

これまで感じてきた快適さの一つの原因が、このあたりにもありそうである





dimanche 3 mai 2015

変わらぬ日常


日本は連休の真っ只中だろう

世相が騒がしくなっているというニュースがある

その一方、何事もないように日常が進んでいるようでもある

このところ、日本の状況についての感覚が殆ど失われているようだ


今日も朝から雨

昨日今日と午前中は雨音を聞いて過ごした

この楽しみは、こちらで庵の生活を始めてから覚えたもの

午後からは街に出た

カタツムリの歩みだが、集中はできたようだ

夕方、青空が見え始め、気分が明るくなる