この週末、関西へ
先日仙台で手に入れた西田幾多郎著 『日本文化の問題』 とともに
昭和15年に初めて出て、上のものは昭和16年の第4刷
五十錢とある
そのお店では千円也
ページを捲っていると、バラバラになりそうな危うさがある
そこが愛おしい
五十錢とある
そのお店では千円也
ページを捲っていると、バラバラになりそうな危うさがある
そこが愛おしい
佐藤という方が昭和17年に手に入れたもののようだ
往復で読み切れるのではないかと思っていた
しかし、花粉症は未だ去らずそこにある
全く集中できず、30ページくらいで諦める
ただ、文章を読みながら気付いたことがある
同じ言葉が何度も使われている
ひとつは確信の表れなのか 「・・・なければならない」
30ページの中に106回を数える
現代人にとっては、少々押しつけがましく響く
それから、「何處までも」 は50回
この言葉にはどこか突き抜けるものがあり、嫌いではない
典型的なパターンは、「何處までも・・・でなければならない」
そして、おそらくキーワードになるのであろう 「(絶對)矛盾的自己同一」 が目に付く
この言葉の意味するところも手が届きそうな感触を得る
これまでのところで生命や生物に対する見方を垣間見ることができる
そこに、どこか通じるものがありそうな印象がある
体調が戻ってから、読み続けてみたい
夜は昨年4月以来の法善寺横丁へ
今回は、パリ時代の元気な友人と旧交を温めるためだ
今回は、パリ時代の元気な友人と旧交を温めるためだ
パリ生活が長かった方なのか、わたしの日本語が通じにくいことがあった
ひょっとすると、問題は idiosyncratique なわたしの語彙の方にあったのかもしれない
これからの益々の活躍を期待したい
ひょっとすると、問題は idiosyncratique なわたしの語彙の方にあったのかもしれない
これからの益々の活躍を期待したい