mercredi 30 janvier 2013

フランス的でないフランス的な建物


今日は朝から雨

このところ遠くに感じられて足がなかなか向かわなかったビブリオテークへ資料を探しに行く

メトロを降りると、これまで建設中でどんなものに仕上がるのかわからなかった建物が目に入る

かなりご無沙汰していたことに改めて気付く

 その建物、何と外側にわざわざ木材を乱雑に打ち付けている

こういうのを見せられると、なぜか気分が浮き浮きしてくる

発想が枠を超えて飛び交っているように見えるからだろうか

だからと言って、肩に力を入れた商売っ気も感じさせず、自然に見えるからなのか

先日のヴィスマンさんの言葉を思い出せば、フランスの型への抵抗の表れなのか

それがまたフランスを感じさせる

これが出来上がりだと想定しての話だが、、、

そう言えば、大学の庭も規則性のない野生味がある変な作りになっている

設計者の意図を伺ってみたいものである


朝、近くの図書館からスタートした資料探しだったので、見つかってすっきりする

その中に目を引く別の材料があり、いつもの癖でそちらに嵌まり込む

ということで、本業はさっぱりの長い一日であった

こういう日もあるだろう




mardi 29 janvier 2013

ハインツ・ヴィスマンさんによる文明と文化 (3)


文化の対話という場合、二つのオプションがある

一つは、相互に争い、最も強いものが他のすべてを飲み込むもので、ドイツが犯した過ちがそれである

あるいは、フランスが植民地でやったように、すべての人に個別の文化を捨てさせるものである

いずれの場合にも、一つの文明しかないので対話が成立しない

アングロ・サクソンのように文明に文化の意味合いを込めた場合は別であるが、、

つまり、対話は文化の間にしか成り立たないのである


ここで、一つの言語の中における対話について触れてみたい

それは、専門化が進んだことによる使用語彙の多元化である

専門が異なると対話が成り立たなくなるという問題に繋がる

それから、母国語の能力を身に付ける以前に国際語と称せられる英語を教えようとする動きがある

その場合、目の前に広がる現実、文化を語るに十分な母国語を鍛えることが蔑にされる

技術的・専門的には優れているが教養を欠いた人間を作ることが可能になるのである

一般の言語と科学で使われる言語との間にも興味深い違いがある

一般の言語では、一つの言葉に込める意味をどんどん増やしていく傾向がある

それに対して科学では、誰もが誤解なく理解するために言葉の意味を限定していく



紀元前千年、地中海に二つの宗教的な感情が生まれた

一つはギリシャ的なもので、もう一つはヘブライ的なものである

ギリシャの宗教心とは、観察するすべてに神が宿るという内在性 l'immanence が特徴になる

神が自ら創造したものの中に存在するという意味になる

古代ギリシャ語の theos は、そこにある現実という意味であった

つまり、神性は現実にどれだけ近いかが決め手になる

これに対してヘブライでは、現実に存在しないほど神聖なものと考えられていた

ギリシャとは反対に、超越性 la transcendance が決め手になったのである


ギリシャの知の基本は、現実にあるものだけではなく、目に見えないものもあるものにすることであった

それはイデーを生み出すことにより可能になった

ギリシャで生まれた哲学は、瞑想により前に広がる全体を統合する満足を求めたのである

一方のヘブライの伝統では、見えないものを見えるようにすることは神性を剥奪することになる

絶対の神が言いたいことは理解することが難しく、翻訳する人が必要になる

その声は知に関することではなく、道徳的行動に関することである

ギリシャの知は論理であったが、こちらはテキストの解読が中心になる


(続きます)




dimanche 27 janvier 2013

ミシェル・セールさんによる 「技術と認知における革命」 を聴く



今朝、メール・ボックスに amazon.fr から案内が入っているのを見つける

普段はゴミ箱行きなのだが、なぜか覗いてみた

そこにミシェル・セール(Michel Serres, 1930-)さんの本が紹介されていた

Petite poucette (Editions le Pommier, 2012)

興味を覚えたので関連するお話を探したところ、出てきたのが「新しい技術:文化的、認知的革命」である

上のビデオはその最後の部分になる

以下に、簡単にまとめてみたい


人類の技術的な変革を時間、空間、新しい技術の扱い方の3つの視点から分析している

時間的に見ると、口述から筆記、筆記から印刷、印刷から現代のディジタル化の変化があった

この過程で、人間が持っている記憶、想像、理性という認知能力に関わるところに変化が見られた

昔は多くのものを記憶しなければならなかったが、その能力が次第に失われてきた

記憶を外に置くことができるようになり、記憶する必要がなくなったからである

最初は本であり、今ではコンピュータの中にある

四足歩行から二足を失った後、多くのものを得た

記憶を失ったことでわれわれは何を得たのか

それは知的な営み(特に創造性の発揮)に集中できるようになったことではないのか


Saint Denis, Notre Dame de Paris


この説明に興味を持ったのは、ブログを始めた今から8年前に気付いたことと繋がっていたからである

 その時、ブログが恰も外付けのメモリーのように感じられたのである

セールさんはさらに先を行き、脳機能のすべてが外付けになり、われわれは頭を失った存在だと見ている

この状況を説明するために、サン・ドゥニの頭(La tête de St. Denis)を例として出している

パリ(当時はルテティア)の最初の司祭サン・ドゥニが信者と集会を開いている時、ローマ人が侵入し首をはねた

その時、奇跡が起こる

サン・ドゥニは自分の首を取り上げて相手に差し出したという

われわれは今、この時のサン・ドゥニと同じ状態にある

毎日、自分の頭を目の前に置いて暮らしているというわけである


わたしなりにその先を解釈すると、こうなるだろうか

事実はすべて目の前に蓄えられている

事実を知りたければ、そこに行けばよいだけである

そうであれば、事実そのものを語ることにわれわれの脳を使うことにどれほどの意味があるだろうか

そうではなく、目の前にある事実について考えを巡らすことに脳の使用法を変換する必要があるのではないか

わたしの言う 「知識で終わる世界から知識から始まる世界への転換」 という言葉とも重なる

これを敢えて言えば、哲学的な頭の使い方ということになる

技術的な変革をしてしまったわれわれに求められるのは、哲学ということになる




samedi 26 janvier 2013

ハインツ・ヴィスマンさんによる文明と文化 (2)




ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)は自然の名の下に文化を中傷するようになる

なぜ文化の人ルソーがそうなったのか?

彼がジュネーヴからフランスに行った時、フランス人の洗練された動きに違和感を覚える

厳しい躾け、洗練された作法について考えた末、文化によって自発性の破壊が齎されるとの結論に至る

そして 『エミール』 において、自発性が自律的に育まれるような教育を提唱する

厳しい躾けとしての文化、外から押し付けられるもの、そして規則の厳守は彼の目にはカトリック的に映ったのである

それとは反対に、自己の真の表現を彼は主張する


この過激な考えに危機感を持ったミラボー(Honoré-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau, 1749-1791)が本を書く

それが 『女性の友』 (L'Ami des femmes)で、その副題が「文明論」(Traité de la civilisation

文化とは、野蛮な人間を社会の一員(civis)に変えるために使うもの

社会で快適に暮らすためには、人間は磨かれなければならないとミラボーは考える

ここで、文化(culture)よりは文明(civilisation)が市民を作るという意味で適切な言葉となる

磨くというところから文明は polis と繋がる

磨きをかけること(polissage)、礼儀正しさ(politesse)の意味において

このようにして、文明には圧力をかけて社会的人間を作ること、文化には人間性の自然な発露というニュアンスが生まれる


フランス人にとっての文明は、自然を超える普遍的なもので、複数の文明はない

 全人類が原始的な状態から抜け出して文明化される方向への運動なのである

したがって、植民地に対しても一つの文明を押し付けることになる

それに対して、イギリス人は土着の文化をそのままにし、彼らに統治させるという態度をとる

フランス人とは異なり、文明を複数のものと考えているからである

イギリス人の文明には文化のニュアンスがあることになる


この違いは庭の作り方にも表れている

フランスの庭園は文明化のイデオロギーのように幾何学的に作られる

フランスは自分の国でさえ六角形(L'Hexagone)と言うのである

一方のイギリス庭園は、木を刈り込むことをしない



(続きます)




vendredi 25 janvier 2013

読書における主客逆転


昨日、風邪気味の中、本を読んでいる時、文章に誠実に向かっていることに気付く

一つひとつの言葉の意味を丁寧に探ろうとしているのだ

短い文章を読んでいてもいろいろなことが湧いてくるが、それを抑えることをしない

むしろ湧くがままの想いとともに時を味わっている

そのため、全体で何を言いたいのかに至るには時間がかかる


仕事をしている時にはそれほど読む時間は取れなかったはずだが、どのような読み方をしていたのだろうか

はっきりとは思い出せないが、一冊を早く読むことに精を出していたのではないだろうか

読むことが目的になり、それほど楽しみは味わっていなかった可能性がある

何のために読んでいたのかわからないところがある

今はこちらでの教育の効果もあり、興味の焦点(問題意識)が絞られてきたように見える

その点を中心にして、対象を積極的に選ぶことができるようになっている


読む行為自体を別の見方で表現すると、こうも言えそうだ

昔はあくまでも自分が主体で、対象を遠くから眺めている

それに対して、今では文章が主体になり、そこに寄り添うように読み進んでいる

主客が逆転しているのだ

それは書き手に対する敬意の表れと言えるのだろうか




mercredi 23 janvier 2013

ハインツ・ヴィスマンさんによる文明と文化







ハインツ・ヴィスマン(Heinz Wismann, 1935-)というドイツ出身の文献学者で哲学者がいる

ファースト・ネームはフランス語では、「アインツ」

昨年気になるタイトルの本を出しているが、まだ手にしていない

Penser entre les langues (Albin Michel, 2012)


今回は、この方も編者になっている La Science en jeu (Actes Sud, 2010)にある一編を読んでみた

フランス語では、「文明の衝突」(le choc des civilisations)、「文化の対話」(un dialogue des cultures)と言うらしい

「文明の対話」とは言わないのはなぜなのかという疑問から始まり、文明と文化の違いを探っている

日本語では必ずしもそこまで厳密には使われていないように見えるが、、、


これまでは、例えばエドガール・モラン(Edgar Morin, 1921-)さんの以下の定義を基に考えていた

文化とは、ある特定の社会に特有な価値感や信仰などの総体

文明とは、技術、知識、科学、経済などの総体で、ある社会から別の社会への伝達が可能なもの

今回、新たなニュアンスが加わるのだろうか



文化(culture)の語源はラテン語の colere で、「気を配る、大切にする、世話をする」という意味がある

歴史的に見ると、最初の文化は農業(agricultura

それからメタファーで神聖なるものにも当て嵌められ、culturacultus が同じように使われる

カルト(culte)という言葉は、文化の第二の意味に由来することになる

紀元前1世紀、キケロ(Cicero, 106 BC-43 BC)が使った cultura animi (魂の手入れ)により、三番目の意味が加わる

それから長い間神聖なものが中心だったが、ルネサンスになると人間が書いたものがイタリアに入ってくる

そこで、ユマニストたちは土や神や魂ではなく、より人間的なものを文化という言葉に込めるようになる

それが言語的な文化であった

その典型がダンテ(Dante Alighieri, 1265-1321)

彼は、すでに書かれたものを繰り返すのではなく、言いたいことを言わなければならないと主張した

トスカーナ地方の生き生きとした方言を使い、ラテン語の文法を少し加味した傑作が 『神曲

神ではなく人間が書いた作品

これが言葉と知識により人間を表現する文化の源流となった


(続きます)




lundi 21 janvier 2013

さっぱりかからないエンジン


今日は朝から雪が降ったり止んだりの一日

先週から一つのことだけをすればよい状況になった

だからと言って捗るものではないことがわかってきたここ数日

何とか逃れたいと思っていたが、二つ三つ同時に抱え込んでいないと盛り上がらなくなってしまったようだ

 いつになったらエンジンがかかるのだろうか




dimanche 20 janvier 2013

聴いてみたい文化・哲学から見える政治の話


今朝、細かい雪が静かに降りてきていた

この窓から見える世界は平和そのものだ

遠くから垣間見る日本を取り巻く状況は混沌の中にあるように見える

目の前の出来事に反応するだけのお話はよく聞く

そこでは思考が忙し過ぎ、早回りして流れて去っていく
 
そこから少し離れて、落ち着いた空気の中で行われる文化的、哲学的な語りがどこかにないだろうか
 
 日本の教養のレベルを表すような、そんな語り合いに耳を傾けてみたいパリの週末である




samedi 19 janvier 2013

バルコンから遠ざかる雪のパリ


今週、気温が氷点下になり、急に寒さを感じるようになってきた

雪も2度ほど降ったのではないかと思うが、今朝はしっかりと積もっている

氷点下でなければバルコンに出ても耐えられるのだが、今週は厳しかった

思索が羽ばたく最良の場所に出られないのは辛いものがある




vendredi 18 janvier 2013

映画 "Renoir" を観る



監督: Gilles Bourdos (né en 1963 à Nice)


昨日は気分が乗らず、カフェで読むために外に出る

それが終わった時、タイミングよくこの映画が始まるところだったので観ることにした

ルノワールPierre-Auguste Renoir, 1841-1919)の晩年を描いた映画 Renoir である

南仏の素晴らしい自然の中で物語は進行する

風の流れをこの肌で感じることができるような映像が随所に出てくる

人々の営みを坦々と撮っているように見える

そこに囚われのない自由で自然な表現が出てくる

フランス映画に特徴的なスタイルになるのだろうか

それはフランス映画を観るようになり感じた違和感の元にあったものでもある

しかし、時間とともにそれまで気に入っていた作り物に見えるものには反応しなくなっていった

今では10年ほど前には違和感しか覚えなかったものでなければ満足できなくなっている

また、自分で写真を撮るようになり、以前には感心しただろう自然の描写にも感じ難くなっている

しかし、この映画では美しいと感じるところが少なくなかった

このような変化が見える時、自分の感受性もフランス文化に入ってから随分と変わったのではないかと疑う



ルノワールが晩年リューマチに苦しんだという話は聞いていたが、まさにその苦しみが描かれている

その中で創作に励む

一生かけて子供のように描くことを目指したというルノワール

マチス(Henri Matisse, 1869-1954)も同じようなことを言っていた

芸術家とはそういうものなのかもしれない


この物語はルノワールと最後のモデルだったアンドレ(Andrée)と二男のジャンJean Renoir, 1894-1979)を軸に回っている

アンドレとは、後に映画監督になるジャンの最初の妻で後に女優になるカトリーヌ・エスランCatherine Hessling, 1900-1979)

静かに時の流れを観察するかのようなフランス映画

好印象を持った


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ルノワールの絵に感じ入ったことはない

ただ、パイプをふかしながら新聞を読むモネ(Claude Monet, 1840-1926)を描いた絵の雰囲気が気に入ったことはある

もう6年も前のマルモッタン美術館で観た "Claude Monet lisant" 「新聞を読むクロード・モネ」(1872)である

それから日本で使っていたフランス語の教科書で観たムーラン・ド・ラ・ギャレット(1876)の光の戯れも記憶に残っている

 そして、ブログを始めた年に書いた記事を思い出す

ルノワール父子 AUGUSTE ET JEAN RENOIR (2005-09-29)




jeudi 17 janvier 2013

芥川賞・直木賞受賞者記者会見を観る




史上最年長、戦後最年少という冠が見え、予定を変更して朝からお三方の話を聴くことにした

芥川賞: 黒田夏子さん(1937-)

直木賞: 朝井リョウさん (1989-)、 安部龍太郎さん (1955-)

いずれも初めての方になる


第一印象は、それぞれの人生の歩みを自らに引きつけて誠実に語っているというもの

テレビではこのような対話はなかなか見られないのではないだろうか

そこにこの人生の味が滲み出ていた

また、我をなくしてこの世界のあるがままを捉えようとする姿勢

小説でこの世界を変えたいと思っているという安部龍太郎さんの言葉も印象的であった

質問する側とのやりとりもゆったりとしていて気持ちよく、朝から清々しい気持ちになる

この印象は日本語のない世界で観ているために増幅されているのではないか

そんな思いも湧いていた




mardi 15 janvier 2013

ずっと独我論者だったのか

Anatole France, torse nu (1919)
Antoine Bourdelle (1861-1929)


週が明け、寒い日が続いている

昨日の夕方は白いものが見えた

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先日のバルコンでのこと

この目が体を抜け出しわが生活を眺めた時、一体どんな感慨が湧くのだろうかという疑問が生まれる

何が楽しいのかわからない随分と単調で不思議な生活に見えるのではないか

こちら側にある目から見ると、どこか体が消えているようなところがあり、そんな疑問は湧いてこない

これ以外にはあり得ない生活なのだ

何もしていないように見えるが、頭の中では何かが進行していてそれを眺めている

それはこれまでには見たことのない眺めなのである


ところで、最初から内面生活を認めず、行動だけがその存在を知らせてくれるとする立場がある

行動主義(behaviorisme)である

人の心を誰にでもわかる形で知ろうとするので、入力と出力で調べる

しかし、入力と出力だけでは捉えられないことがその間で進行しているのは感じることができる

客観的、科学的であろうとするあまりの主張に見える
 

その一方で、この世界に存在しているのは自分の精神だけだという立場がある

独我論(solipsisme)だ

ひょっとすると、このわたしは独我論者ではないのかという疑問が湧く

 他の精神の存在を認めないのだから、どんな生活であろうがその判断は自分の精神だけに任される

 しかし、人と交わっている時にそうであったとも思えない

 今、庵の生活度が増しているからそう感じるだけなのか


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濃い週の初めである

一日がかなり長いものであることを感じている




lundi 14 janvier 2013

今年の運勢


昨日は終日籠もり、何とか終わらせることができた
 
 やっと新年が明けた気分と言いたいところだが、これからの毎日は昨日の再現になるのだろう

 あるいは、それができるかどうかが今年は問われている


ところで、こんな名前による占いサイトがあるという

早速試してみたところ、こんなのが出てきた

【2013年の運勢】
1月 献身
2月 幸福
3月 綾鷹
4月 接吻
5月 衰退
6月 完遂
7月 平穏
8月 自粛
9月 覚醒
10月 歓喜
11月 青春
12月 当確

想像だにしなかったものあり、今年は肖りたいものありだ

 科学や理性から離れた世界も捨てがたい





dimanche 13 janvier 2013

過去を現在に取り戻す年になるのか


このところ曇りか雨の日が続いているパリ

気が滅入るもう一つの訳は、今日までに仕上げなければならない原稿

いつものように締め切り間近にならなければ盛り上がらないのだが、その時間が短くなりつつある


今朝は学生時代が過去のものになりつつあるという感慨とともに目覚める

新年を迎え、やっと学生時代を振り返るという視線が持てるようになっている

これまではその只中にいて、謂わば空を飛び、陸を走る状態

なかなか振り返ることはできなかった

5年余りの飛翔の時間を見つめ直す年、まさに過去を現在に取り戻す年になりそうである

それはこれまでに貯まっているであろうガラクタをこの平面一杯に広げて眺めるというイメージである




mercredi 9 janvier 2013

締切りがいつまで力を与えてくれるのか

Paysage, effet de neige (1907)
Anders Osterlind (1887-1960)


昨日は寒い一日だった

街を歩き回っただけで満足感が訪れるという困った状態だった前日

それを午前中は引き摺っていた

バルコンで少し読む

締切りが迫っている原稿をそろそろ纏めなければならないのだが、、駆り立てるその力が薄れている

受け取る側の感受性の変化?どうにかなるだろうという甘えの出現?・・・?

午後から少し離れたところにあるカフェに向かった





朝のラジオ・クラシックに初めての人が出ていた

ダヴィッド・フレイ(David Fray, 1981-)というフランスの若手ピアニスト

フランス人を確かに感じる


そう言えば、今年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの指揮も初めての方だった

オーストリアの指揮者フランツ・ヴェルザー・メスト(Franz Welser-Möst, 1960-)さん

クリーヴランドの音楽監督をすでに10年もやっていて、このコンサートの指揮も2年前に続き2回目だという

音楽界の情報から如何に長い間離れているのかが分かる

それはそうと、ヴェルザー・メストさんの指揮、どこまでもクールであった

個人の感情がコントロールされていて、決して弾けない

ラテンの環境に長くなると、どこか物足りなさを感じてしまう

テレビの進行役は去年と同じブノワ・デュトゥールトゥル (Benoît Duteurtre, 1960-)さん

その昔、パリでお会いした方である

小さな出会い - ブノワ・デュトゥールトゥル BENOIT DUTEURTRE (2005-06-22)




mardi 8 janvier 2013

意外に達成感がある雑用



昨日は朝から事務手続きのため出かける

実はこれが3回目で、やっと終わってくれた

システムを変えたようで、これまでになく流れるように進んだ

もっと早く対処すればよさそうだが、大切だと思うところが違うのだろうか

日本人であれば耐えられないようなごたごたしたやり方でも平気なところがある

 午後からは別の用事で出かける

こちらも2回目になる今日で終わり、ホッとする

 届いたばかりの本を持って行ったので、それをカフェで数時間読む



という具合で、用を足している間に一日が終わってしまった

目の前に現れることを処理する

これが意外に達成感がある

仕事をしている時には、これを繰り返していたのではないか

そんな思いの週の初めである



lundi 7 janvier 2013

第5回 「科学から人間を考える」 試み SHE のお知らせ

 by Toshi (Toshimi Ishii


The Fifth Gathering SHE (Science & Human Existence) 

テーマ: 「生気論 vitalism を考え直す」 

 2013年3月26日(火)、27日(水) 18:20-20:00
いずれも同じ内容です


SHEの趣旨と今回の内容 

この世界を理解するために、人類は古くからいろいろな説明の方法を編み出してきました。それが神話であり、宗教であり、日常の常識でしたが、それとは一線を画す方法として科学を生み出しました。この試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかを、毎回一つのテーマに絞り振り返ります。そこでは目に見える科学の成果だけではなく、その成果の背後にある歴史や哲学にも注目します。このような試みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指すスパンの長い歩みをイメージしています。

今回は、その原型がアリストテレスの哲学にあるとも言われる生気論(vitalism)を取り上げます。生気論は生物には物理化学の原理に還元できない生命原理、生命力があるとする哲学的立場で、近代に入ってからは機械論(mechanism)に対抗する立場として新たに蘇りました。しかし、機械論、還元主義が圧倒的な力を持つ現代では非科学的であるとして退けられています。その背景には一体どのような歴史があるのか。科学万能時代と言われる今、非科学的とされた生気論から学ぶことはないのか。もしあるとすれば、それをどのように今の時代に生かすことができるのか。これらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が30分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。
 
会場: カルフール会議室
Carrefour
  
東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223 

参 加 費 
一般の方: 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
大学生: 無料(飲み物代は別になります) 

終了後、参加者の更なる意見交換の場として懇親会を開く予定です。
参加をご希望の方は、希望日懇親会参加の有無を添えて
she.yakura@gmail.comまでお知らせいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。




dimanche 6 janvier 2013

宇宙論において神の存在をどう考えるか

Centaure (1927)
Marcel Loyau (1895-1936)


年末に読んだ哲学雑誌の特集は「神」

あらましを紹介してみたい

そこでの問題提起は次のようなことになる

これまでの長い間、信者と無神論者が引き裂かれてきた

ここで問題の転換が必要になるのではないか

神が存在するか否かの問いから、神を考えることが有益なのか有害なのかの問いへの転換である

その方がより豊かな議論になるのではないのか

 神を信じることで悲しみ、死に対した時、善悪の判断が迫られる時に救いが得られる

物質以外の豊かさを齎す可能性がある

その一方、暴力、不寛容などの悪用も行われる

大学に創造論者や神学者が入り、科学との誤った対話が行われる


例えば、ヴォルテール(Voltaire, 1694-1778)はこう考えた

神は理性では到達できない

存在が証明されているのならば、「信じる」必要は出てこない

「知る」だけでよいのだ

人々がその存在を必要としているがその存在を証明できないならば、見方を変える必要がある

「もし神が存在しないならば、創り出す必要がある」 


ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842-1910)の考えはこうだ

神が存在するかどうかは問題ではない

その存在がより善く幸せに生きる上で有益か否かというプラグマティックな立場から考え直す必要がある

仮説が無効であれば5分で論駁されるが、神に関しては未だ結論が出されていない


 ハンス・ヨナス(Hans Jonas, 1903-1993)はその著書『アウシュヴィッツ以後の神』でこう結論した

神には親切、全知、全能という3つの特性がある

アウシュヴィッツを見ると、神には創造にお ける全能性はなかった


以前にも取り上げたが、同様の視点からマルセル・コンシュ(Marcel Conche, 1922-)もこう書いている

広島・長崎も含めた子供の惨状に見る絶対悪を前にすると、神の存在は信じられない


Longue traversée gris bleu de Loire à la tache verte (1976) 
Olivier Debré (1920-1999)


この雑誌では、道徳、政治、宇宙論における神の意味について対論を載せている

ここでは科学と神との関連について、宇宙論における意見の対立で見てみたい


まず、神を考えることに意味があるとする哲学者のポール・クラヴィエ氏(Paul Clavier, 1963-)の主張から

この宇宙は137億年前にビッグバンで始まったとされている

ベルギーのカトリック司祭ジョルジュ・ルメートル(Georges-Henri Lemaître, 1894-1966)の説である

しかし、この説は宇宙が無から生まれた(creatio ex nihilo)メカニズムを語っていない

宇宙の始まりは超高温度・超高密度であったというが、それ以前の状態についての説明がない

彼はローマ教皇ピウス12世(1876-1958)に自分の説が聖書の教えを否定も肯定もしないと伝えているという

クラヴィエ氏が考える本質的な問題は、それ自身で存在していること(self-existence)である

超自然的な力が関わらずに宇宙は存在しているのかという問題である

宇宙がそれ自身で存在しているとすれば、そこはカオスにしかならないであろう

それは無駄が多く、因果関係も見られず、予測も不可能である

しかし、宇宙には規則性や調和がある


一般に、信者は自然について省察するよりは内的生活やスピリチュアリティに重点を置く

しかし、それは残念なことである

科学(宇宙論)は信じることと知ることの間にある適合性を示す可能性を持っているからだ

また、科学と宗教を混同しなければ、宇宙論にとっても神は有益なはずである

電磁気学の創始者であるジェームズ・マックスウェル(James Clerk Maxwell, 1831-1879)は言っている

「科学は無からの創造について説明する能力を持っていない」 

Ocre léger à la tache violette Touraine-Loire (1981)
Olivier Debré (1920-1999)


一方、神は宇宙論にとって害になると結論するのが天体物理学者マーク・ラシエズ・レイ氏(Marc Lachièze-Rey, 1950-)

物理学の成果と形而上学的問いに対する宗教の回答を混同することは危険でさえある

16世紀、教会は聖書の教えに反する結果を出す科学に敵意を示し、ガリレオなどを異端審問にかけた

しかし、今は状況が逆転し、教会は宇宙論に関する科学の進展に興味を持つようになっている

ジョルジュ・ルメートルが後にビッグバンと呼ばれる説を出した時、信者たちはそこに「神の手」があったはずだと考えた

 ピウス12世も科学が聖書の教えを支持するとの声明を出したのである

それはガリレオに対するものよりもさらに悪い一撃をルメートルに加えた

科学界における彼の仕事の評価を落とす危険に晒したからである

それ以来、教会は科学の成果と教義が合致すると認めるconcordisme という毒饅頭を科学者に贈り付けることになった

宇宙の規則性が神や超越的存在の証明であるかのように言う人がいる

しかし、科学では数学の言葉で宇宙から素粒子の現象に至るまで解明できるという立場が賭けに勝ったのである

言葉であり道具に過ぎない数学を神が創ったとするならば、神を創ったのは誰かを説明しなければならない

宇宙の始まりを神に委ねるとすれば、それ以上の科学的探索を抑えることになってしまう


最後にラシエズ・レイ氏が言いたいことは、この世界の素晴らしさ、美しさを味わうためには数式は必要ないということ

そこに神の存在を見たとしても科学の発展にとって障害にはならないだろう






vendredi 4 janvier 2013

徐々に立ち上がる年になるか


新しい年が少しずつ動き出した

事務手続きのため、朝から2か所に出掛ける

今年は瞑想生活というやや受け身の状態から徐々に立ち上がっていく年になるだろう

1年は過ぎ去ると確かに短い

しかし、その中には年の初めには想像もできないものが詰まっていく

今年も目を凝らして眺めていきたいものである




mardi 1 janvier 2013

Meilleurs Vœux 2013


新しい年を迎えました

パリにおいて科学と哲学の間を行き来する思索生活を始めて6回目のことになります

その中で感じていることは、科学と哲学のインターフェースから見える景色の豊かさです

それ以前には感じることのなかった驚きを味わっています

昨年はその驚きを如何に語り掛けることができるのかをテーマに歩んできました

今年はこれまでの蓄積を論文の形にまとめる方向に進みたいと考えています

また、現在進行中の二つの試みをより奥行きのあるもの、新しい視点を提示できるものにしたいと考えています

一つは 「医学のあゆみ」 の連載エッセイ  「パリから見えるこの世界」 で、もう一つは 「科学から人間を考える」試み です 

ただ、この場は相変わらずの独り言に終始しそうです
皆様のご理解とご批判をいただければ幸いです
今年もよろしくお願いいたします





大晦日、旧市街を出ると空には虹が

 La Tour de l'Horloge de Tours
(トゥールの時計塔)


トゥールは新しい年を迎えたところである

年の初めに、昨年の締めくくりをしておきたい

大晦日の午後、トゥールの旧市街を歩いた

途中から軽い雨が始まったが、いつものように気にならない





そして、旧市街を出た時、この景色に出会った

微かに虹がかかっている

早速、その意味を考え始める



それからロワール川沿いにウィルソン橋の方向に行くと、反対側からの虹が見える

それは見ようとすると霞み、ぼんやり眺めているとはっきりしてくる

虹の方向と角度からいくと、先ほどのものとは別物なのだろうか

その意味するところは、まだ決めかねていた


ロワール河畔のフランソワ・ラブレー(1483-1553)像



Le Musée des beaux-arts de Tours
(トゥール美術館)


この美術館で学生として2時間ほど贅沢な時間を過ごした

入館料は2ユーロ

1作品を除いてすべて撮影可

その1作とは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour, 1593-1652)のLes Larmes de saint Pierre のコピー

貸主の注文らしい


美術館前の庭




美術館を出ると、キレのよいこの景色が待っていた




飛行機雲が聖ガシアン大聖堂に向かって一直線に進んでいく

 こころがすっきりする時間であった
 

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2012年最後の日に見た虹

それは近くに行けば行くほど遠ざかるこの手で掴むことができないものだ

虹には古代からいろいろな意味付けがされてきた

今回は、儚いながらもどこかに繋がる橋のようなものではないか、と期待することにした

両側から出ていた虹の間に橋を架ける、とでもいう願いだろうか

2013年を象徴する景色になるのだろうか

1年間じっくり観察していきたい