samedi 6 septembre 2014

ニコラ・グリマルディさん、再び



2年前の哲学雑誌を手に取る

新鮮である

科学の領域にいた当時を振り返れば、2年前はかなり昔という感覚だろう

それだけ時間に追われていたことになる

哲学ではそれがない

ゆったりした流れというよりは、対象は常にそこらに漂っているという感じである


手に取った雑誌の中に、ニコラ・グリマルディというソルボンヌの教授だった哲学者のインタビューがあった

昨年5月、ボルドーに向かう車内で発見した人だと思っていた


しかし、その一年前に手に入れた雑誌の中にすでに顔を出していた方だったことになる

その時は読んでいなかったのだろう

この記事の中で、次のようなことが語られていた


お祖父さんから学んだこと

それは、われわれは一人で生まれ、一人で死んでいくということ

そして、真理に到達するのは孤独の中にいる時だけであるということ

デカルトがすべてから身を引き、宇宙に存在するすべてを疑い、コギトを発見したように


それから、これまでに影響のあった人を問われ、二人を上げている

その一人は、ウラジミール・ジャンケレヴィッチ (1903-1985)

彼は、哲学者というものがどういう人種なのかをそれとなく体現していたという

それは、自分が充分に時間をかけて考えたこと以外は話さないこと

そして、自分が深く生きたこと以外は考えないことであった

グリマルディさんが教える時に心していたことも、この師から感得したことだったという

それは、思想を生き生きとさせ、感情と同じように感染性を持つようにして、学生を退屈させないこと


上の写真には、グリマルディさんの言葉がある

「絶対の中に生きたいと願うこと

それは、地平を生きたいと欲するようなものだ

地平とは、そこに向かうが、決して辿り着かない・・・」



ところで、昨夜の帰り道

向こうから考え事をしているような若き女性がわたしの方に歩を寄せてきた

道でも訊かれるのかと思いながら、彼女からの言葉を待った

近くの道という枠組みになっていた疲れたわたしの頭は、最初その意味を掴みかねた

訊き直すと、こう言っていた

「ポーランドの首都はどこでしたっけ。ポーランドの」

それが思い出せなくて苛々していたのだろうか

そんなの簡単でしょと思ったが、その一言が出てこない

思い出そうとすればするほど、である

 なぜ出てこないのかと、こちらも苛々してくる

これは無理だと判断して失礼する

そして、歩き始めるとその答えが現れた

こういうことがよくあるようになってきた

弾性を失いつつある脳、とでも言いたくなる


それにしても何でもありのフランスである

なぜか嬉しくなり、疲れはどこかに飛んで行った





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