« Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)
「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ」(ポール・エリュアール)
mercredi 31 août 2011
アンドレ・ドランという画家 André Derain, un peintre français fauviste
この週末のオランジュリー。もう一人印象に残った方がいた。
アンドレ・ドラン (André Derain, 1880-1954)
マティスとともに野獣派を率いたフランスの画家。20世紀前半に活躍された方のようだが、今回初めて知った。ざらざらとした抵抗を感じたシャイム・スーティンさん (1893-1943) の作品とは逆に、ごく自然にわたしの中に入ってきた。色使いと具象から抽象へ向かうところの止め具合が肌にあったということだろうか。ほとんどの作品がよかった。以下に少しだけ。
mardi 30 août 2011
トンネルを抜けると小さな丘が
lundi 29 août 2011
オランジュリー美術館から
dimanche 28 août 2011
ランデブーの後、シャイム・スーティンを発見 Chaïm Soutine
今日は午後からチュイルリー公園でランデブーがあった。お相手は大学で化学を教える傍らサイエンスライターをされたり、国際化学オリンピックの運営にも関わっているというYさん。この夏、ご家族連れで調査研究に来られている。ブログを見て、珍しい道行の途中にいる、つい最近の言葉で言えば atopos な人間に一度会ってみたいということだったのかもしれない。わたしの方は、日本の大学教育、特に科学の歴史や哲学に関する状況をお聞きしたいと思っていた。現場での具体的な話や教育関係者のお知り合いの話も出てきて、参考になることが多かった。また、先日計画したばかりの 「科学から人間を考える会」 についてもご存じだったので、若い世代にも会の案内をしていただくようにお願いした。将来さらにお世話になることがあるかもしれない。
ランデブーは丁度オランジュリーの前だったので、4年もいてまだ入ったことがなかったその中に入ることにした。型通りモネの睡蓮の二つの部屋を見る。どこの空間を切り取っても曲線が美しい。地下に移ってセザンヌ、ルノワール、ユトリロ、モディリアーニ、マティス、シスレーなどを味わう。そして、この方の風景、静物、肖像が溢れる部屋に入った時、迸り出るエネルギーを感じる。
シャイム・スーティン (Chaïm Soutine, 1893.1.13 - 1943.8.9)
ベラルーシ出身のユダヤ人画家。20歳の時パリに出てくる。第二次大戦中にパリで50年の生涯を閉じている。いずれゆっくりと触れてみたい。
samedi 27 août 2011
大胆な振幅運動
Bnf のコーヒーブレイクでの瞑想
こちらに来てからほとんど無制限に(とは言え、哲学と科学の領域に限ったことだが)外からの刺激を受け入れていた。最初感じた外界との距離が次第に縮まり、自己と外界との境界がぼやけてきた印象がある。ところどころ嵐の後のように浸水しているようにも見える。まさに、「インターフェースから観る」 という今年の合言葉に相応しい状態だ。
しかし、この状態を続けていて中から何かが生れ出づることがあるだろうか。そのまま溺れるだけではないのか。時には自らの周りに囲いをして、外界と対決すべきではないのか。入りを制限し、中に堆積している外界のものを再び見直し対象化し、新しい形に作り変えていくことを考えてもよいのではないか。
こちらに来る前は自らの専門の周りに高い壁を作り、そこを越えてくるものに限って入れていた。それはある意味では快適な時間であった (今思えば、かなり楽観的でナイーブとも言えるのだが)。しかし、そのやり方は人間の持っているであろう多くのものを切り捨てる結果に繋がるのではないか。そのことに気付いたのは、専門を終える時期に一致して壁が低くなりつつあることを感じた時である。それは生れて初めての、あるいは生れた当初に戻るような経験で、それこそ人間のあるべき姿ではないのかと思うようになった。
ただ、この辺りで今の状態を変える必要があるのではないか。もとに戻すのではなく、新たなやり方を模索する形で。どのようにやるのか。今はわからない。ものの見方、やり方を局面に合わせて大胆に変化させること。極端から極端への振幅運動。これをいろいろな局面で繰り返しているようにも見える。今度は一体どのようなことになるのだろうか。
vendredi 26 août 2011
別の角度から新しい姿を見る
昨年お知り合いになったアン・マリー・ムーランさんから大量の論文が届いた。早速、予定を変更して読み始める。人類学から見ているものがほとんどなので、対象に直接触ることができないもどかしさはあるが、あるいはそれゆえに思索が刺激される。あるものを別の視点から眺めるとこんな姿にも見えるのか、ということが皮膚感覚でわかってくる。お心遣いに感謝。
ところで、夏に日本にいた後、年末にも日本で何かするようなわたしの様子を見て、すでに日本に帰ってしまったのではないかと思われていたようだ。もう少しこちらにいなければならない身であるので、これからもご指導をお願いしたい旨、伝える。
アン・マリー・ムーランさんを聞く (2010-09-30)
アン・マリー・ムーランさんとの対話 (2010-10-27)
jeudi 25 août 2011
超越性とでも言いたくなるもの
超越性 (transcendance ; transcendence) という言葉をこの領域に入ってから目にするようになった。科学の辞書には入っていなかったし、わたしの辞書では日本語と横文字が結び付かないままになっていた。そんなところから見ると、この言葉は科学を越えた何か、人知や感覚では捉えられない何か、神の領域に属することを指しているのではないかとぼんやり思っていた。
今朝のバルコンでのこと。いつものように陽の光を浴びてリラックスしていると、こんな考えが浮かんできた。
人類がこれまでに残した精神的な遺産の総体からそのエッセンスを抽出するということ。人間には到底手にすることができないだろうその抽出物の中に、至高の価値が隠れているのではないか。この抽出作業をやり続けること。際限のないこの営みに崇高なものが見えてくる。ここで求めているものを超越性と言うことはできないだろうか。
超越性の中身は永遠にわからないのだろう。
本来はそこに至る道もわからないのかもしれない。
ただ、仮にこう理解すると体と精神が動き出すようだ。
それが妥当な解釈かどうかは別にして・・・。
「語り得ないことについては沈黙しなければならない」
ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」 (1918年)
ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」 (1918年)
mercredi 24 août 2011
学問的哲学と生き方としての哲学
昨夜のこと。
寝入ってしばらくして、これまで気になっていたことの意味がわかり目が覚める。
寝入ってしばらくして、これまで気になっていたことの意味がわかり目が覚める。
科学と哲学が対比される。それぞれの特徴を明らかにし、両者の関係を考えるのは大変な作業だ。それはそれとして、同様の対立が哲学の中にもあると気付く。大学で教えられる学問的とでも言うべき哲学と自らの存在に照らした省察を主とする哲学との対比。それは、頭の中だけと体全身、専門職と日常生活、個別と全体と言い換えることができるような対比に見える。
この乖離に最初に気付いたのは、こちらの大学に来てすぐのことである。形而上学なるものが一体どういうものなのかに興味を持ち、自分の存在そのものに跳ね返ってくるような哲学が語られることを期待して講義を受けていた。もちろん、これまでの経験と照らしながら話を聞くことにより、省察や瞑想の世界に入ることはできた。しかし、講義そのものの中にその要素を見つけることは稀であった。大学における哲学というものが生き方としての哲学から大きく離れているためだろう。全体への視線が薄れ、科学者同様に哲学者と雖も小さな領域の専門家にならざるを得ない状況があるのだろう。それは哲学が大学で教えられるようになってからの宿命かもしれない。
この乖離に最初に気付いたのは、こちらの大学に来てすぐのことである。形而上学なるものが一体どういうものなのかに興味を持ち、自分の存在そのものに跳ね返ってくるような哲学が語られることを期待して講義を受けていた。もちろん、これまでの経験と照らしながら話を聞くことにより、省察や瞑想の世界に入ることはできた。しかし、講義そのものの中にその要素を見つけることは稀であった。大学における哲学というものが生き方としての哲学から大きく離れているためだろう。全体への視線が薄れ、科学者同様に哲学者と雖も小さな領域の専門家にならざるを得ない状況があるのだろう。それは哲学が大学で教えられるようになってからの宿命かもしれない。
わたしがこれまで哲学をやる中で感じていたアンビバレントな精神状態は、この対比をどう調和させるのかについて曖昧にやり過ごしていたことに原因があることに気付く。そして、われわれの生を全なるものにするためにはどちらか一方を諦めるのではなく、この二つとも思う存分打ち込めばよいだけだと決めることができたのだ。
そんなことを考えている時、こちらに来る前にパリを訪ねた折に出遭ったピエール・アドーさんの 「生き方としての哲学」 のことを思い出す。早速、関連本を読んでみたが、こちらに来る前の感覚が蘇ってくる。そこにわたしの求めていたことがある。自らの専門としての、謂わば頭だけの哲学に加え、実践に結び付く哲学、自らの全存在に跳ね返ってくる哲学がそこで語られている。哲学書を読み、それを華麗な言い回しで解説することで満足するのではなく、生きることを考え、生き方やものの見方を変えるために選択し、心を決めることが行われているかどうかがそこでは問われるのだ。このエピソードは、科学と哲学の関係についても改めて考えさせてくれる。
ところで、今日読んでいた本の中にアトピー atopie という言葉が出てくる。アレルギー疾患の中で遺伝的素因のあるものに使われるが、この語源になっているギリシャ語の atopos (場所 topos がない、場所を超えて) について触れている。この言葉はソクラテスの特徴を記述するためにプラトンが使っているという。場所がないという原意から、奇妙な、変わっている、常軌を逸した、非常識な、型に分けられない、度を越した、などなどいろいろに翻訳が可能な言葉でもある。
過去の哲学者はこの言葉をどのように解釈していたのだろうか。モンテーニュはすべての生の形の普遍性や自由闊達さ、キェルケゴールは宇宙や個人の実存の表現、ニーチェは時代精神に対抗する哲学者の態度、ルソーは奇行や狂気などを考えていたという。atopos を 「場所を超えて」 の意味に解釈すると、わたしの考える哲学者の基本的な態度にも繋がっている。と同時に、哲学が正規に教えられている場所から離れたところから、新しいものを産み出すもとになる時代精神に抗する姿勢や自由闊達さなどが生れる可能性が高いのかもしれない。
過去の哲学者はこの言葉をどのように解釈していたのだろうか。モンテーニュはすべての生の形の普遍性や自由闊達さ、キェルケゴールは宇宙や個人の実存の表現、ニーチェは時代精神に対抗する哲学者の態度、ルソーは奇行や狂気などを考えていたという。atopos を 「場所を超えて」 の意味に解釈すると、わたしの考える哲学者の基本的な態度にも繋がっている。と同時に、哲学が正規に教えられている場所から離れたところから、新しいものを産み出すもとになる時代精神に抗する姿勢や自由闊達さなどが生れる可能性が高いのかもしれない。
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jeudi 25 août 2011
昨日の本には、プラトンがソクラテスのことを atopos と言っていると記されている。その一例として、「饗宴」 (Le Banquet ; Symposium) がある。宴の最後の方に登場するアルキビアデスがこんなことを言っている。手元にあるバージョンと拙訳を。
jeudi 25 août 2011
昨日の本には、プラトンがソクラテスのことを atopos と言っていると記されている。その一例として、「饗宴」 (Le Banquet ; Symposium) がある。宴の最後の方に登場するアルキビアデスがこんなことを言っている。手元にあるバージョンと拙訳を。
"But this man here is so out of the ordinary that however hard you look you'll never find anyone from any period who remotely resembles him, and the way he speaks is just as unique as well."
Plato, Symposium (translated by Robin Waterfield)
「しかし、ここにいるこの男 (ソクラテスのこと) はあまりにも常軌を逸しているのでどんなに厳しく見たとしても彼に少しでも似ている男を見つけ出すことは時代を超えて難しいでしょう。そして、彼の話し方もまたどこにも見られないものなのです」 (強調と註は訳者)
lundi 22 août 2011
少し絞ってみては
dimanche 21 août 2011
手塚治虫の人生、あるいはいのちとは
今日は昼過ぎに通り雨があった。
昨日、今日は大人しくしていてもじっとり汗が滲んでくる。
秋を迎えるこの時期に、やっと夏らしくなってきた。
肖って、夏休みを取りたい気分だ。
この週末、手塚治虫さん(1928年11月3日-1989年2月9日)の日常を追ったNHKの映像を見直してみた。亡くなる数年前と数ヵ月前の映像なので、まだ還暦前だが彼の晩年の姿になる。仕事場のアパートの中にはそれまで人の目が入ったことはなかったという。瞳が澄んでいて、エネルギーに充ち溢れている。分刻み、秒刻みの時間に追われ、作品が出来上がる解放の時まで苦しみながら仕事をしている。睡眠時間も切り詰め、走り続けた人生だった。
劇画の台頭があり、スランプに陥った時もあったようだ。多くの読者を得たいとは思ったが、そのために魂を売ることはしなかった。あくまでも、自らの内なるものを貫いた上で読者の心を掴むのでなければ意味がなかった。売れることが結果であることを望んだのだ。
その内なるものとは何だったのだろうか。亡くなる数ヶ月前に子供たちに話しかけたところによれば、それはいのちだ。子供時代の大戦中、爆撃で人々が一瞬の内に丸太の山のようになるのを見て衝撃を受けた。そして、大学病院での研修中に見た死の間際にいた患者さんの表情だった。それまで苦悶の表情を浮かべていたその人は、死を迎えた瞬間に非常にいい顔に変わったという。その経験から、いのちというのは一人の人生の間だけ存在する小さなものではなく、永く連なる宇宙的なものであることを悟ることになる。だから、いのちは大切にしなければならないと子供たちに語っている。
人の一生は一つの問に答えるためにあると言った詩人がいた。その一つのことをするためにこの世に現れたのが人間であるとすれば、手塚さんは若くしてそのことを見つけ、そこに向けて身を削るようにして歩んだように見える。
いのちとは何なのか。科学でどこまでの回答が得られるのか、それはわからない。科学では答えられない哲学的な問になるような気もする。わたしも一人の人間としてその営みに加わらなければならないだろう。
ところで、漫画が公共の場で焼かれる映像が流れるのを見て、わたしが生きた時代に公然と焚書が行われていたことに驚く。当時の記憶が消失しているだけだとは思うが、気に留めていなかった証かもしれない。人間は簡単に野蛮に陥る動物であることを改めて確認する。
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lundi 22 août 2011
上で触れた焚書の映像を見た時、うまく表現できないが実に厭な感じがした。この感覚は2003年に田中真紀子さん関連の雑誌記事が差し止めになったとのニュースをラジオで聞いた時に感じたものと同じものである。その時、報道の自由か、個人のプライバシーの保護かで騒ぎになった。それから2年ほどして、最初のブログでこの問題に触れたことを思い出した。
MIKE BLOOMBERG - 報道の自由 LA LIBERTE DE LA PRESS (2005-04-14)
samedi 20 août 2011
vendredi 19 août 2011
「科学から人間を考える」 試みのお知らせ
jeudi 18 août 2011
ミシェル・ペトルチアーニというピアニスト Michel Petrucciani, pianiste de jazz français
久し振りにジャズチャネルへ。
詩情溢れる澄み切った音が流れてくる。
自然に心に響いてくるのでしばらく聞き入っていると、
このピアニストの名前が続いた。
詩情溢れる澄み切った音が流れてくる。
自然に心に響いてくるのでしばらく聞き入っていると、
このピアニストの名前が続いた。
(Michel Petrucciani, 1962年12月28日 - 1999年1月6日)
名前は知っていたが、こんな音楽を奏でるピアニストだとは知らなかった。
彼がフランス人だったことも。
この世はこんなことばかりだ。
彼の素晴らしいドキュメンタリーと演奏をゆっくり味わう。
彼がフランス人だったことも。
この世はこんなことばかりだ。
彼の素晴らしいドキュメンタリーと演奏をゆっくり味わう。
ニューヨークがもう懐かしく感じられる。
第二の故郷になるのだろうか。
遠くにありて思う方がよいのかもしれない。
第二の故郷になるのだろうか。
遠くにありて思う方がよいのかもしれない。
ほとんど90歳で亡くなっているが、最後までとろけるような音を出している。
これはお暇のある方でなければ駄目だろうが、彼の世界を満喫できる。
mercredi 17 août 2011
「科学から人間を考える」 試みのお知らせ、あるいはグレゴリー・ベイトソンさんのこと
すでにこの場でも折に触れて書いてきたが、こちらで科学という営みや自らの研究生活を振り返り、日本の状況を目にする中で気付いたことの一つに科学という人類の営みを支えきた精神活動 (科学精神と言うべきもの) に対する理解の不足がある。それは科学に留まらず、あらゆる目の前で起こっていることに対して、そのことは本当はどういうことなの?と一度立ち止まり、囚われを取り払って考える哲学的な姿勢が乏しいのではないかという印象が拭い去れない。その態度は、結局われわれの生に不利益を齎すことになっていないだろうか。
日本に帰った時に研究者に向けてこのような考えを話す時、同じような認識は多くの方に共有されているのではないかという感触を得るようになった。と同時に、研究者の枠を超えた方々と考えを交えることでより豊かなものが生れるのではないかとも思うようになった。そこで一つの具体的なアイディアを思いついた。それは、日本に帰った時に専門領域を離れた幅広い方々とこの問題を話し合う場を作ってはどうかというものだ。いつものように一瞬のことであった。
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最初の試みを仮に 「科学から人間を考える」 として、以下の要領で会を開くことに致しました。会のサイトはこちらになります。興味をお持ちの方のご参加を歓迎いたします。よろしくお願いいたします。
日時: 2011年11月24日(木)、午後6時半~午後8時
場所: Carrefour カルフール会議室 (定員約20名)
東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223
http://ebisu-carrefour.com/
案内パンフレット
今朝、メールボックスを開けると、先日ニューヨークであった生物記号論の会から嬉しい案内が届いていた。それは、科学・哲学・人間・環境の問題を考え続けたグレゴリー・ベイトソンさん (1904-1980) の娘ノラさんが彼の映画を作ったというニュースである。予告編を見る限り、非常に興味を惹かれる。この世界に繋がっていないものなどあるのか、という彼の言葉が重く響く。哲学者ジェリー・ブラウンが出てくるのもわたしを喜ばせる。それにしても、科学と哲学と人間というキーワードを弄んでいたその朝にこんな知らせが届くとは何というタイミングだろうか。
ジェリー・ブラウンがカリフォルニア州知事に、懐かしくもあり嬉しくもあり (2010-11-22)
mardi 16 août 2011
サンジェルマンの至福の時
今日も気持ちの良い朝を迎えた。本を探すためにカルチエラタンのリブレリーへ。目的のものは見つからなかったが、他にいくつか目に付くものがあった。その中の一冊は手に入れてからすでに手元にあることが判明。こういうことは何回かあった。今度こそ、すぐにでも読んで記憶に留めておかなければ、という気になる。
夏休みの雰囲気が流れる朝のサンジェルマン。あまりにも気持ちが良いので、すぐにビブリオテークに行くのがもったいなくなりカフェに入る。そこで読みかけの本を読み、道行く人を眺める。こういう気分になるカフェはパリを措いては今のところ見つかっていない。残念ながら、写真はその気分を捉えきれていない。至福といってもよい時間を味わった後、カフェを出て暫く夏の日を浴びなら散策。それからビブリオテークに向かった。
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