vendredi 31 août 2012

初秋の乱れ


この夏最後の姿だろうか

昨日の夕方、勇ましい姿が窓ガラスに映っているのを見つけ、驚く

気付いた時には形が崩れていたこともあるのか、盛夏の勢いはもう感じられない

丁度、福島からのご夫妻を大学に案内して戻ったところだった

 久しぶりの大学訪問で、マスター時代を思い出す

もう4-5年も前になるのだから時の流れは速い

当時の張りつめた気持ちを再現するのが難しくなりつつある




jeudi 30 août 2012

夢の世界とどう付き合うか

Ema (Nu sur un escalier)
1966
Gerhard Richter (1932-)


夢とともに目覚めることがある

実に興味深い夢なのだが、正確に思い出せないことが多い

すぐにそれを記述しようとするが、書いているうちにその姿が変形し、消えてゆく

夢とどう付き合うべきか

そんなことは考えたこともなかったが、今は考える余裕がある


われわれが認識していると思っている世界は、実は頭の中で作られたものである

それが現実だと思っているものは、錯覚にしか過ぎない

本当の世界など知り得ない

という立場がある


夢も同じようにこの脳から生まれている 

もしそうだとしたら、現実だと思っていた世界は本質的に夢と変わらないのではないか

夢の世界をあり得ない世界だとしてと捨ててしまうのはもったいない

 夢の世界を一つの現実として捕獲して、これこそ現実だと思っているものと同じ平面にもってきてはどうか

それはどんな世界になるのだろうか

過去に足を踏み入れると、そうやって生きた人もたくさんいそうな気がしてくる


いわゆる現実から離れると、こんな考えも自然に出てくるから不思議だ

世界が多面的に見えてくるとでも言うべきなのだろうか

意識の底にあり、現実とべったり生活している時には抑えられ、顧みられないものが浮き上がってくる

そんなものに意味はないとして捨て去り、急ぎ足で前に進む時には辿り着けない意識のレベル

海面近くでばたばたやっているのに対して、海の底深くにまで沈み、周りに生きるものを眺めている違い

そこから上のざわめきをはっきり見ることができるが、海面で忙しくしていると底の世界があることさえ想像できない

ひょっとすると、先日触れたアメリカとフランスの意識のレベルの違いとは、このあたりのことだったのかもしれない

まだまだ感じていることを表現できてはいないが、少しだけ進んだようにも見える




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一夜明けて目覚めると、やはり夢とともにあった

それは、昼間にまとめていたもののエッセンスが、日常の出来事として具体化されているものだった

それをそのまま文章の中に入れても全く違和感のないほどのものだったのである

上の記事を書いていなければ、気付かなかったかもしれない

夢を生み出している脳が昼間働いていた脳と繋がっていることがわかる

よく観察すると、両者の間にある垣根は意外に低いものなのかもしれない

そこに意識が向いていれば、こんな例は山ほどありそうだ





lundi 27 août 2012

ジョン・サールさんのフランス



このところ寒いくらいの日もあったが、今日は晴れて日差しも強い

これまでの入道雲からいわし雲に変わりつつある

バルコンでのひと時、猛暑の間に観たお話が蘇ってきた

話の主はカリフォルニア大学バークレー校の哲学者、ジョン・サールさんJohn Searle, 1932-)

御年80、バークレーに勤続50年

50年を記念したシンポジウムの様子も観ることになった

いろいろなことを考えさせられたが、今日はフランス文化について少しだけ

 普段は半分夢見心地だが、アングロ・サクソンからのコメントを聞くと目が覚める

 現実に戻されるのである

若い頃から言葉がしっかりしていて歯に衣着せぬところがあり、率直な人柄が透けて見える

60年代のFree Speech Movement にも関わっている (ご自身による総括はこちらから)

言葉の勢いや確かさは、80歳の今も健在である


彼は明晰な文章を書くことをモットーにしているという

それこそ哲学の第一歩かもしれない

その目から見ると、ミシェル・フーコーなどのフランスの哲学者の文章は悪文に見えるようだ

ついでに、フーコーの英語は酷いとまで付け加えている

英語ができないのは劣等人種、という偏見があるのではないかとさえ思える発言である

 なぜ訳の分からない文章を書くのかとフーコー本人に訊いたという

フランス語で (英語訛りの強い)

フーコーさんの答えは、10%くらい理解できないようなものがないとパリでは真面目に受け入れてもらえないから

同じ質問をコレージュ・ド・フランスに招かれた時、ピエール・ブルデューさんPierre Bourdieu, 1930-2002) にも向けた

その時の答えは、10%でなく20%だったと冗談めかして語っている

彼の話ぶりから、フランス、広く言うと大陸の哲学は参考にする程度で、視野に入っていないのではないかとの疑念が湧く

これまでも感じている隔離された特別の場所というイメージである

少ない経験だが、この分野の国際学会などでもフランス人同士で固まる傾向があるような印象がある


サールさんはヨーロッパの大学でも講義をした経験から大学生の気質の違いも指摘している

それは、ヨーロッパの学生は言葉の問題もあるのだろうが、積極的に質問することがない

ただ、ドイツの経験では、促されると積極的になるという

そのような文化がないだけで、訓練によって変わり得るということになるのか

世界で最高の学生がいるのは、ここバークレーだと言っている


サールさんは若い頃オックスフォード大学で7年ほど研究した後、アメリカに帰る決断をする

その時、同僚がこう訊いてきたという

アメリカに帰って一体誰と哲学の話をするのですか?

このエピソードを語るサールさんは、半世紀後のアメリカの状態を誇りに思っているように見えた






jeudi 23 août 2012

東京での2つの講演、あるいは哲学へのお誘い


やっと涼しい風が吹き、凌ぎやすくなってきた

9月の一時帰国では、9月11日、12日の 「科学から人間を考える」 試みの他、2つの講演が予定されている


(1) 9月13日(木)夕方から国立感染症研究所における学友会セミナー

演題: 「なぜ科学に哲学が必要になるのか」
“Why is philosophy needed to science?”


(2) 9月14日(金)夕方から第36回日本神経心理学会での教育講演

演題: 「神経心理学を哲学する」 
"Philosophical problems in neuropsychology"



この道に入り、できるだけ多くの方に哲学的視点の重要性を知っていただきたいと思うようになっている

声を掛けていただいた時には、積極的に引き受けることにしている

偶の帰国は、そのための貴重な機会である

残りの時間で最大限のものを引き出すことができるのか

いつものことだが、それがこれからの課題になる




mardi 21 août 2012

英米文化からフランスを見る、そしてすでに秋


今週に入っても30℃を超えている

わがアパルトマンも流石に暑い

このままでは何もしないで終わりそうなので、今日はビブリオテークへ出かけた

久しぶりに5時間ほど滞在した

室内温度はよいのだが、このところの受け身の寝不足のためか眠くなる


意図したわけではないが、暑気払いのためにずーっと英米の考え方に触れていたようだ

フランスという繭の中から出て、フランス文化を相対化するには適当な時間となった

アメリカ文化絶対のアメリカ人から見たフランスは、相当におかしなところのようである

その感覚はわからないわけではない

どうも、意識のレベルをどこに置くのかで見方が変わってきそうな感じがしている

まだうまく表現できないが、、、


帰りの街路樹からは大きな枯葉が舞い、路には早枯葉の吹き溜まりがあった

秋は始まっている




dimanche 19 août 2012

スラヴォイ・ジジェクさん、あるいは暑苦しさには暑苦しさで




本日も37℃を超えたようだ

最早、お腹を上にして水面に浮いているという状態か

暑気払いには、暑苦しさで対抗するしかない

これ、ホメオパシーの原理 principe de similitude の応用か

ということで、昨日もお名前が出ていたスラヴォイ・ジジェクさんの姿を観ることにした

初めてになる

スロべニアの哲学者は以前は共産主義に抗していたが、今は共産主義者だという

ジジェクさんの対談相手は、デヴィッド・ホロウィッツさん(David Horowitz

この方、昔はブラックパンサー党を支援していたが、今は保守派の論客になっているという

人生において主義・信条の振り子が大きく振れたお二人

強く激しいものを垣間見ることができる

モデレーターのジュリアン・アサンジさんは相変わらず涼しげだ




The New School のシンポジウム "Does Philosophy Still Matter?" を観る



パソコンの温度計では、昨日も37℃を記録

黙っていても汗が噴き出してくる

明日もそうだという

普段でもそうなのに、今日は頭がボーっとして全くやる気が出てこない

昨日と同じことになった

水面に顔を出しっぱなしの状態である


探し始めて最初に出てきたニューヨークの The New School で行われたシンポジウムを観ることにした

「哲学にまだ意味はあるのか」
 "Does Philosophy Still Matter?"

The New School で教えているジェームズ・ミラーさん (James Miller)の本が出たのを記念しての昨年の会らしい

Examined Lives: From Socrates to Nietzsche (Farrar, Straus and Giroux, 2011)

始まってしばらくしてこのことに気付く

実はこの本、今年の春、パリの英語本リブレリーで手に入れ、少しだけ読んでいたことを思い出す

ここで言うところの 「予想もしなかった繋がり」 が現れたことになる

そこから急に、この会が身近に感じられるようになってきた


他のパネリストは、以下の通り

サイモン・クリッチリーさん (Simon Critchley): The New School で教えている哲学者

アンソニー・ゴットリーブさん (Anthony Gottlieb): 元 The Economist 編集長、哲学の歴史に関する著作あり

The Dream of Reason: A History of Philosophy from the Greeks to the Renaissance (WW Norton, 2002)

アストラ・テーラーさん(Astra Taylor): スラヴォイ・ジジェクなどの現代哲学者のドキュメンタリーを制作

コーネル・ウェストさん (Cornel West): プリンストン大学で教える哲学者、活動家

モデレーターは元 Harper's Magazine 編集長のルイス・ラパムさん(Lewis Lapham


哲学をどう見るのかに関しては、この場でこれまで考えてきていることとのズレはなく、特に驚くことはなかった

ただ、表現の仕方や問題の切り取り方には興味深く参考になることがあった

特に、コーネル・ウェストさんの切り口には面白いところがあった


改めて強調すべきは、哲学を専門家の中に閉じ込めておくのではなく、その意味を外に向けて広く語りかけること

ペーター・スローターダイクさんの言を俟つまでもなく、哲学にはその中に他者を誘う使命があるからでもある


もう一つ、不思議な繋がりが現れた

昨年6月、学会でニューヨークに滞在した折、その昔働いていた研究所を訪問した

Sentimental walk in Manhattan and talk with Dr. Hammerling (2011.6.20)

その時、ヘメリング博士の口からニューヨークにもThe New School という哲学のいいところがあると聞いていたのだ

こういう具合に過去が蘇ってくるとは・・・

そんな時、いつものように少しだけ涼しい風が吹いてくるのを感じる




samedi 18 août 2012

真夏の気怠い日、BBC ドキュメンタリー 「腐敗の科学」を観る






気怠さを運んでくる暑い一日

30℃を超えていた

予報を見るとこの週末はこの調子らしい

精神力に弱さがあるのか、予定に入る気分にならず

自らが腐敗していくような受け身の状態に入った

 その身にぴったりのドキュメンタリーが見つかり、観ることにした

全編は以下から

After Life: The Strange Science of Decay (BBC Four)



実に興味深い話題に溢れていた

何よりも生きているものの美しさに打たれる

植物学の研究対象が細胞になり遺伝子になると、植物そのものの美しさが視界から消える
 
医学でも同様だろう

人間を見る焦点が、臓器から細胞になり、遺伝子にまで下りてきているからだ

 そこでは生身の人間のおそらく美しいだろう姿は意識から消えることになる


そして、もう一つ見えてきたのは、生物から伝わってくる意志のようなものだろうか

それは、生命とは意志である、とさえ言いたくなるような強さであった

さらに言えば、そこに知性を加えたいくらいである

擬人化だ、として批判されそうだが、率直な印象だ



今回も楽観的なイギリス人の姿を確認することができた

わたしの好きな側面である

そして、対象に率直に迫ろうとする精神も見ることができた


太陽の下、新しきものなし

この世界はまさに輪廻なのだろうか

もともと無機物から生まれた生命である

その生命が朽ちた時、生命があり続けるためにはその材料を他の生命が利用せざるを得ない

材料が新しく作られることはないからだ



そろそろブリコラージュに精を出しては、という声が聞こえてきた



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18 août 2012

一夜明け、以前から気付いている日本のドキュメンタリーとの差について、少しだけ

日本の場合、どこか権威を漂わせているところを感じる

上からのメッセージとして聞こえてくるのだ

科学の番組に限らず、政治に関するものでもそうだった

どこか人を委縮させるところがある

出ている人にもそれを感じる

日本の放送には上からの視線が最初から備わっていたのだろうか


こちらのドキュメンタリーを観ていてそう感じることはほとんどない

人間から出る人間への視線とでも言えるだろうか

感じるのが同じ平面からの視線なので、精神衛生によい

天井がずーっと高く感じられるので、そこには息苦しさのようなものがないのである




vendredi 17 août 2012

なぜ哲学するのか、リオタールさんの場合


 先日のリブレリーでこの本が目に入った

ジャン・フランソワ・リオタールさん (Jean-François Lyotard, 1924-1998)の本だ

初めての方になる

1964年のソルボンヌでの講演を集めた Pourquoi philosopher ? (PUF, 2012)

『なぜ哲学するのか?』

哲学とは何か、と問うよりは、なぜ哲学するのか、と疑問を発している

そこでこんなことを言っている

  統一性が失われ、一つでなくなった時、哲学が必要になる

一つである時にはすべてが決まりきったことのようで、意味を問う必要がないからだ

しかし、一つでなくなる時、人は意味を求めるようになる

そこに至るには哲学しか方法がないのだ


哲学は知を愛すること、欲すること

哲学の根には Eros があることを教える古代からの哲学の定義である

つまり、哲学は 「もの」 としてあるのではない

プラトンを引き、こんなことを言っている

何かが欠けている 「不在の存在」 (La présence de l'absence) がある時

生と死のような対立がある時

人は居心地の悪さ、抵抗を感じる

その時、何かを求める


哲学は知を持つことではない

それは、求めるものがあるだろう欠けている方向への精神的な運動である

さらに言えば、知への欲求ではなく、欲求の欲求こそが哲学である

この感覚が掴めると、おそらく最後まで行けるのだろう


一つのまとまりが壊れ、何かが欠けているように見える現代

それは哲学の時代以外の何物でもない

さらに言えば、人は完全な時などないこの世界に生きている

そうである以上、いつの時代でも欠けている方への欲求を欲するはずである




jeudi 16 août 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (3)


第3回 「科学から人間を考える」 試みを以下の要領で開催いたします。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

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第3回 「科学から人間を考える」 試み
The Third Gathering SHE (Science & Human Existence)
テーマ: 「正常と病理を考える」
2012年9月11日(火)、12日(水) 18:20-20:00
いずれも同じ内容です 

今回は、われわれの人生において避けては通れない病気に関連した問題を取り上げます。個々の病気については学校で教えられていますが、そもそも病気とは?という問はそこから除外されています。病気をどのように捉えればよいのか。正常と病理との間に境界はあるのか。健康とは、あるいは病気が治るとはどのような 状態を言うのか。いずれも大きな難しい問ですが、ここではこれらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が40分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。
 
会場: カルフール会議室 (定員約20名)
Carrefour

 東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223


参加費 
一般 : 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生: 無料 (飲み物代は別) 

会の終了後、懇親会を予定しています。

参加を希望される方は、希望日懇親会参加の有無を添えて
paul.ailleurs@gmail.com まで連絡いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。


これまでの会のまとめは以下のサイトにあります。




mardi 14 août 2012

左岸のピアノ工房再訪、そして人の野蛮を想う


日本ほどではないのだろうが、暑い日が続いていた

だが、今日は雨も落ちて涼しい一日であった

暗くなるのが10時半くらいであったのが、急に早くなってきたように感じる

秋が忍び込んでいる


先日、以前にも触れた左岸のピアノ工房が改装になったとの連絡を受け、再訪した

まだ、塗料の匂いが残っていた

マキさんとのテンポのよいやり取りは興味深いものがあった

年齢を超えて何の躊躇いもなく話すことができるのは珍しくもあり、嬉しくもある



何かの拍子に子供時代のいじめの話が出た

女子だけの中学時代、結構陰湿ないじめがあったという

わが時代にそんな酷いことがあったようにも思えないが、単に忘れただけなのか

アメリカ時代、それ以前のことを忘れた形跡は確かにある

ただ、子供時代は人間の野蛮で暴力的な面が体から出やすい時代であることは感じていた

はっきりしないが、成人式を迎える頃だったろうか

随分と野蛮さが取れてきたな、とわれながら感じたことを思い出す

野蛮や暴力的なところは、その量と質を変化させながら最後まで残るのだろう

完成することのない人間の中では


専門家の道を歩まざるを得ない現代人

それは、触れ合う人間の幅が年とともに狭くなることを意味している

子供時代を思い出すと、実に多様な人間が周りにいた

それが大学に入り、さらに専門に入る頃になると極細の枝になる

もちろん人間である以上幅はあるが、子供の頃の比ではない

そこに人間を見る時の錯覚が生まれる芽があるのかもしれないが

偶に当時の人間の輪の中にタイムスリップしてみたいという思うことがある

たとえ、野蛮や残忍な気持ちがそこにあるとしても






dimanche 12 août 2012

5年目にして初めての8月のパリ


朝起きると、高く、強い日差しが差し込んでいる

今年は少し違うのか、と思っていた

これまでに感じたことのない光だったからである

そして気付いた

それは、これが初めての8月のパリということ

5年目にして初めての

これまでの8月はさらに暑く湿気のある場所で過ごしていた



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すでにお気付きかもしれませんが・・・

ブログ・タイトルの下に黒いバーがあります

そのー番左で、ブログの表示スタイルを指定できるようになっています

このモデルは Classic に設定されていますが、より全体が見やすくなるモデルもあります

モデルによって、全く違う世界が広がります

一度、お試しいただければ幸いです





samedi 11 août 2012

クリストフ・コッホ著 「意識: あるロマンチックな還元主義者の告白」 から3年前へ

Christof Koch
(MIT Press, 2012)


届いた本を早速読読み始める

著者はカリフォルニア工科大学のクリストフ・コッホさんChristof Koch, 1956-)

フランシス・クリックさん (Francis Crick, 1916-2004)が神経科学を始めた時からご一緒されている

 クリックさんがハード・コアの還元主義者だったのに対して、コッホさんには 「それ以外」 の世界があるようだ

タイトルがその点を強調している


表紙のデザインが何とも懐かしい

この絵を描いているのは、アンナ・ゼリゴウスキー (Anna Zeligowsky) さん

すぐに彼女の作品だとわかる

もう3年前のテルアビブ

ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck, 1744-1829)の主著 『動物哲学』 出版200年を記念した会でのこと 

彼女の作品展が開かれ、その折にご本人にもお会いしていたからだ

Anna Zeligowski さんの展覧会、そしていくつかの出会い (2009-06-09)


彼女とのつながりはまだある

その会をオーガナイズされたのは、テルアビブ大学のエヴァ・ヤブロンカさん (Eva Jablonka

彼女がマリオン・ラムさん (Marion Lamb) と書かれた本の表紙と挿図もアンナさんの手になるものなのだ

統合的なお仕事であるその本のタイトルは Evolution in four Demensions 『4次元の進化』(MIT Press, 2005)

 エヴァさんとマリオンさんにはテルアビブの会の一月後にもイギリスのケンブリッジで再会

ダーウィン (Charles Darwin, 1809-1882) の生誕200年と『種の起源』 出版150年を記念した会でのこと

ケンブリッジ最終日、さまざまな出会いを思い出す (2009-07-10)

エヴァさんは母親の看病のためにすぐに国に帰られた

その会でマリオンさんからいただいた言葉が今も響いている

"Welcome to Europe"

その意味するところが時間とともに深みを増しているように感じるこの頃でもある

当時はやはり狩りの時間だったのだろうか

よく動き回っていることに感心する


2009年6月のイスラエルの旅はこちらから




lundi 6 août 2012

夏の日に 遠く日本を眺むれば


もう2年以上も前になることに驚いている

以下の記事のコメント欄に、こんな観察を残していた


今の民主党は少し前のバージョンとは全く違うようです。
自民党よりもそれらしくやっているのではないでしょうか。
これから大変なことにならなければよいのですが、、

管直人内閣発足から1週間後のことである

先見の明などないはずなのだが、その後の経過を見ると予想を遥かに上回る惨状である


現実政治の力学などわからないが、この現象から二つのタイプの人間が見えてくる

何かを根本から変えることを本気で考えていた人間とそれを唱えることが権力に辿り着くための手段だった人間

 前者はまだその立場に立っていないので本物かどうかはわからないが、後者は間違いないだろう

別の言い方をすれば、こうなるかもしれない

枠の中でうまくやりましょうというタイプとその枠を見直すところから始めるタイプ

「御用・・」 のタイプを含む前者は、枠そのものの維持にも動く

後者は枠の存在に気づき、そこから出ることができた人間になる

哲学的視点を持っている人間とも言えるだろう


アポカリプスとは隠れていたものが白日の下に晒されることをも意味している

確かに、3.11以降、科学を取り巻く惨憺たる状況が明らかにされた

しかし同時に、日本の骨組みもよく見えるようになってきた

 それでも恰も見えないかのようにやっている人たちがいる

彼らは本当に見えていないのか、見えているが他にやり様がないのか

この問題、深いところでは人間の自立に行き着くのかもしれない


自立・自律的な人間はどうしたら生まれてくるのか

そういう人間を見ながら育つしかないのだろう

と同時に、そう生きても何の不都合も齎さない社会が必要になる

それを生み出し育てるのは、教育しかないのではないか

それは、個別の教科を教える教育では達成されないだろう

教科を超えたものの見方を教える 「教科」 がどうしても必要になる

それは哲学しかないだろう

ただ、「教科」 のように教える哲学ではなく、どこか絶対的なものへの視点を据えた哲学教育

それがどうしても必要になるのではないか



そんな考えが浮かんできた夏のパリの朝





samedi 4 août 2012

所変われば人変わる


ヴァカンス真っ盛りのようである

そんな時に真面目に何かをしようなどと考えると、どこか損をしたような気になるから不思議だ

日本ではせいぜい1週間程度の夏休みで何とも思わなかった

所変われば人変わる


こちらに来て変わったことで悦ばしいことがある

すでに触れているはずだが、その代表はものを書くのに万年筆を使うようになったこと

日本ではボールペン、特に外国のホテルにある芯の太いボールペンを愛好していた

それで何の不自由も感じなかった

文字が紙に残ればよかったのだろう


どういう切っ掛けか思い出さないが、こちらの大学の講義が始まった時には万年筆になっていた

 万年筆と言っても数ユーロから10ユーロ程度のもの

少しは大人の気分を味わってみたかったのかもしれない

今では、電車の中で何かをメモする時でも万年筆でなければ駄目である

以前であれば、キャップを開けるなど面倒くさがっていたはずなのだが・・・

万年筆でなければ気持ちよく頭が働かなくなっているようだ


 最近の変化としてはパンがある

こちらに来てからバゲットなど、作り立てのものを好んでいる

その昔に作られ、薄く切られて袋に入ったパンを食べるなど考えられなかった

ところがこのところ、その薄過ぎるパンをトーストして塩入りバターで食するのがよくなっている

そう言えば、塩入りバターも新参者だ

バゲット類の地位はそのままだが、新たな世界が広がったというところだろうか

三つ子の魂百までも、という言葉はあるが、人の好みなどどこでどう変わるかわからない


どうして食べ物のことなど書くのですかと問われた吉田健一さん(1912-1977)は、尊敬されないためですと答えたという

今日のお話、吉田さんの答えを思い出したわけでもないだろうが・・・




vendredi 3 août 2012

曜日をなくしてみては、あるいは1年を1日に


このところ、曜日は関係のない生活が続いている

それなのに、なぜか嬉しい金曜日

解放感がある

長い間に染み付いた曜日の気分が付いて回る

日曜の終わりにはなぜか気が重くなり、月曜になると気が引き締まる

曜日など気にしなくてもよいのに、である

この際思い切って、その気分を取り払ってみてはどうか

それが可能かどうか、試してみる価値はありそうだ

例えば、1年を12の単位にしてみる

ひと月を1日とすれば、1年に12日しかなくなる

その一日を自由に使うのである

あるいは、1年全体を1日にするという方法もある


この考え方、デジャヴュである

フランス語を始めた時に考えたやり方に似ているのだ

 2001年のこと、こんなことを考えていた

 細かい日程や一進一退など、きれいさっぱり忘れる

ひとつの目安として4年間を自分に与え、その間フランス語と自由に付き合う

これが想像以上にうまく行ったように感じている

私は如何にしてフランス語にのめり込んでいったのか? - 2001年春 (2005-02-16)


このやり方、「持続する意志」 を維持するにもよいかもしれない

ひと月、あるいは1年が終わったその時、この世界はどんな風に見えてくるのだろうか

 そもそも人はリズムのない生活などには耐えられないのだろうか

 1年という大きなうねりのようなリズムはあるのだが、、、




jeudi 2 août 2012

ブリコラージュ、それこそが新しいものを生み出す


ある考えが浮かんでくる

それについては昔読んでいたはずだ、という声が聞こえる

昔と言ってもこの5年の間のことだが

それを探すのが一苦労

そんなところにあるはずがないというところから顔を出す

記憶が全く当てにならない

早速出てきた本を開けてみる

ポイントは覚えているが、細かいところはどこかに飛んでいる

そのため、どれも新鮮だ


マスター1年目に作ったファイルを開けてみる

結構いろいろなことをやっていたようで驚く

それは別人の仕業なので、より正確には感心すると言うべきか

悦びと期待に胸膨らませてやっていた証だろう

ただ、読み直すと当時の理解の程度がわかる

この5年で少しは見方が変わってきているようだ

すでに触れているものに時を経て触れ直すこと

これを繰り返すだけで、新しいものが見えてきそうである


この作業、「ブリコラージュ」(bricolage)とでも形容したい気分だ

新しいものを持ってくるのではなく、これまでに蓄えてあるものを弄繰り回しながらその場に対応する

生物の営みをブリコラージュと捉えたのはフランソワ・ジャコブさん(François Jacob, 1920-)だったろうか

新しいものが無から生まれるはずはない

それはこの世ではビッグバンの一度だけではないのか

とすれば、何かを創り出そうとした時にわれわれにできるのは、このブリコラージュだけになる