lundi 31 mars 2014

友人との語りで暮れた週末


この週末、30年来の友人お二人とパリから日本に戻っている友人とのランデブー

人に会うとそれぞれの世界が迸り出るので実に興味深い

30年とはいえ、このようにお会いするのはそれほど多くない

お二人とも現世にどっぷり浸っているという印象で、同情を禁じ得ない

しかし、向こう側から観ると、こちらが異常に見えるのかもしれない

いろいろな助言をいただいた

感謝したい


昨日はわたしが街を歩いている時だけ激しい雨が降り、雷にまでお付き合いいただいた

その上、非常事態発生で、予定の時刻から2時間ほど遅れての奇跡の再会となった

いろいろなことが起こるものである

パリ時代の友人は将来を模索されているご様子

お話を伺いながら、自らの若き日にも同じように悩んでいたのだろうかと記憶を辿る

特に外国にいる時には、日本では考えられないような疑問が湧いてきたことが思い出される

いろいろなことが今に繋がっているとすれば、ぼんやり過ごすよりはよいのではないか

そんな感想を抱きながらの時間となった

今はこれからのご活躍を願うばかりである




vendredi 28 mars 2014

第1回カフェフィロ PAWL でディオゲネスについて考える


昨日はサイファイ研初の試みになる 「生き方としての哲学カフェ PAWL」 を開いた

まず、年度末のお忙しい時に参加いただいた皆様に感謝したい

初回のテーマは、古代ギリシャの哲学者ディオゲネスを取り上げた

現代の枠組みの中にいると、その生き様は常軌を逸しているように見える

しかし、本当にそうなのだろうか

実はわれわれの方が多くのものに囚われ、自由が奪われた状態にあることに気付いていないのではないか

 文明の中にいるわれわれは多様に絡み合った枠組みの中にいる

最初から枠組みの中にいると、そこで進行していることの本当の姿が見えてこない

社会の流れを外から観るという視点がなければ、大きな流れに異議申し立てをすることもできない

これは哲学の持つ大きな機能であるはずだ

そのことを教えてくれる哲学者である


それから彼は社会的秩序を超えて自由にものを言うこと(parrhesia)を実践した人間でもある

この営みは思想と行動の一致を要求する

そのため、その人間を危険に陥れることになる

日本に帰ってきていつも感じるのは、自由にものを言うということが抑制されているということである

言論空間が澄み切っていない、突き抜けていないように感じるのだ

そこでは 「もの・こと」 の核心に至るのが難しい

そのため、本当の姿を見ないままどんどん先に進むのである


カフェの名前であるPAWLは生き方としての哲学(Philosophy As a Way of Life)の頭文字である

しかし、この言葉には別の意味もある

それは、一方向に進むための装置であるラチェットのツメという意味である

歯止めの役割を担っている

より広く解釈し直すと、正の方向に進むことに対するフィードバックという含みも見えてくる

さらに、社会の大きな流れに抗する機能を持っているとも言える

上でも述べたように、これこそ哲学がやるべきことである

その意味でも、含蓄のある名前になったと考えている


なぜPAWLの初回に辺縁の哲学者とも言えるディオゲネスを選んだのかという質問が出た

これまでに書いたことが一つの回答になるだろう

それから、この会のテーマとしてディオゲネスを選んだ後にこういうエピソードがあった

驚きの大発見、それは今年二度目の出来事か (2013-12-11)、

彼の哲学を見直してみると、自分の中に多くのディオゲネス的なものがあるのではないか

その実践は若い時には難しかったが、囚われのなくなった今、それがよく見えるようになっている

それが、彼を初回の主役に選ばせたのではないか

無意識のうちに




今回、初の試みとして、このところ気に入っているカメラの動画機能を使ってみた

どうなるかわからなかったが、15分間ちゃんと写っていた

丁度、イントロ部分をカバーする内容であった

初めて自分が話している姿を見たことになるが、わたしの頭の中にある姿とはかけ離れた別人であった

さらに驚いたのは、齢を重ねている上、長い庵生活のためか、ローキーで滑舌不明瞭なことである

あれで参加された方が居眠りしないのが不思議なくらいであった

そう言えば、ディスカッションでの皆様の発言を聴いている時、その声量と張りをはっきり聞き取っていた

参考までに、Youtube にアップしました

ご批判をいただければ幸いです






mercredi 26 mars 2014

同じフロアの同窓会を愉しむ


昨日の朝は涙目を診てもらうのと花粉症のための目薬を貰うために病院へ

待合のホールはご老人で溢れている

外から見るとその中に溶け込んでいるはずなのだが、そう思うと恐ろしい

それからパリと同じようにカフェの梯子と思ったが、再現することはなかなか難しい


夜は最後の職場となった研究所の同じフロアにいた皆さんの集まりに紛れ込んだ

10年振りくらいの方も参加

お子さんが大学に入ったり、大学を卒業して就職という方も何人か

時の流れの速さに驚く

予想もしなかったような繋がりも現れ、旧交を温めるだけではない収穫があった

そこが終わった後、何人かの方とコーヒーを飲みながらの歓談となった


このところ連日のように過去が蘇っている

そして、この生がほんの一瞬であることを思い知らされている

昨夜も貴重なランコントルとなった







mardi 25 mars 2014

日本最後の職場の皆様と2年振りの会食

渡邊正孝、本郷利憲、中田裕康、嶋津浩の各先生


今夜は日本最後の職場となった研究所の皆様との会食があった

同期のお二人と元所長のお二人

皆様にはお忙しいところお集まりいただき、感謝したい

昨年はこちらの不手際でお会いできなかったので2年振りとなる

それなりに時が流れていることを感じながらの歓談となった

嶋津先生は今年米寿とのことで、期せずしてお祝いの席となった

渡邊氏はまだ仕事をされているようで、頭が下がる

わたしの方は、今回もなぜ学生生活の報告ができないのかについての報告となった

中身を報告できる時は、果たして来るのだろうか


現在連載中の拙エッセイを楽しみに読んでいただいているとの声が聞こえ、少しだけ安心する

あのようなお話が医学の専門誌に載っていることに驚きの声もあったように記憶している

最近の記憶は当てにならないのだが、懐の深さを指すコメントだったのではないだろうか


この世にこうして生きていることが奇跡に思える一夜であった

 次の帰国時にも是非お会いしたいものである





lundi 24 mars 2014

人生の後半について語り合う


今夜は1年振りの歓談となった

昨年秋に帰国の折、お会いする予定だったが、台風により叶わなかった

実は本日も危ないところだった

齢を重ねている影響か、時差ボケが未だ解消せず、うとうとしていたからだ

何とか目覚め、間に合わせることができたのは奇跡的であった

話題は多岐に渉ったが、年齢に相応しいものが多かったように思う

その中に二つほど将来に向けての貴重なサジェスチョンがあった

今回の滞在の二つ目の発見と言えるかもしれない




mercredi 19 mars 2014

久し振りの学友と歓談、そしてなぜの鷗外全集だったのか


数年ぶりから数十年ぶりの学友と夕食会を持った

今もリハビリ中でありながら参加されたM氏ご夫妻や数年前に奥様を亡くされ未だ快復中だというY氏

お二人とも学生時代は同じグループだったので、嬉しい再会であった

それからストレスフルな仕事を未だに続けているという四人のS氏

専門の話になると、付いていけなくなっているのは致し方ないだろう

逆に、人間的な配慮の出来ない職業人が増えているという話を聞くと何かできるのではないかという気になる

癌闘病中の学友の話が出たりすると、現世に今生きていることを感じざるを得ない

久し振りにざっくばらんな話や意外な人の繋がりが見えたのは幸いなことであった

形に囚われることなく、これからもこのような会を持ちたいものである



初日の発見から

日本に帰る度に学生時代の本棚を眺め、なぜそこに鷗外全集があるのか不思議に思っていた

大学を卒業するあたりに出始めたものをなぜか手に入れた

しかし、一度何かを読んだだけだが、全く入って来ず、それ以来触れたことがなかった

文庫本を読み分かっていたはずだが、なぜわざわざ手に入れたのか


時差ボケの朝、その中の1冊を取り出し、読んでみた

第5巻の『現代思想』と『金毘羅』である

テーマは、それぞれライナー・マリア・リルケと息子が亡くなった時のこと、科学と宗教の問題

読み始めて驚いた

これまで全く受け付けなかったその文章が何とよく入ってくることか

 その文章を自然に感じるまでに40年の歳月を要したことになる

この時のために、40年前に準備していた訳でもないだろうに

このような変容に気付くことは、嬉しいものである

これからの愉しみが増えることにもなる

今回の収穫第一号かもしれない





lundi 17 mars 2014

半年振りの日本、あるいは同じ平面の異空間


半年ぶりの日本である

最早当初感じた辿り着いたという感激は湧いてこない

前回は少なくとも初日には何か感じるものがあったような気がするが、それも消えている

フランスと日本がほぼ同じ平面になったかのようである

ただ、時差ボケで目覚め、一週間前のローラースケーターのランドネを思い出すと、それは夢の世界なのだ

パリでは院生としての生活をしている

論文を書かなければとか、学会発表の準備をしなければとか思案する生活である

こちらから見ると、なぜそんなことをしているのかという感じである

これも現実感のない夢の世界に見える

ただ、日本以外の国に行ってもそんな感覚は生まれない

学生を引きづっているのである

実に不思議だ

同じ平面にありながら、異なった世界に生きることができている

それは案外面白いことなのかもしれない





dimanche 9 mars 2014

辺り一面、春の気配



このところ快晴が続いている

今日は午後からカフェに出掛ける

冬の装備では暑苦しいほどの気温であった

カフェで暫く読み、顔を上げるとなかなか途切れないこの景色

その動きが春を告げているようで、心躍る

急いで録画ボタンを押した





jeudi 6 mars 2014

緩和医療の倫理についてレフレシールする

Dr. Pierre Basset (Centre Hospitalier de Chambéry, Université Paris-Sud)


昨日は緩和医療の倫理学についてのお話を聴くために大学まで出掛けた

 緩和医療の現場の責任者がこの問題をどう考えているのかに興味があったからだ

丁度書いたばかりのエッセイのテーマがこの問題と関係があったことがその背景にあるようだ


緩和医療にどう向き合わなければならないのか

緩和医療は分野横断的な構造を持っていなければならない

単純には片付かない状況でどのように対応するのか

倫理的なリフレクションにおいて注意すべき点がいくつかあった

専門家、非専門家の枠、ヒエラルキーや形式を取り払うこと

その上で、すべての人が同じ地平に立ち、そこにある問題について一緒に考えるようにすること

その結果明らかになったことを、すべての人がわかる簡明な表現で外に開いていくこと

目の前の問題には常に複雑さが伴うが、それを解き解す必要がある

お話の中には「レフレクシオン」や「レフレシール」という言葉がよく出てきた

今起こっていることについて振り返ること、いろいろな規範についての知識や時間を要する営みである


それから、治療のための医療とそれ以外の医療が二分法で語られることが多い

しかし、その間に明らかな線を引くことができない場合がある

治療のための医療だからと言って、緩和医療で問われる問題から逃れることができないことになる

最後に、緩和医療で問題になる倫理的視点を持った医療関係者の育成をどうするのかという問題が出ていた

 日本の状況はどうなのだろうか

質疑応答での印象は、問いの出方が複雑に絡み合いながら繋がっているというる印象があった

 それは問題の複雑さ、ニュアンスがそうさせているのだろう

つい最近までわたしの視野の外にあった医学哲学や生命倫理

 これから注意を向ける領域になっていくのだろうか




大学界隈も春到来である



dimanche 2 mars 2014

レピュブリック広場からバグパイプ


久し振りにレピュブリック広場 (Place de la République)に出た

前回は工事中で囲いがあったが、今日は広々とした広場に変わっていた

サン・マルタン運河の方から戻って来ると、バグパイプ(Cornemuse)の音が聞こえる

そして、丁度広場に着いた時、この演奏が始まった

何というタイミングだろうか

 久し振りの録画のボタンであった
 






何かを告げていた虹


2月最終日の夕方、目の前にこの景色が広がった

最初、右下に少しだけ色が付いていることに気付いた

暫くして目を上げると、完璧な橋に変わっていた

かなり長く続く、どんどん色が鮮やかになる久し振りの虹であった


いつものように、何かを告げているのではないかと観察していた

そして、それらしいことが昨夜起こった

これまで否定的に考えていたことが、そのことで全く違う色合いで見えてきたのだ

庵の生活で何ら問題なく、そのままで十分に快適である

しかし、思い切って外に出ることを考えてみてはどうか

そんな気分にさせてくれる小さな出来事であった

そのせいか、今朝はひとつのアイディアとともに目が覚めた

こちらも久し振りである

本当にちょっとしたことでものの見え方は変わる