mardi 31 mars 2015

そろそろその中へ


大分春らしくなってきたが、まだ寒さが残っている

昨日、今日と用事があり、外に出た

いずれも問題なく終わった

今日は久しぶりにモンマルトルの景色を垣間見ることができた


この日曜に夏時間になり、明日から4月

本当に嫌になるくらい時の流れは速い

そして、わたしの歩みは相変わらず鈍い

そう感じる時は、まだその中に入り切れていない時である





mardi 17 mars 2015

辻邦生さんのプレートを見つける


ムフタール通りからデカルト通りに上っていくとヴェルレーヌの終の棲家がある

そこのレストランで食事をしたことは以前に触れている


その時、ヴェルレーヌのアパルトマンの隣にあるという辻邦生の住処の標が目に入らなかった

それ以来、そのままにしておいた

そして、先日のこと

ここを通ると、はっきりとプレートがあるではないか

これまでどこを見ていたのか

いずれにしても数年ぶりにすっきりした

前回の記事ではヴェルレーヌのプレートがはっきりしないので、新しいものを以下に



辻邦生さんに関する記事がもう一つ見つかった

辻邦生を読む(2011-07-30)

その中の引用を以下に改めて

「もしよしあしを言う価値基準があると、それだけでこの絶対的な跪拝の原点をこわすことになり、<詩>は生れてこない。あらゆる人がそのままで<深い人 生>を現わしているとする絶対肯定の、シェイクスピア的静けさ、générosité こそが、つきない<詩>をつくる。この自己放棄と評価的規準の放棄---絶対肯定・足もとへの感動的跪拝が<詩の源泉>となる。・・・

・・・<すべての人生の姿>を<よきこと>として---<乞食>や<浮浪者>や<ヒッピー>や<悪党>の深い礼賛者として---決して新聞的教育者的道徳 教にしたがうのではなく、<すべてをよし>とする<無>となることによって---<この世>を両手で<なんていい奴なんだ、お前は>と叫びながら douceur を感じつつ抱きしめるのである。
 ぼくらを縛りつけ<詩>から遠ざけたのは、この評価的な対象化する態度でなかったろうか。すべてがよく、すべてが美しく重く面白いのだとする態度を、どこか放埓な無責任なものと考える考え方が、ぼくらから<詩>を奪っていたのではないだろうか。
 その理由はおそらく教育的な要素や立身出世型、追いつき追いこせ型の生き方・考え方が社会に充満し、ぼくらもそれに染まっていて、<遊び>を遠ざけていたことに関係があるであろう」



vendredi 13 mars 2015

カーリー・サイモンさんの声が聞こえる


今日のメトロ

もう40年ほど前にボストンで聴いた彼女の声が聞こえてきた

それはドライブの帰りのこと

郊外の映画館に入り、映画が始まった途端に聞こえてきたこの曲の中にすっぽり入ってしまった

それから暫くの間、彼女の歌を聴いていたことも思い出す

マーヴィン・ハムリッシュ(Marvin Hamlisch, 1944-2012)さんが音楽を担当していたとは

当時、よくテレビに出ていたので知っている

無性に聴きたくなったその曲を久しぶりに味わうことにした






最早、その中に完全に入ることはできなかった

マーヴィンさんももういない

時の流れは止められない












mercredi 11 mars 2015

時の流れが止まった世界?


こちらに来てからおそらく初めてになるのではないだろうか

日本のいくつかのドラマをじっくり観る

知らない俳優が沢山出ていることにはそれほど驚かなかった

しかし、この人がお母さん役?あるいはお婆さん役?という役柄の変化に驚く

全く似合っていないように見えたからである

しかし、見る位置を変えればそれほどの違和感は抱かれないのかもしれない

時は否応なしに流れ、人間の構成を変えているのはよく分かっているからだ

しかし、このような感じ方をしたことはこれまでにはなかったように思う

考えてみれば、殆ど一昔前との比較になるので驚くには及ばないだろう

ひょっとすると、これまで時の流れが止まった世界を生きていたのかもしれない





dimanche 8 mars 2015

連載エッセイ第26回 「クリスチャン・ド・デューブという科学者、あるいは 『知的誠実さ』 という価値」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 『パリから見えるこの世界』 第26回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde »


医学のあゆみ (2014.3.8) 248 (10): 811-815, 2014


 ご一読、ご批判いただければ幸いです






mercredi 4 mars 2015

マルク・フュマロリさんが語る文学に纏わること

Marc Fumaroli © Le Point


先日読んだル・ポワンにマルク・フュマロリ(1932- )さんのインタビューが出ていた

最初のブログで取り上げたことがある方になる


もう9年前になろうかという記事だが、こんな観察をしていたのかという思いで実に興味深い

その一つが、「わたしを惹き付けて離さないのは、長い読書に照らされた現在」 という一節

これは、8年程になるこちらでの生活でわたしが感得したものと極めて近い

わたしの言葉で言えば、次のようになるだろう

「人類の遺産と共に現在を考える」

フュマロリさんと同じように、未来のことを心配しない、未来のことなど考えない


今回のインタビューでは、フュマロリさんの新刊が出たのを機に文学について語っている

 La République des Lettres (Gallimard, 2015) (『文学の共和国』)

以下、彼のお話を聞いてみたい


タイトルになっている言葉は、西欧文化では特別の意味を持っている

開かれた精神が出遭い、文書を交換する国を超えたバーチャルな空間を指している

その始まりは、14世紀のルネサンス

フュマロリさんは、この空間が持っていた礼儀、ユマニスム、文化などにオマージュを捧げてきた

その創始者は、フランチェスコ・ペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304-1374)

最初のステップは、教会による知と教育の独占に終止符を打つことであった

宗教からの独立(ライシテ、セキュラリザシオン)の始まりである

これは、宗教には依らないrenovatio すなわち、ルネサンスというプログラムに基づいていた

ルネサンスの熱狂はイタリアからヨーロッパに広がる

文学、文献学、考古学、教育学、博学の人、すべての旅行者、書簡を好んだ人が織り成す世界

それは、11世紀にできた神学者による神学者のための大学の辺縁にあるもの

それ故、聖職者による検閲、異端審問から守られた空間でもあった


ペトラルカの弟子たちは、ユマニストと呼ばれてきた

そのプロジェは、非常に野心的なものであった

精神の自由は、忍耐、策略、外交なくしては得られないものであった

ヴォルテール(1694-1778)の出現まで4世紀、ユーゴー(1802-1885)に至るには5世紀を要した

この流れの源にいるのがペトラルカだが、あまり知られていない一面がある

古代ローマの廃墟について瞑想し、僧院の図書館に埋もれていた古代の作品を研究、出版したことである

そして、全イタリア、ヨーロッパの知識人と膨大な文通を止めることはなかった

彼の死後(1417年)、この「社会的なネットワーク」にRespublica litterarum の名が与えられる



現今の出来事は、このネットワークがわれわれの町を異物が住む家にしていることを教えている

若者がわれわれの法律に従おうとせず、野蛮な神学者に彼らの人生の意味を求める

求められた方は、われわれの世界を破壊するために神の暴力の手先となることを説く


ジャン・ドルムソン(Jean d'Ormesson, 1925- )は多くの人に愛されている

彼は軽く見られているが、彼の本を読み直してみて、実は執拗に考える哲学者であることに気付いた

彼が考えていること

それは、基盤が捉えどころがなく、構成員から確かな指針を奪っている豊かな社会から生まれるもの

人間はその人生に意味を与える確かな地平を歩む必要がある

もし現代の世界が確かな地平を提供していないとすれば、最悪の場合は殺人ジハードにそれを求める

このような前例が歴史には存在する

それはキリスト教の異端であるフランスのジャンセニスム

 この派は、何世紀もの間に腐敗した信仰を見て、初代教会への回帰を狂信的に唱えた

ジャンセニストだったパスカルは次のような主張を繰り返した

「生死の意味は、科学・技術の進歩の中ではなく、原始キリスト教の中にある

理性ではなく心の中に、啓蒙ではなく神秘の中にあるのである」

ジャンセニスムに対してイエズス会は、最新のものを信条に取り込むことを常に認めていた

もちろん、わたしはイエズス会の陣営にいる


現代性に狼狽している精神にとってのイスラムの魅力とは何だろうか

敢えて言えば、神の不動性ではないだろうか

すべてが余りにも急激に進行している時に超越的な不動性ほど望ましいものはないからである


教育の破綻は、われわれフランス人すべてにとって中心的な課題である

フランスはかつて模範的な教育システムを誇っていたが、悪化するに任せ、今は廃墟である

わたしが唯一つだけ助言を許されるとすれば、それはユマニテ(西洋古典学)の重要性である

ユマニテだけが、求めている意味を若者に与えることができるだろう





dimanche 1 mars 2015

カズオ・イシグロさんが考える小説家


作家のカズオ・イシグロ(1954‐ )氏が10年振りに新作を出すという

The Buried Giant (March 3, 2015)

これまでは個人の記憶を扱ってきたが、今回の作品は社会の記憶についての物語らしい

彼は、年80ページのペースで書いていた

それを奥さんが読み、こう言ったという

「これじゃ全くダメ、最初から書き直さなきゃ駄目」

それは特定の場面のことではなく、 全体の語り口や登場人物同士の会話が駄目ということだった

随分ときつい言葉だったが、仕方がない

暫くの間エネルギーを補給して、ゼロから書き直した作品だという

最初からやり直さなければならなくなったところが最近のわたしと重なり、なぜか嬉しくなる


イシグロ氏が小説家のピークは30-40代だと考えていることは知っていた

今回、このことについて、こんなことを語っている

 小説家は子供時代に近いことが非常に重要だ

なぜならば、そこから成年になる過程が小説を書くという営みにとって欠かせないから

子供時代から離れることは、何かを失うことなのである

 30代は良いかもしれないが、60歳の人間がそう考えるのは少々気が滅入ることである