mercredi 30 avril 2014

連想が生み出すもの


昨日の記事に、次のようなベルグソンの言葉があった

「この方法は、その哲学者の年が幾つになっていても、常にふたたび学生になる覚悟でいることを要求する」

「覚悟」 という言葉には、それが実を結ばなかったとしても何とも思わないという響きがある

ある意味では、自らの生を犠牲にすることも厭わないということである

この言葉を見て、フランス語を始めたての頃、フランスの思想家の文章から感じたことを思い出した


当時は科学が自分の頭を占領していた

効率的に目的に辿り着くような思考法、科学的思考とされるもの以外は受け付けないような頭の中

その頭で彼らの文章を読むと、それを考えたところで一体何になるのかという感想しか浮かばなかった

そんなことをして死んでいく人生が何とも虚しいものに見えたのである

自らの生を無駄に使っているという印象であった

しかし、その印象は徐々に変わっていった

今の結論は、人間はそのように生きるものではないのか、というものだ

 自分の中から生まれてくる疑問を最後まで問い続けること

これ以外に生きようはないのではないか

それこそが、自らの生を十全に生かすことではないのか、というところに落ち着いている



連想の繋がりでもう一つだけ

メトロの9番線の車両が新しくなり、車内で駅案内が流されるようになった

これまでこの沿線の駅名の綴りを見ていたが、音として確認するには至らなかった

そのため、全く新しい駅のように感じるところがいくつかあった

想像していた発音が違ったのである 


それとは別の経験もした

この線に "Exelmans" という駅がある

先日、「エクセルマンス」 の 「マンス」 音を聞いた時、なぜかわからないが、その昔観た映画のことを思い出した

 ジャン・レノヴァンサン・カッセルなどが出ていた 『クリムゾン・リバー』 (2000)である

The Crimson Rivers (Les Rivières Pourpres)

ジャン・レノさんが発した言葉に  「・・・マンス」 のような響きがあったのだろうか

記憶の森に入り込むためには、何かの刺激が必要だ

その刺激が森の中の断片を引き出す切っ掛けになった時、自らの中が洗われたような感覚になる

わたしの場合には、それは爽快感に繋がっている

そして、その断片との繋がりを味わうためには、暇が必要になることは言うまでもない







mardi 29 avril 2014

学生のように生きるということ


「金持ちであることなんて最終的には何の意味もない

贅沢なものを所有しなくたって自分がやりたいと思うことを、やりたいようにやって生きていく

その他に何を望む必要がありますか?

わたしは偉くはなりたくないの

人間って偉くなるとゴミがついちゃう人が多いんです

私はこれからも、学生にちょっと毛が生えたぐ らいの感じで一生暮らして生きたいと思っています

 ロンドンで暮らしていると、それが可能なんです

日本に住んでいたら、なかなか難しいでしょう

なんだかんだと持ち上げられたり、引っぱり出されたりする」


このようなことを語った人がいる

季刊誌 「考える人」 2005年春号での内田光子さんである

「 学生にちょっと毛が生えたぐ らいの感じで一生暮らして生きたい」 というところは全く同感

彼女の言葉を読んだ時の率直な感想であった

このインタビューは最初のブログで取り上げている




「人は自分の知らない科学に入門してそれを深く究め、必要の際にはそれを改める

しかしもしも数カ月ないし数年かかるとすればどうか

必要なだけの時間をそこにかける

しかし一生涯でもたりなかったならば、何代もかかればいきつくところへいける

どんな哲学者にも今、哲学全体を立てる義務はない

こういうような言葉をわたしは哲学者に述べる

こういうような方法をわたしは哲学者に申し出る

この方法は、その哲学者の年が幾つになっていても、常にふたたび学生になる覚悟でいることを要求する」

(河野与一訳)


こう言った哲学者がいた


「常にふたたび学生になる覚悟」 とは、初めから学び、それを哲学の発展に生かすというまさに覚悟だろう

わたしの場合は本物の学生になってしまったが、そのような覚悟とは無縁に見える

ただ、初めから学ぶという点だけは重なっている




samedi 26 avril 2014

面白いアイディアは洗面所から


マロニエの花が街に溢れる季節になっている

昨日は顔を洗っている時に面白いアイディアが浮かぶ

バルコンはじっくり考えるところだが、洗面所は何かがひょっと顔を出すことがあるところだ

新しく英語の本が届いたとの連絡が入ったので、外で吟味することにした

数時間、パスツール研究所で過ごしていると、次第に興奮してくる

何年振りだろうか


疲れたので、リブレリーに向かう

メールで注文したが、「あなたがその主だったの」 というような反応で、笑顔を交わす

いつも顔を見ているこのお客さんがどこかおかしいフランス語を書いていたのか、という感じだろうか

近くのカフェでじっくり読み始める

この 「じっくり」 というところが体に滲み込んできたことを感じながら

わたしが考えていたことがより深く思索されていて、実に興味深い

しばらくして、新しいと思われるアイディアをどう進めるのかに考えが移って行った

これまでは時とともに雲散霧消している

本物はなかなか現れない

もう少し様子を眺めたい



 こう書いてきたが、昨日の出来事が大昔のように感じられるパリの週末である




jeudi 24 avril 2014

今年は冷や汗をかく年か


今日は用事があり、観光スポットに足を伸ばした

リヴォリ通りのリブレリー2軒に寄り、5-6冊

 その中の1冊は、そんな予感がしたが、やはりすでに手に入れたものであった

このようなことは稀ではなくなってきた


そろそろ学生の仕事を、と考えている

以前よりは抵抗がなくなってはいるものの、当たらなければならない資料が余りにも多い

体力勝負になりそうだ

それから、今年は年が明けてから異変が起こった

これまでは学会に参加しても、そこで発表しようなどとは考えたこともなかった

受け取るだけで満足していた

しかし、それが一瞬で変わり、気が付いたら抄録を送っていたのだ

発表内容が纏まっているのではなく、学会までに纏めましょうという大胆さで

そんなことをしなくても何も困りはしないのに、と出した後は後悔の念が浮かぶ

何かを一瞬で決断するという習い性がここでも現れた格好だ

どこかに今年を冷や汗をかく年にしようという魂胆でもあるのだろうか


7年前、これから始まるコースの説明を聴いている時、静かに額を下りてきたあの冷たい脂汗を思い出す






mercredi 23 avril 2014

朝日が昇る中で


今朝はある言葉とともに目覚める

窓を開けると朝日が昇るところだった

昇りたてを見るのは久しぶりだ

少しだけ気分がすっきりする

クラシックチャネル(Mostly Classical)を流し、朝日とともに暫しの間ぼんやりする


昨日のビブリオテークで、久しぶりに Scientific American を手したことが浮かんできた

その雑誌は、その昔手にしたものと別物に見える

重さもそうだが、中身も軽くなったように見える

タイトル・ページに芸術的な写真や絵を持ってきている

以前にもその傾向はあったが、それがさらに大胆になっている印象がある

タイトルの字体も踊っている

それから著者にサイエンスライターやジャーナリストが入ってきている

これも以前にはなかったように記憶している

専門性は保ちながらも周囲との壁を低くしようとしているように感じる

 今の視点から昔を見直すと、科学の高みから外に向けて語るという意識が強かったように映る

科学が与える側に鎮座していたとも言える

それが今では外の人が科学を語るようになり、日常と結びつくような表現が増えているようだ

現代人が以前にも増して専門性の中で生きざるを得ないため、他の領域との壁がより高くなっている

そして、専門外に割く時間も減っている可能性がある

そう考えると、このような変化は生き残るための必然とも映る

ダーウィン的に言えば、そのような適応が選択された結果を見ているのかもしれない




今朝のツイート

朝の無為の時間が何とも言えず良くなってから久しい

仕事をしていた時には想像もできない豊かな時間だ

そろそろ仕事を始めなければならない今、それは毒である

ただ、無為の時間においてのみ、省察とか瞑想と言われることが可能になるのだ

なぜ仕事を続けるのが良くないのかの理由が、ここにある




lundi 21 avril 2014

オートバイの大行進


 本日は、Lundi de Pâques の祝日

アパルトマン周辺も静かな空気が流れている


先週末、セーヌ沿いを歩いている時、どこからともなく物凄い音が聞こえてきた

何が起こったのかと思い、上の道路に行ってみるとこの景色





オートバイの大行進だ

先日のローラースケーターのランドネを思い出す

辺り一面、春の気配 (2014.3.9)

その時もそうだったが、ほんの一部の撮影となった





mardi 15 avril 2014

春のパリ散策



この週末はお客さんとともに春のパリ散策となった

ソルボンヌの中庭に始まり、コレージュ・ド・フランス、植物園、海洋博物館、パリ大学ディドロなどへ

二日間、日頃の運動不足を補うかのように、よく歩いた


その中で不思議なことも起こった

その前日、ネットで大江健三郎氏のデモ前の演説を観ていた

その中で、今年は漱石の 『こころ』 百周年に当たり、『私の個人主義』 の話が出た

demonstration を「示威運動」と訳したのは漱石であり、示威運動の重要性を説いていた

そして当日、カフェで話している時、驚いた

その方が、今 『私の個人主義』 を読んでいると言って、カバンからその本を出したからだ


こんなこともあった

コレージュ・ド・フランスの正面広場には、エジプトの象形文字を解読したシャンポリオンの像がある

その説明をした翌日、再び驚くべきことが起こった

訪れた海洋博物館でシャンポリオンのビデオが流れていたからだ

Le voyage de l'obélisque, Louxor / Paris (1829-1836) である





この程度の発見が嬉しい春のパリである




dimanche 13 avril 2014

連載エッセイ第15回 「『水の記憶』 の科学者ジャック・バンヴェニストとリュック・モンタニエ」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第15回エッセイを紹介いたします

現在、日本で問題になっていることとも関連するテーマが扱われています

 ご一読、ご批判いただければ幸いです

« Un regard de Paris sur ce monde » 

vendredi 11 avril 2014

サン・ジェルマン・デ・プレ散策



昨日は締め切りの仕事があり、午後から研究所に籠もり、考える

今の時点で絞り出せるものを絞り出して送った

どのようなことになるのか、来月まで待たなければならない

何となくすっきりしたので、サン・ジェルマン・デ・プレに出た

昨年、動画ボタンを発見したあたりに差し掛かったので、春の景色を収めてみた










jeudi 10 avril 2014

連載エッセイ第14回 「森鷗外とパウル・エールリッヒを結ぶもの」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第14回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde » 

医学のあゆみ(2013.3.9) 244 (10): 944-947, 2013



 ご一読、ご批判いただければ幸いです






バルコンで朝の空を味わいながら最終チェック


今朝はある考えとともに目覚める

エッセイに手を加え、バルコンに出て読み直す

目を上げると久し振りのパリの空が広がり、部屋の中からはケルト音楽が聞こえてくる

この景色の中、最終的な校正して発送

日本にいる時には、その中になかなか入ることができなかったものをやっと終えることができた

不思議である





mercredi 9 avril 2014

少しずつパリのペースに

Gutenberg
@ l'Imprimerie Nationale, Paris 15e


パリに戻ると、夏時間が始まっていた

いよいよ夜が楽しみな季節になってきた

時差ボケも取れ、花粉症の症状は引き摺ってはいるが収まりつつある

昨日あたりから、日本では手が付かなかった仕事を外に出て始めている

快晴の今日は、昨日よりは調子が出ている

ただ、日本から体が凝り固まるようにやっていたせいで、全身を解す必要がありそうだ




lundi 7 avril 2014

小林秀雄の 『学生との対話』 が今回のカフェと結びつく


昨日の夕方、無事にパリに着いた

驚いたことに、機内に乗り込んだ途端、鼻水とくしゃみが始まり、道中苦しめられた

 前日のオープンカフェの影響だろうか

日本滞在をこれで総括されたような気分であった


それとは別に興味深い発見もあった

出発前、本屋さんに積まれていた小林秀雄の 『学生との対話』 を手に入れ、道中読んできた

 まず、彼の話していることが以前とは比べものにならないほどよく分かるようになっている

彼の作品をそれほど読んでいるわけではないのだが、、、、 

そのことに驚く

 こちらでの時間が影響していることは間違いないだろう


それから、この中に出てくる話が今回のカフェ(懇親会も含め)で話題になったことと重なるものが多いことだ

そのことにも驚く

その感覚は次のようなものだろうか

金曜にカフェフィロPAWLでディオゲネスが描かれているラファエロの「アテナイの学堂」 を示した

すると、その週末のシャヴァンヌを取り上げたNHK日曜美術館でその絵が現れるのである

それを見て覚える驚きのようなものに近い感覚である


わたしがこのようなカフェを始めた背景には、科学だけではこの世界を理解できないという思いがあった

それだけではなく、科学は科学そのものの営みさえ理解できないということである

小林さんも科学のこの特徴をよく見ていて、若い人に注意を促している
 
また、科学の中に入ってしまうとその虜になり、そのことにさえ気付かなくなる危険性についても指摘している

これに関連した話も懇親会で出ていた


 瞑想のような営みをしていると、日頃気付かない自分の奥にある記憶に触れることができることを話した

隠れている自分を発見することができるのである

それは、ここで言うところの 「自分の中を覗き込む」 という運動に近い

テレビなどを観る生活ではそこに達しない

意識の表層に留まり、中に入ることが阻害されるからだ

それは日本に帰る度にわたしが経験していることである

この本のなかでも、ベルグソンを引きながら無意識の世界について論じている

日常生活では必要になる記憶しか引き出さない

それ以外の記憶は邪魔になるからだ

それを繰り返していくうちに、自分を特徴付けているはずの記憶の全体には触れずじまいに終わるのである


今回、われわれの思考の中に科学では排除されている主体を取り戻す必要があると感じ、PAWLを始めた

それによって初めてわれわれの脳が全的に働くと考えたからでもある

小林さんも対象を自らの外に置いて解析する研究の不十分さを指摘している

「歴史は常に主観的です。主観的でなければ客観的にはならないのです」 という言葉もある

 カフェにおいても歴史は重要な要素になっている

小林さんの観察は、今の歴史は出来事を正しく調べることで終わっているというもの

つまり、科学的であれば良しとする風潮を批判しているのである

そうではなく、歴史とは上手に 「思い出す」 ことであると言っている

そのためには、人間の精神や思想にまで入り込まなければならない

どの程度できているのかはわからないが、これはわたしの目指しているところでもある

このようなことが他にもたくさん出てくる


最後に一つ、「考える」 ということについて本居宣長の考えを紹介している

「本居さん」 と呼んでいることも注意を引いた

「考える」 の古い形は 「かむかふ」 だという

「か」 には特別な意味はない

「む」 は 「み」 で、自分の身を指している

「かふ」 は 「交わる」 ということ

なので、考えるとは、自分の身を以って相手と交わることになる

つまり、対象と自分が親密な関係に入ることを意味している

そのためには、相手の身になって考えること、共感、想像力を必要とする

どこか、ジョン・キーツの "negative capability" を想起させる

そう考えると、SHEとPAWLのカフェは、実はわたし自身が考える場にもなっていることが見えてくる

 以前から気付いてはいたが、今回小林さんの言葉により、そのことがはっきりと意識されるようになってきた

道中の貴重な収穫である




dimanche 6 avril 2014

open-ended な生き方


有意義な出逢いがあり、予定していた3つの会も予想を超える成果を齎してくれた今回の滞在

本日が最終日となった

今朝、SHEの懇親会で話題になった一つのテーマが再び浮かんできた


ダーウィンが唱えた進化論

その重要な要素として、目的を持たない open-ended な過程であることが挙げられる

 どこかにあるだろう理想の姿に向かって進化しているのではない

あくまでも、その時点での最適なコースを経ることによってどこかに向かっているというイメージだ

系統発生を個体発生に当て嵌めることには問題があるだろう

しかし、敢えてそれを試みるとすれば、次のような絵が浮かんでくる


この人生には目的などない

一つの目標に向かって進むなどというのは、生物が持っている本性に反するものである

そうではなく、「いま・ここ」 において最良のことを行うこと

それが重要になる

そこでは環境に応じる創造性が要求されるだけではなく、環境が創造性発揮の機会を与えてくれる

そして、それを繰り返した果てに現れるもの

それこそが、その個人が持っている本質のようなものではないだろうか

 そう考えると、どんな一瞬にも自らの持つ創造性を発揮しなければならないことに思い至る

そして、その創造性は自らを覗き込む運動の繰り返しの中からしか生まれてこないような気がしている

この人生は、自らの本質がどこにあったのかを探る旅と言えるかもしれない



これからパリに旅立つ

今日は成田エクスプレスからのアップとなった





samedi 5 avril 2014

第7回サイファイ・カフェ SHE の二日目終わる


昨夜は今回の滞在の最後の行事となる サイファイ・カフェの二日目であった

遠くからの方も含め、多くの方に参加していただいた

年度初めのお忙しいところ参加された皆様に改めて感謝したい

実は会が始まる数時間前、開催が危ぶまれる事態に陥った

パソコンがフリーズして、お話が詰まったパワーポイントにアクセスできなくなったからだ

人生は本当に何が起こるかわからない

途方に暮れていたところ、初日のスライドPDFを参加者に送っていたことを思い出す

真面目にやっておくものである

データはネットカフェでメールから取り出すことができた

問題は使うパソコンだったが、近くに適当なレンタルパソコンが見つかり、何とか間に合わせることができた

この間、切羽詰っているはずなのだが、心は凪

もうそのことに驚かなくなって久しい


会の方は前日同様、講師が話し過ぎ、討論の時間が少なくなった

しかし、穏やかだが充実した議論が進んでいたように思う

ウィルヘルム・ヨハンセン(1857-1927)というデンマークの植物学者がいる

彼が 「遺伝子」 という言葉を1909年に初めて使った

ヨハンセンはまた、「遺伝子型」 と 「表現型」 を識別した

外に表れている特徴とそれを生み出している元のものは別物であること

さらに、遺伝子型はメンデルの因子(=所謂遺伝子)には還元されないこと

つまり、表現型を生み出すために必要な他の要素も含めて遺伝子型と考えていた

現代でもタンパクを作るDNA断片を遺伝子と定義し、それがすべてを決めていると考えがちである

しかし、この見方は表現型を生み出す他の要素を視野の外に押しやる危険性がある

遺伝子型をホーリスティックに捉えていた 20世紀初頭のヨハンセンの見方は、極めて現代的である



懇親会は初日より多くの方が参加され、議論が盛り上がっていたようだ

初日に匹敵する長時間の意見交換となった

この会もすでに7回を終えたことになる

次第にリラックスした雰囲気が醸し出されるようになっている

そのためだろうが、発言がこれまでよりは自然に出ているように感じるのは気のせいだろうか





カフェの冒頭をカメラで録画して Youtube にアップしてみました

ご批判いただければ幸いです

次回は、今のところ11月を予定しています

詳細が決まり次第、この場で紹介する予定です

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

 これからもご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします





jeudi 3 avril 2014

第7回サイファイ・カフェ SHE の初日終わる


今夜は7回目になるサイファイ・カフェを開いた

天候が良くなかったためか、お二人の欠席があった

遠くからの参加もあり、皆様には感謝したい

今回のテーマも 「遺伝子」 という大きなものにしたため、どのように提示するのか寸前まで考えていた

最終的には、19世紀からの歴史を辿りながら、科学者の採った考え方を検討するというやり方にした

壮大な歴史があるため、大きな出来事を中心にせざるを得なかった

短い時間では致し方ないのだろうか

遺伝の中における遺伝子という視点に立てば、昔の絶対的立場は揺らぎつつあるように見える

最近の科学の成果はわれわれに希望を与えているようにも感じる

われわれは手を出せないと思っていた自身の未来に少しは関わることができるのではないかという意味において


後半のディスカッションでも活発な議論が進行していた

先週のPAWLのテーマの一つが率直に語ること、社会的ヒエラルキーを超えて語ることであった

 それがなければ、「こと」 の本質が見えてこないからであり、「こと」 が動かないからでもある

今日のやり取りで何が問題になっているのかが以前よりよく見えてきた

真剣に意見を交えることによってしか見えてこないものがあるのだろう

このような積極的な議論、意見のぶつかり合いをこれからも期待したいものである



今日の懇親会はなぜか時間のない方が多く、少人数であった

そのためではないだろうが、普段より1時間ほど長い意見交換となった

日本の現状に対するそれぞれの分析やこれからに向けての具体的なサジェスチョンも出たりしていた

過去への視点だけではなく、未来も視野に入れながら体を動かすことも考えてはどうか

そんな気にさせてくれる時間となった