dimanche 28 septembre 2014

久し振りに、日本の現状を幅広く語り合う

水口純一郎先生(東京医科大学)


昨日は昼からカルチエ・ラタンに出て、少しだけ仕事らしきことをする

夕方、スペインの学会の帰りにパリに立ち寄られた水口先生とソルボンヌの前で再会

昨年9月、日本の大学でお世話になって以来である

早速、クラシックな教育が行われているソルボンヌ大学の中を見学

それからお決まりのコースになったコレージュ・ド・フランスを外から眺める

中庭に新しい彫刻が二つ置かれていたが、中に入ることができず作者はわからなかった

夜はサン・ジェルマン・デ・プレに出て、11時くらいまで語り合う


兎に角いろいろな話題が出たが、今浮かんでくるものだけでも次のようなことがあった

日本社会や教育の問題(一般教育、語学教育、道徳教育、科学教育、、)

教育が機械化され、教師も学生も道具に成り下がっている印象を持つ


科学のあり方と哲学との関係

特に、科学者は哲学視点を持ちたいと思っているが、その時間が取れないのではないかという指摘

仕事が忙しく過ぎて考えることができなくなっている現状


いつまでも仕事にしがみ付くのではなく、科学を大きく考える人が出てきてもよいのではないか

寧ろ、その方が科学への貢献は増すのではないかという指摘などなど

 話は尽きることがなかった





jeudi 25 septembre 2014

習得したことは、空の味わい方?


今日は朝から良い空を見ることができた

これまでの年月に見てきた空の中から、気分を浮き浮きさせるものが分かってきた

それを「良い空」と勝手に呼んでいる


ゆっくり流れる雲

あるいは、ぽっかりと浮かぶ雲

そこにどこからともなく次々に現れる飛行機雲が加わる

時に、低いところを行く飛行機の機体が太陽を反射して光を発する

まさに、音楽である

こちらに来て一番よく観たものは、ひょっとすると空かもしれない

こちらで習得したものは何かと問われれば、空の味わい方と答えるのではないだろうか


夕方、街に出た

空の見過ぎからか、頭の使い方が科学から離れているように感じる

視線の先が細部から離れ、茫洋としたところに向かっているように見える

習い性となったこの傾向を修正することは可能だろうか




mercredi 24 septembre 2014

「いま」 は最早取り戻すことのできない時間


今日歩いている時、こんな考えが浮かぶ

パリの今は、今しか味わえない大切な時間

それを振り返る時、最早取り戻すことのできない時間だと気付くだろう

このような考えが飛び出すということは、一つの境を越えたことを意味しているのか

そして、この考えを横に移動させると、この生そのものに当て嵌めることができる

ごく当たり前に見える考えだが、それを言葉ではなく、体で感じることができることは幸いである

そう感じることができると、日々の生活が変わってくるはずなのだが・・・




samedi 20 septembre 2014

ベルクソンの年表を眺め、「この素晴らしき世界」


ベルクソンの年表を読む

2,500年の歴史が基準になったことが関係しているのか

人間の一生などあっという間という感慨が湧く

そういう刹那の生に気付くと、今現在がすでに歴史的な点になっているという視点が生まれる

ただ、その点がその人間の歴史にとって、どのような時期に当たるのか

それは、最後まで行かなければ分からない

しかし、そう考えることができると面白い道行になるような気がする

やはり、この素晴らしき世界なのか














夕方、久し振りの雷鳴と比較的強い雨となった






vendredi 19 septembre 2014

一体どこに消えた?



昨日の朝のバルコン

目が悪くなっているのか、枯葉か小枝かと思っていたが、よく見ると動いている

死にかけの蜂だろうか?

全くわからない

小さな枝のようなものを持って食べようとしているようにも見えるが、どうなのか

いつものように、暫くその動きを見ていた

仰向けの姿勢のままで、起き上がることができない

力なく抱えたものを動かしているが、時にこのような動きをするので生命力はまだ残っている




今朝、気になったのでバルコンに出てみた

不思議なことに、その姿はもう見えなかった


動物に詳しい方の鑑定をお願いしたいところである




jeudi 18 septembre 2014

セミナーの後、イタリアからのお客様と語らう


今朝、バルコンで新たな考えが浮かび、それを形にするために街に出る

午後からは新学期最初のセミナーを聴きに大学へ

パソコンから映像をスクリーンに送り出すことができず、20分始まりが遅れる

こういうことが稀ではない

この辺りのテクニックはどうでもよいと思っているところがある

その間を愉しんでいる感じがある


セミナー終了後はイタリアからのお客様とカフェで語らう

その時、セミナーからの帰りのMD氏が通りかかり、話が盛り上がる

その後、公園へ足を伸ばし、笛で追い出されるまで文学や芸術のお話をする

 わたしの守備範囲外なので、新鮮であった

それにしても、このところの蒸し暑さはどうしたことだろうか

少し歩いただけで汗が滲む





mardi 16 septembre 2014

リュクサンブール公園を眺め、話題豊富な哲学談義

Dr Luc Fetler


今日は朝からランデブーのため外に出た

先週、キュリー研究所で研究されている方から問い合わせのメールが届いた

現在の科学が余りにも視野狭窄になり、科学者自身が自分のやっていることを捉えられなくなっている

 このような現状認識から、もう少し広い枠組みに科学を入れ直して考えてみたいと思うようになった

以前にわたしの仏英ブログを見たことがあり、同じような背景があるので参考意見を伺いたいとのことであった

 わたしは真面目な学生ではないので、哲学の研究をしようとする方の参考にはならないとお伝えした

それでも、ということで、リュクサンブール公園近くでのランデブーとなった


お話によると、医学部を出た後、生化学、癌研究と臨床、さらに免疫学との関連へと領域が変容している

また、精神分析にも興味があり、ラカンなどをご自分の時間に読んでいるとのこと

今考えている研究テーマは、癌と免疫が絡むものにしたいとのお考えであった

そのような方から、どのような研究テーマが考えられるかという問いが出されたのには驚いた

時間を限って研究したいとの意向が強いため、横道に逸れるのを避けたいからだろう

 それから、どのような人とコンタクトするのがよいのか、などの質問が続き、さらに驚く


どこで仕事をしているのか、と訊かれたので、図書館と何といってもカフェだと答える

すると、わたしのような人がさっきまで後ろで仕事をしていたとのお話

毎朝10時にこのカフェに顔を出し、2時間ほど隅の席で仕事をして帰るとのこと

イスマイル・カダレ(Ismail Kadare, 1936- ) というアルバニア出身の作家であった

現代哲学者について訊いたところ、アラン・バディウさんを挙げていた

この場で何度も取り上げている方なので、そのことにも驚く


どこから繋がったのか忘れたが、アレクサンドル・グロタンディーク(Alexandre Grothendieck, 1928-)という数学者

 「隠遁生活」という話からだったかもしれない

50年ほど前にフィールズ賞を受賞

20年ほど前からピレネー山脈での隠遁生活に入り、人には会わないという

鉛筆と紙だけがあればよい数学だから可能な生活だろうか


この他いろいろの話題が出たが、共通する問題意識があることがわかった

それから、日本人の鬱や自殺を研究している慶応大学の北中淳子さんのことが話題に出ていた

最近、ご著書が仏訳され、聞き間違いでなければパリでのシンポジウムにも参加されたようだ

De la mort volontaire au suicide au travail


わたしの話がどれだけ参考になったのかはわからないが、こちらにとっては貴重なお話がてんこ盛りであった





lundi 15 septembre 2014

「科学の形而上学化」 について再考する


この週末は完全オフにした

摘み食いをしながら、ネットに溢れる古今の日本人の話を聴く

そのためか、今朝は体が重く感じられるだけではなく、実際に体重も増えたようだ

このところの不摂生が祟ったのだろう

今週から外に出ることにした

ということで、今日はカフェからのアップとなった

 
「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ「パリから見えるこの世界」の第32回が発表されたので紹介したい

(32) 国境の町リールで、「科学の形而上学化」について再考する
 
医学のあゆみ (2014.9.13) 250(11): 1063-1068, 2014

科学のあり方を哲学との関係で論じている

お目通しの上、ご批判をいただければ幸いである




vendredi 12 septembre 2014

本日は蠅さんと


今日は朝から晴れ上がっている

バルコンで瞑想でも、と思い椅子を出す

暫くして戻ると、この景色

蠅が一匹、日の光の当たる場所に移動しながら日向ぼっこをしている

椅子が日陰になるまで気持ちよさそうにしていた

 先日の蜘蛛もそうだったが、なぜかわたしの周りを離れてくれない

仕事をしている時ならば追い払って座っていたのだろうが、その時間を蠅さんと共に楽しんでいた

彼等との距離が近くなっているのを感じる





mardi 9 septembre 2014

蜘蛛とのひと時を味わう


先週まではラントレ・モードを何とか維持できた

この週末、大学に出す一年間のまとめを書くために、それまでの4年間の報告を読み直してみた

真剣に向き合っていたとは思いたいが、行く先が見えていない印象だ

今回のまとめでは、これからの方向も加えてみた

計画の段階はよいのだが、体が動かないという問題がある

長い間に染み付いた習慣を変えるのは大変である


今週から引き籠り先が休業中なので、こちらもゆっくりすることになった

寄って来た蜘蛛ともお付き合いする時間を味わうことができる

やはり、こういう生活が性に合っているのだろうか






samedi 6 septembre 2014

ニコラ・グリマルディさん、再び



2年前の哲学雑誌を手に取る

新鮮である

科学の領域にいた当時を振り返れば、2年前はかなり昔という感覚だろう

それだけ時間に追われていたことになる

哲学ではそれがない

ゆったりした流れというよりは、対象は常にそこらに漂っているという感じである


手に取った雑誌の中に、ニコラ・グリマルディというソルボンヌの教授だった哲学者のインタビューがあった

昨年5月、ボルドーに向かう車内で発見した人だと思っていた


しかし、その一年前に手に入れた雑誌の中にすでに顔を出していた方だったことになる

その時は読んでいなかったのだろう

この記事の中で、次のようなことが語られていた


お祖父さんから学んだこと

それは、われわれは一人で生まれ、一人で死んでいくということ

そして、真理に到達するのは孤独の中にいる時だけであるということ

デカルトがすべてから身を引き、宇宙に存在するすべてを疑い、コギトを発見したように


それから、これまでに影響のあった人を問われ、二人を上げている

その一人は、ウラジミール・ジャンケレヴィッチ (1903-1985)

彼は、哲学者というものがどういう人種なのかをそれとなく体現していたという

それは、自分が充分に時間をかけて考えたこと以外は話さないこと

そして、自分が深く生きたこと以外は考えないことであった

グリマルディさんが教える時に心していたことも、この師から感得したことだったという

それは、思想を生き生きとさせ、感情と同じように感染性を持つようにして、学生を退屈させないこと


上の写真には、グリマルディさんの言葉がある

「絶対の中に生きたいと願うこと

それは、地平を生きたいと欲するようなものだ

地平とは、そこに向かうが、決して辿り着かない・・・」



ところで、昨夜の帰り道

向こうから考え事をしているような若き女性がわたしの方に歩を寄せてきた

道でも訊かれるのかと思いながら、彼女からの言葉を待った

近くの道という枠組みになっていた疲れたわたしの頭は、最初その意味を掴みかねた

訊き直すと、こう言っていた

「ポーランドの首都はどこでしたっけ。ポーランドの」

それが思い出せなくて苛々していたのだろうか

そんなの簡単でしょと思ったが、その一言が出てこない

思い出そうとすればするほど、である

 なぜ出てこないのかと、こちらも苛々してくる

これは無理だと判断して失礼する

そして、歩き始めるとその答えが現れた

こういうことがよくあるようになってきた

弾性を失いつつある脳、とでも言いたくなる


それにしても何でもありのフランスである

なぜか嬉しくなり、疲れはどこかに飛んで行った





mardi 2 septembre 2014

日本からのお客様とのディネ

杉浦麗子先生(近畿大学薬学部)の研究室メンバーとお一方


今日の夕方は、サン・ジェルマン・デ・プレまで出た

現在パリで開催中の学会に来られた杉浦先生の研究室メンバーとのディネのためである

日本でも有名な観光スポットでの2時間となった

先生とは研究領域は関連していたが、ご本人のこれまでについては今HPを見て発見したところ

今日はフランスのことはもちろんだが、精神科のことについても話すことがあった

その反応が実験科学だけで生活している方からは出てこないようなものだったので、不思議に思っていた

HPで仏文や精神科の経験をお持ちだったことを知り、納得した次第である

そうであれば、そのように言っていただけると恥をかかずに済んだのだが、、、

いずれにせよ貴重な時間となった