年末に読んだ哲学雑誌の特集は「神」
あらましを紹介してみたい
そこでの問題提起は次のようなことになる
これまでの長い間、信者と無神論者が引き裂かれてきた
ここで問題の転換が必要になるのではないか
神が存在するか否かの問いから、神を考えることが有益なのか有害なのかの問いへの転換である
その方がより豊かな議論になるのではないのか
神を信じることで悲しみ、死に対した時、善悪の判断が迫られる時に救いが得られる
物質以外の豊かさを齎す可能性がある
その一方、暴力、不寛容などの悪用も行われる
大学に創造論者や神学者が入り、科学との誤った対話が行われる
例えば、
ヴォルテール(Voltaire, 1694-1778)はこう考えた
神は理性では到達できない
存在が証明されているのならば、「信じる」必要は出てこない
「知る」だけでよいのだ
人々がその存在を必要としているがその存在を証明できないならば、見方を変える必要がある
「もし神が存在しないならば、創り出す必要がある」
神が存在するかどうかは問題ではない
その存在がより善く幸せに生きる上で有益か否かというプラグマティックな立場から考え直す必要がある
仮説が無効であれば5分で論駁されるが、神に関しては未だ結論が出されていない
神には親切、全知、全能という3つの特性がある
アウシュヴィッツを見ると、神には創造にお
ける全能性はなかった
広島・長崎も含めた子供の惨状に見る絶対悪を前にすると、神の存在は信じられない
Longue traversée gris bleu de Loire à la tache verte (1976)
この雑誌では、道徳、政治、宇宙論における神の意味について対論を載せている
ここでは科学と神との関連について、宇宙論における意見の対立で見てみたい
この宇宙は137億年前に
ビッグバンで始まったとされている
ベルギーのカトリック司祭
ジョルジュ・ルメートル(Georges-Henri Lemaître, 1894-1966)の説である
しかし、この説は宇宙が無から生まれた(creatio ex nihilo)メカニズムを語っていない
宇宙の始まりは超高温度・超高密度であったというが、それ以前の状態についての説明がない
クラヴィエ氏が考える本質的な問題は、それ自身で存在していること(self-existence)である
超自然的な力が関わらずに宇宙は存在しているのかという問題である
宇宙がそれ自身で存在しているとすれば、そこはカオスにしかならないであろう
それは無駄が多く、因果関係も見られず、予測も不可能である
しかし、宇宙には規則性や調和がある
一般に、信者は自然について省察するよりは内的生活やスピリチュアリティに重点を置く
しかし、それは残念なことである
科学(宇宙論)は信じることと知ることの間にある適合性を示す可能性を持っているからだ
また、科学と宗教を混同しなければ、宇宙論にとっても神は有益なはずである
「科学は無からの創造について説明する能力を持っていない」
Ocre léger à la tache violette Touraine-Loire (1981)
物理学の成果と形而上学的問いに対する宗教の回答を混同することは危険でさえある
16世紀、教会は聖書の教えに反する結果を出す科学に敵意を示し、ガリレオなどを異端審問にかけた
しかし、今は状況が逆転し、教会は宇宙論に関する科学の進展に興味を持つようになっている
ジョルジュ・ルメートルが後にビッグバンと呼ばれる説を出した時、信者たちはそこに「神の手」があったはずだと考えた
ピウス12世も科学が聖書の教えを支持するとの声明を出したのである
それはガリレオに対するものよりもさらに悪い一撃をルメートルに加えた
科学界における彼の仕事の評価を落とす危険に晒したからである
それ以来、教会は科学の成果と教義が合致すると認める
concordisme という毒饅頭を科学者に贈り付けることになった
宇宙の規則性が神や超越的存在の証明であるかのように言う人がいる
しかし、科学では数学の言葉で宇宙から素粒子の現象に至るまで解明できるという立場が賭けに勝ったのである
言葉であり道具に過ぎない数学を神が創ったとするならば、神を創ったのは誰かを説明しなければならない
宇宙の始まりを神に委ねるとすれば、それ以上の科学的探索を抑えることになってしまう
最後にラシエズ・レイ氏が言いたいことは、この世界の素晴らしさ、美しさを味わうためには数式は必要ないということ
そこに神の存在を見たとしても科学の発展にとって障害にはならないだろう