jeudi 30 juillet 2015

ハトの心と会話する



バルコンには偶にハトが寄ってくる

しかし、殆どは1分もいればすぐにどこかに飛んでいく

今日のお昼時、ハトがいることに気付き、鳴き声に似せて低い音で口笛を吹いてみた

するとどうだろうか

不思議な音が聞こえると感じたのか、首を横に振ったり、体に嘴を当てたりと落ち着かなくなった

そして、何度も後ろを振り向いたりし始めた

結局、20分くらいその音に付き合ってくれたのではないだろうか

 何かが通じているのでは、と思いたくなる時間であった





mardi 28 juillet 2015

ある建築家の設計哲学



東京オリンピックの競技場で揉めているという

問題をフォローしているわけではない

しかし、なぜか最初のブログ「ハンモック」で取り上げたフランスの建築家の話を思い出した

その建築家はケ・ブランリ美術館の設計哲学を問われて、こんなことを言っていた

2006年のことである


それは、他者の文化・文明のための区域territoireを創造すること、建物というよりはそのための場所(territoireというイメージで事を進めること、全的な建築 "une architecture totale" とも言えるものである。公園が全体の三分の二を占め、ギャラリーはセーヌ川の曲線と共鳴し、テラスはエッフェル塔の日陰になるという素晴らしい立地条件である。建物が平凡なので、色や光、細部で勝負した。

アフリカ・オセアニア文化の美術館では、例えばマスクなどはそれが本来あるべきコンテクストから抜き取られて、芸術作品として展示されることになる。しかし、彼は芸術作品として扱わないと言う。そのものが感情を揺さぶる力を維持していること、またそのものがある状況(踊っている人の顔にあるマスク)を想像することが重要になるので、そのための映像や文献も用意している。人類博物館とアフリカ・オセアニア博物館の統合をこの美術館はしている。

今日の建築を揺り動かしている問題は建物が建つところの地理や歴史との対話なしに、土地の人との協調なしに、いつも同じような形を落下傘で落すようなやり方で、このようにして世界を矮小化するのには反対である。仕事はいつも冒険であり、探検でなければならないが、90%のプロは場所に対する意識がない

  
こう答えていたのは、ジャン・ヌーヴェル(Jean Nouvel, 1945-)さんであった





vendredi 24 juillet 2015

"American Philosopher" が面白い



以前に取り上げたと思っていたが、見つからないのでこの場で改めて観ることにした

"American Philosopher"

哲学に入ったためであることは間違いないのだろうが、実に面白い

アメリカの哲学者の自由な語りが第一の魅力だ

アメリカの哲学の特徴を推測することもできる

そして何よりも、哲学をどう捉えるのかについてのヒントに溢れている

お勧めである





この中で、リチャード・ローティ(1931-2007)さんが哲学における創造性について語っている

 それは、古くからある問いに解を与えることではない

そうではなく、これまでの問いの枠組みを取り払い、全く新しい組み合わせを作り出すこと

全く新しい問いを出すこと、新しい方向性を示すこととも言えるのだろうか

哲学の仕事は解説することではなく、新しい概念を出し、一つの提案をすることだと言う人もいる


ローティさんは20世紀を代表する哲学者として次の3人を挙げ、人々を驚かせた

Philosophy and the Mirror of Nature (Princeton University Press, 1980) の中でのことであった

野家啓一監訳 『哲学と自然の鏡』(産業図書, 1993年)

人々が驚ろいたのは、相対主義者とも批判されたデューイがその中に入っていたからである

その人物をアメリカ分析哲学を代表すると思われていた哲学者が挙げたからである

分析哲学の手法で明らかにできる世界には限界があると考えていたことを想像させる

哲学には道徳的な視点が欠かせないと考えていた証左かもしれない


哲学の使命とデモクラシーの関係について、ローティさんはこう言っている

哲学の使命は民主主義の基盤を問うことではなく、どのように民主主義に貢献できるのかを問うこと

これを人間に置き換えれば、哲学の役割をこう捉えているのだろうか

人間の本質を問うところに留まるのではなく、どのような人間に成るのかに重点を置くべきではないか

彼は、哲学が科学的であろうとする流れにも異論を持っていたようである

 その意味ではマルセル・コンシュさんとも繋がり、わたしの考えにも近いものがある

いずれもが哲学から始め、その中で仕事に集中した人たちではなかった

パースは科学者であり、論理学、数学、論理学、記号論などにも興味を示し、そこから哲学を生み出した

ジェームズも絵画に始まり、医学(解剖、生理学)、心理学などから哲学に至った

その背景が豊かな哲学を生み出したのではないかと指摘する人もいる





mardi 14 juillet 2015

パリから見えるこの世界 (30) 「アトピーと哲学、そしてモンテーニュが試みたこと」

Maison familiale des Montaigne
(23-25 rue de la Rousselle, Bordeaux)


本日は革命記念日だ

だが、現世の出来事には無縁の生活が続いている


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 『パリから見えるこの世界』 第30回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde »

医学のあゆみ (2014.7.12) 250(2): 165-169, 2014


ご一読、ご批判いただければ幸いです





samedi 11 juillet 2015

ディオゲネス現る

 Diogenes (Detail)


  本日のメトロ

この絵にあるのと同じ服装のもう少し疲れたような感じの裸足の男が乗り込んできた

通路を挟んで反対側に座っていた中年女性の二人組が静かに後ろの方に移動した

すぐにこれはディオゲネスだと分かった

今何を思うのか尋ねようとしたが、思い止まった

こういうことが起こることに驚く

パリ8年目にして初めての出来事であった






lundi 6 juillet 2015

ニーチェによる風土と精神との関連


こう蒸し暑いと、ついニーチェの言葉を思い出す


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誰にしろ、何処に住んでも構わないというものではあるまい

ことに全力を振りしぼることが必要である大きな使命を果たさなければならない者は、

この点できわめて狭い選択しか許されていない

いったん土地と風土の選択を誤ると、自分の使命から遠ざけられてしまうばかりでなく、

使命そのものをわが身に授けてもらえないということが起こり兼ねないのである

つまり、彼自らが使命に面と向かうことを一度もしないで終ってしまうわけだ


どんなに小さな内臓の弛みでも、それが悪い習慣になってしまえば、

一人の天才を凡庸な人物に、何か「ドイツ的な存在」に変えてしまうには十分である

ドイツの風土にかかったら、強健な内臓、英雄的素質を具えた内臓でさえも、

無気力にしてしま うのはいとも簡単だ


ひとつ比べ合わせてみて頂きたい

才気に富んだ人々が住んでいたかまたは現に住んでいる土地、

機智と洗練と悪意が一体となって幸福の要素を成していたような土地、

天才がほとんど必然的に住みついていたような土地、等々を

どれもみな空気が素晴らしく乾燥した土地ばかりだ

パリ、プロヴァンス、フィレンツェ、イェルサレム、アテーナイ

----これらの地名は何かあることを証明している

すなわち、天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としていること


私はある自由な素質を持つ秀でた精神が、

たまたま風土的なものに対する本能的鋭敏さを欠いていたというそれだけの理由で、

狭量になり、卑屈になり、ただの専門家になり下がり、気むずかし屋で終ってしまったケースを、

目の当たりに見て知っている


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ニーチェ 「この人を見よ Ecce Homo」 (西尾幹二訳)
  


こちらに来て初めて、大地が揺れない土地に住んでいる幸いを意識するようになった

つまり、それまで天災が日常的に襲う特殊な風土の中にいることに無自覚でいたのである
 
それ以来、気候と精神の関係は想像以上に重要であることに気付くことになった

それは、積極的、意識的に住む場所を選ぶという行為を浮かび上がらせることにもなったのである





samedi 4 juillet 2015

映画 "Still Life" を観る


その時、わたしは機内にいた

それまで音楽を聴いていた

そして、最後の2時間になった時、目に入った 『おみおくりの作法』 という映画を観ることにした


静かな映画である

大きな動きがある時もさざ波にしか映らない

孤独死が中心にあり、その最期を看取る公務員が主人公だ

彼は期待されている以上の仕事をしている

亡くなった人間の人生を復元しようとして考え、動く

そして、最後は葬儀、埋葬を行い、一人で看取るのである

葬儀に参加したがる人間はいないからだ


しかし、これが経済原理には合わないらしい

安く上げるには、埋葬ではなく火葬

葬儀は生きている人のためであり、参列者のいない葬式には意味がない

そんな葬式は死者のためのものではないか

これが行政の言い分だ


彼はある日突然首を宣告される

しかし、取り掛かっていた仕事の完結を見るまでやり遂げる

そして、その人間のために自分が用意していた眺めの良い墓地まで譲るのである




彼の生活ぶりを外から見ると、質素で、簡素で、単調である

しかし、この公務員の仕事ぶりには細部を見逃さない丁寧さがある

静かな拘りと情熱がある

それはどこから来るのか

そのヒントはあっただろうか


映画の最後には二重三重の驚きが待っていた

ここで終わるのかと思った時、虚しさが残った

しかし、最後の最後には救いが待っていた

その時のわたしにはぴったりくるイギリスの匂い漂う素晴らしい映画だった


幸運を齎してくれるのは、やはり偶然なのか

そして、それは必然でもあるのだろうか





わたしがこちらの大学生活で学んだ貴重なことがある

そのことをこの映画を観ながら思い出していた

エディー・マーサン演じる主人公が、教会に一人いて見送っている姿を見た時

こちらの大学の先生が院生数人に対して講義する姿と重なったのである

教室が溢れるようなクールもあれば、2-3人のものもある

しかし、僅かな学生に対しても何ら変わることなく講義をする

それまで数に敏感であった身からすると、それは目を開かされる経験となった

それ以来、以前の拘りがわたしの中から完全に消えて行ったのである