昨日の記事に、次のようなベルグソンの言葉があった
「この方法は、その哲学者の年が幾つになっていても、常にふたたび学生になる覚悟でいることを要求する」
「覚悟」 という言葉には、それが実を結ばなかったとしても何とも思わないという響きがある
ある意味では、自らの生を犠牲にすることも厭わないということである
この言葉を見て、フランス語を始めたての頃、フランスの思想家の文章から感じたことを思い出した
当時は科学が自分の頭を占領していた
効率的に目的に辿り着くような思考法、科学的思考とされるもの以外は受け付けないような頭の中
その頭で彼らの文章を読むと、それを考えたところで一体何になるのかという感想しか浮かばなかった
そんなことをして死んでいく人生が何とも虚しいものに見えたのである
自らの生を無駄に使っているという印象であった
しかし、その印象は徐々に変わっていった
今の結論は、人間はそのように生きるものではないのか、というものだ
自分の中から生まれてくる疑問を最後まで問い続けること
これ以外に生きようはないのではないか
それこそが、自らの生を十全に生かすことではないのか、というところに落ち着いている
連想の繋がりでもう一つだけ
メトロの9番線の車両が新しくなり、車内で駅案内が流されるようになった
これまでこの沿線の駅名の綴りを見ていたが、音として確認するには至らなかった
そのため、全く新しい駅のように感じるところがいくつかあった
想像していた発音が違ったのである
それとは別の経験もした
この線に "Exelmans" という駅がある
先日、「エクセルマンス」 の 「マンス」 音を聞いた時、なぜかわからないが、その昔観た映画のことを思い出した
The Crimson Rivers (Les Rivières Pourpres)
ジャン・レノさんが発した言葉に 「・・・マンス」 のような響きがあったのだろうか
記憶の森に入り込むためには、何かの刺激が必要だ
その刺激が森の中の断片を引き出す切っ掛けになった時、自らの中が洗われたような感覚になる
わたしの場合には、それは爽快感に繋がっている
そして、その断片との繋がりを味わうためには、暇が必要になることは言うまでもない