mardi 31 mai 2011

曖昧さに耐えること、そして理解することと判断すること



昨日の朝、晴れ上がるまでの雲の動きが素晴らしかった。早速バルコンに出て、その動きを感じながらゲッティンゲンのユルゲン・ヴィーナントさんから届いたばかりのコメントを読む。これまでの思索に裏打ちされた言葉が並んでいる。自らの研究対象について深く考えている様子が窺える。それから面識はないが同じくドイツ人と思われるDと名乗る方からは、一つの言葉の使い方についてA4で3ページに及ぶクリティークが届き、驚く。科学ではなく、言葉だけの世界に生きるとはこういうことなのか、その世界からはこう見えるのかということが迫ってくる。大いに参考になった。

自らの思索を批判的に振り返りながらも満ち足りた気分で久しぶりに机の上の本をひっくり返してみた。そうすると、まだ手の付いていない小さな本が現れた。タイムリーなタイトルで中身も面白そうなので、ビブリオテークへの道すがらに読むことにした。この時期に顔を出すために隠れていたかのようだ。

『危機の時代にいかに生きるか?』

この7月で90歳になるお馴染のエドガール・モランさん (1921- ) が理解することについて書けば、パトリック・ヴィヴレさん (1948- ) は理解したことをいかに行動に翻訳するのかについて書いている。ここではモランさんの 「来るべき世界を理解する」 と題する文に触れた時に起こった化学反応を記録しておきたい。


危機になると不確実なことが増え、その解決のために尋問が横行し、最悪の場合には生贄を探すことになる。答えが出ないことに耐えられず、あたかも解決策が出たかのように振る舞い、自らをも安心させるためである。現在この世界で進行中のこと、そしてこれから起こることを理解するには、曖昧さや両義性がそこに付き纏うことに敏感でなければならない。二つの異なる、時に相反する真実があり、どちらが本当なのかわからないことがあるからだ。

アメリカは独裁者を放逐する民主主義国家のイメージとともに、人間の殺戮をも厭わない帝国主義国家の側面を持っている。16世紀以降のヨーロッパもアフリカやアメリカ大陸を侵略し、植民地にし、奴隷労働を強いた。しかしまた、ヨーロッパは人権や友愛という概念を生み出した唯一の場所でもある。残忍なヨーロッパと文化的に洗練されたヨーロッパのどちらが真実の姿なのか。残忍な側面があるからそれを全否定するだけでよいのか。それで国や人間を理解したことになるのか。歴史の過程でこの両極を揺れ動いている可能性もある。その両極を理解した上で、そこを突き抜けた理解に向かわなければなければならないのではないか。モランさんは、この曖昧さ、両義性を認めるという意味で、デカルトであるより、パスカルでなければならないと言う。



Bartolomé de Las Casas
(Séville, 1484– Madrid, 1566)


残忍なヨーロッパの時代にも偉大な精神は存在した。その一人はカトリック司祭で、侵略・残虐行為が横行していたアメリカ大陸のインディアンにも魂があることを教会に認めさせた行動の人バルトロメ・デ・ラス・カサス (1484-1566)。もう一人は自らの思索を仔細に記録したモンテーニュ (1533-1592) だ。モンテーニュはこう言っている。

「他の文明の人間を野蛮人という。そしてわれわれは人食い人種よりさらに残忍なのだ。彼らが敵の死骸を食べるのに対して、われわれは生きた人間を殺すのである」

グローバリゼーションにもこの両極が表れている。コミュニケーションの発達などにより、外国の文化にも以前とは比較にならないほどの量的、質的豊かさで接触が可能になり、多くの利益を得ている。一方、経済、利益、アメリカというヘゲモニーの下に繁栄と貧困ではなく悲惨(貧困には耐えられても悲惨に耐えることは難しい)という両極を生み出している。グローバリゼーションには最良のものと最悪のものが綯い交ぜになっていると言えるだろう。

世界の政治状況においては、例えばイスラエルとパレスチナ、アメリカとイランというような二項対立が見られる。善悪の対立で世界を見て、正しい理解に辿り着くだろうか。しばしば一方の立場から発せられる情報だけに基づいて考えることで事を理解できるだろうか。同じ人間でも状況の違いにより異なる行動に出ることがある。われわれの体も条件が変われば同じ物質に対して異なる反応を示す。つまり、理解のためには状況を掴むことが決定的に重要な要素となる。そこまで注意しなければ、ものの理解に達しないことを意味している。

モランさんは言う。理解について話す時、理解しえないものについての理解であることを前提にしなければならない。なぜなら、間違い、他者に対する無関心、文化の無理解、神・神話・思想への囚われ、自己中心主義、無知などが常に付き纏うからである。そして、理解することへの恐怖、そんなことは知りたくないという感情もある。しかし、人殺しがどういうことかを理解することとそれを認めることとは別のことである。認めたくないので知る必要がないと考えるのではなく、判断する前に理解することがどうしても必要になる。

換言すれば、理解と判断の峻別とその順序を常に意識していなければならない。同時に記憶に留めなければならないのは、知にはそもそも限界があること、つまり不確実性こそこの世の摂理であることだろう。それこそ20世紀の知が明らかにした最も大きなことでもある。



Galet
de Jean-Louis Raina


改めて自問する。

事に当たって先ず理解しようとしているだろうか。物事の両面から見た情報を元に理解しようとしているだろうか。特に危機の時に起こりやすいネーム・コーリングに堕し、あるいはそれに影響された一方的な情報を元に判断していないだろうか。哲学的態度とは意見を言うことではなく、フィリップ・ブルギニョン (Philippe Bourguignon, 1948- ) の言葉を借りれば、この世界に当たり前のものはないという立場から意見を戦わせることであったはずだ。

"Il ne faut rien accepter comme acquis." (Philippe Bourguignon)
「既定のものとして何ものをも受け入れるべきではない」

すべては知り得ないことを前提に理解しようとするところからすべてを始める。その姿勢が徹底しないところでは何も解決されないし、同じことを何度でも繰り返すだろう。


lundi 30 mai 2011

ドイツの決断を聞いて


Chouette
de Jean-Louis Raina


今朝のラジオ・クラシック。ドイツ政府が関係者との厳しい交渉の後、2022年までに原子力エネルギーから脱却する決断をしたというニュースが流れる。今動いている17の原子炉(3つの最も新しいものは最後まで動かす)を2021年末にはすべて閉鎖し、この決断を覆すことはないという。先進国の中では、最初の決断になる。ル・モンドによると、先週末には20の都市で16万人に及ぶデモがあったようだ。今のままではブラックアウトの可能性があると指摘する関係者もおり、現在原子力に依存している22%の電力をどう補うのかがこれからの問題になるだろう。

いずれにせよ、3.11という出来事に出遭った上でドイツ人が考えた結果になる。理性に訴えかけるためだろうか、頭の中にすっきりした風が流れる。そのスピード感は彼らの思索の深さとそこから生まれる意思の強さを表しているようにも見える。このニュースを聞きながら、なぜか 「ちんたら」 という日本語が浮かんでいた。


dimanche 29 mai 2011

あるレストランのこと、辻邦生という作家のこと


La Maison de Verlaine
(39, rue Descartes, 75005 Paris)


昨夜のこと。一夜明けると、その始まりはもう思い出さない。何かの繋がりを探し始めた途中、以前にいただいたお便りの中に、ここの文体は辻邦生の香りがするというような言葉があったことを思い出す。辻邦生さんの書いたものは何冊か日本の書架にあるはずだが、ほとんど読んでいない。もう20年も前になるだろうか。仕事に忙しくしている時だったので、静かで内省的な文章が何とも退屈に感じられ、すぐに眠くなった。その作家の名前が出てきたので驚いたが、その時は何もしないままだった。それが昨日浮かび上がってきたのだ。

辻邦生、1925年(大正14年)9月24日 - 1999年(平成11年)7月29日

早速、ウィキに行ってみたところ、ある繋がりが現れた。その中にこういう記載があったからだ。

「パリ在住の地はポール・ヴェルレーヌがその息を引き取った建物の左隣であり、5区のRue Descartesに位置する。ヴェルレーヌと並んで記念プレートが掲げられている」

その場所であれば、金曜のセミナーの後にも前を通り、ほぼ2年前にはヴェルレーヌの終の棲家で食事もしている。

ムフタール通りで旧研究室メンバーと (2009-09-18) 

今日の写真はその時に撮ったもの (去年のことではないかと思って探したが、出てこなかった)。上はポール・ヴェルレーヌが1896年1月8日にここで亡くなったことを示すプレート。一緒にあるという辻邦生さんのプレートがどこかに写っていないかと思い探したが、そちらは見つからなかった。

何ということもない繋がりだが、この程度のことですっきりする今日この頃。辻邦生さんの文章を今読み直すと違う印象を受けるのだろうか。おそらく、そうではないかという予感がする。日本に行った時には確かめてみたい。




samedi 28 mai 2011

身のまわりの境界が溶け、科学と周辺の境界も

(239, rue des Pyrénées, 75020 Paris)


このところ、周囲との境界が溶けてきているように見える。それを一番感じるのは街に出て人と接する時だ。こちらの心持が軽快になっていることはすでに触れたが、ここで言っているのは相手の態度になる。その中に異質なものに対応するという要素が少なくなっているように見えるのだ。どこか同僚にでも話すような感じになっている。こちらの見かけには時の流れによる変化以外はないはずだが、肩の力でも抜け、目には見えない雰囲気のようなものが変ってきているのだろうか。景色に溶け込むようになってきたのだろうか。

ビブリオテークでは席に番号が付いていて、それをネットで予約することにしている。アパルトマンを出る時に部屋と席番をチェックしてから行くのだが、しばしば忘れる。先日、それをフランス語の音として頭の中で発音してから出掛けてみた。そうするとすぐに浮かんでくることがわかった。これを普通のフランス語にも応用するとよさそうだが、それを実行する気配は未だ見られない。



Essai sur l'homme
(An Essay on Man by Ernst Cassirer)


エルンスト・カッシーラーErnst Cassirer, 1874-1945) という哲学者は所謂文理の統合を目指していた、というような文章をどこかで読み、興味を覚える。名前は大昔に聞いたことがあり、マスターの時に2-3度出ていたくらいで、忘れられた哲学者ではないかと思っていた。広く書いているようだが、全3巻の 「シンボル形式の哲学」 (岩波文庫から出ている) が主著になるのだろうか。

La Philosophie des formes symboliques (1923-1929), 3 tomes
t. I : Le langage (1923), 「言語
t. II : La pensée mythique (1925), 「神話的思考
t. III : La phénoménologie de la connaissance (1929), 「認識の現象学 (上)(下)

これを読んでいる暇はないので困っていたが、このエッセンスを一般向けに書いたという英語版からの訳 Essai sur l'homme (「人間―シンボルを操るもの」、岩波文庫) があることを知る。早速、彼の科学に対する考えを読んでみると、科学は人間が行く着く最高のところに位置すると高らかに語っている。少しナイーブ過ぎるのではないかというのが第一印象。しかし、筆の進め方が醒めていて分析的で理解しやすい。他の領域についても少しだけ読んでみたが、形而上学的思索が過ぎるところがなく、むしろ科学的とでも言いたいくらいだ。わたしでもついて行けるだろうか。

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lundi 30 mai 2011

カッシーラーさんだが、今月初めに日本の T 氏から送っていただいた論文にも出ていたことを思い出す。無意識の効果もあったのだろうか。


vendredi 27 mai 2011

カオスは何かを生み出す母なのか


科学論文の構成として、イントロダクションの後に 「材料と方法」 というのが来て (雑誌によっては後のこともある)、 結果、ディスカッションへと続く。型がしっかりとある。一方の哲学論文だが、未だに型があるのかどうかわからない。今までのところ、それぞれが自由に書いているようにも見える。

ところで、昨日触れたトロント大学のマリオンさんの論文では 「材料と方法」 に当たるものがあり、おやっと思った。その方法がわたしの興味を惹いただけではなく、求めているところに共通するところがある。そして、昨日新たにパリ大学のヤン・サップさんからメールが届いた。驚いたことに、そこに書かれてある疑問もわたしの考えていることと通じ、今週送られてきたパスツールの若手研究者の論文がそこに絡んでくる。今朝届いたデビッド・スコットさんのメールはそれを横から掻き廻し、アン・マリー・ムーランさんからの論文はさらに横に広げるといった具合だ。そして、数名の方がこれから意見を送ってくるとのこと。この目眩くような状態は一体どうしたことだろう。今週は教授とのディスカッションに始まり (もう大昔のように感じる)、ワシントン大学のカール・クレイヴァ―さんからのコメントと続き、上のようなところに流れてきた。そのすべてがどこかで繋がり、地上に渦巻いているように見える。それが一つのうねりになり空に向けて立ち昇らないか、などという妄想が生れるほどである。週の初めには想像もできなかったことだ。

午後から理論生物学のセミナーを聞くため、複雑系研究所へ。
自分の中ではつい最近なのだが、もう2年も前になる (少しずれるが、上で感じたように近い過去が遠くに、遠い過去が近くにあることが記憶の引き出しやすさとも関係するのだろうか) イスラエルでお会いしたエヴリン・フォックス・ケラーさんとフランスのアニック・レズネさんが生物の複雑性について論じていた。物理学の世界との比較、ローバストネスと安定性、創発性と調節、生物学における機能、などなど。ディスカッションの中で、エヴリンさんは言葉の定義をはっきりさせてから話すことを再三指摘していた。そうしなければ、折角の話が噛み合わなくなる。途中、参加者同士が意見を交わす場面があり、エヴリンさんの 「ちょっと道に迷ったようですね」 の言葉が出るまで20分ほど道草が続いた。日本の哲学の環境を知らないので何とも言えないが、おそらくフランスらしいのではないかと想像している。まさにカオティックな今週を締めくくるに相応しい会であった。この状態から何かが生れるのだろうか。これから注目して見守りたい。

以前にも書いたかもしれないが、エヴリンさんは70代半ばだが、声の張りと言い、言葉の正確さと言い、思索の向かう先と言い、素晴らしいのだ。思索が閉じて予定調和に陥るようなことはなく、あくまでも完全に開いていて健康そのものなのである。そうありたいと思わせてくれる姿を体現されている。その彼女はこんなことを言っていた。このように生物学者は事実の記載は詳しくするが、その背後にあるロジック (原理に至るようなものか) や大きな像について語ろうとはしない。科学の論文で想像力を働かせてディスカッションをするとクレームが来たことがあったので、そうならざるを得ない状況があることも否定できないだろう。しかし、科学と哲学が相互作用することにより、より豊かな自然の理解が可能になるのではないかという考えがわたしの中に深く根付いている。今日は現状を観察しているだけでよいか、という思いが立ち上がってくるのを確認していた。

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samedi 28 mai 2011

記憶の引き出しやすさは電車の窓から景色を見ているところに似ているのではないか。遠くの景色はよく見え、近くのものは捉えきれないという。それにしても今週は 「パリから観る」 の面々が続々と浮かび上がってくれたなぁー、という思いとともに目覚める 。


jeudi 26 mai 2011

懐かしいセミナー、そしてカナダからの便り



今日は御子柴克彦先生のセミナーを聞きにパスツール研究所へ。少し早めにセミナー室に着くと、スライドの最終点検をされているところだった。その昔、わたしたちの仕事でお世話になったこともあり、途中先生のフランス語を聞きながら懐かしくお話をする。こちらの状況を話すと、それは羨ましいですね、とのことだったが、「洞窟生活」 もそれなりに大変なのである。それにしてもお忙しそうであった。日本の研究者はもう少し時間的余裕がないと駄目なのではないだろうか。

先生のテーマは、細胞が機能するために細胞内で情報をやり取りする際に重要になるカルシウム・イオンの動態とその調節異常で、これまで最先端の研究を進められている。今月、スウェーデンのカロリンスカ研究所から名誉博士号をいただいている。今日は自らの研究史を振り返りながら多彩なお話をされていた。昔から感じていることになるが、ある事実が見つかった時に喜び、不思議がり、新しい目でその事実を見直そうとするところが先生の姿勢の中にある。今回もそれを確認させていただいた。

セミナーの後はビブリオテークとカフェで、昨日トロントのマリオンさんから届いたばかりの60ページ程度の論文を読む。この新しいお仕事は対象は違うが、対象に向かう切り口がわたしの興味と一致していて大いに参考になる。最初にタイトルを見た時から、このところ続いている繋がりを感じ、驚いていた。


mercredi 25 mai 2011

苦しみの後、光は見えてきたか


昨日はお昼からビブリオテークへ。まず、これまでにまとめたパワーポイントを見直す。今一つ新鮮味がない。自分自身が驚かない。これまでの単なる焼き直しではないのか。先日のピアニスト、フランチェスコ・トリスターノさんも言っていたが、まず自分自身が驚くようなことでなければ面白くないだろう。これからやることは、今あるものの裏にあるテーマを哲学の視点から掘り起こし、その視点から見直すことではないのか。何をやっていたのかという思いで、少し目が覚める。出てきたテーマのひとつについてすぐに読み始める。まだどうなるかわからない。

帰りのメトロではエキシビジョニストが乗り込んできたが、運転席からのアナウンスで大人しく降りていた。こちらに来てから初めての経験になる。メトロを出て歩き始めると、嬉しいことに次から次に飛行機雲が現れてくれた。



今朝はセントルイスのカール・クレイヴァ―さんからメールが来ていた。先日わたしが書いたものを送ったそのお礼になる。そして、新たに意見を求める2-3行のコメントが付いている。専門家のちょっとした言葉はいつものわたしの目を開かせてくれる。しかも昨日から悩んでいたことと直接関連してきそうな疑問なのである。早速、関連の論文をネットで探す。驚いたことに、今までアクセスできなかったのでビブリオテークで手に入れようと思っていた論文がすぐに出てくるではないか。予定を変更して、バルコンで読むことにした。

そしてお昼にメール・ボックスを開けると、先週のオペロン・シンポジウムで話し込んだ今パスツール研究所にいるアメリカの若手研究者から博士論文と関連する論文が届いていた。ほとんどは "It was nice talking with you." と書き出すが、彼は "It was fascinating talking with you about..." と始めている。全く予期せぬ出遭いがしばしば何ものにも代え難いものを齎してくれるのも会議の良さだろう。未だその姿も見えないわたしの思索の形が現れた段階で、また話をする機会が訪れるような気がしている。そして暫くすると、この夏にこちらを訪問することになっているS氏から 「パリの洞窟で瞑想する修験者」 宛ての心に沁みるメールをいただいた。S氏とのお付き合いはアメリカ時代からなので、現役時代を通しての友人ということになる。この夏どういう話が飛び出すのか、今から楽しみである。

午後から外に読みに出る。論文を読むつもりだったが、途中で入ったリブレリーで最近取り上げたばかりのお二方、ヴァレリー・ペクレスさんユベール・リーヴスさんの本が現れ、予定が狂ってしまった。それもまた良し春のパリ、という気分だ。それにしても街はもうバカンスの香りが漂っている。普段から人間が抑えられておらず、街の景色からも疎外されていないという印象を持っている。それが今日は一段とゆったりして見え、街全体を包むように眺めると恰も音楽を聴いているようだ。こういうところは何とも言えず好きなところである。同じ人生なのに、というのがすぐに浮かんでくる感想になる。アパルトマンに戻る時、いつも軽やかな音楽を奏でるように " Bonjour, Monsieur ! " と挨拶してくれる女性とすれ違う。今や完璧にその音を再現できるのだが、この場でできないのが残念だ。バカンスは確かに始まっている。


mardi 24 mai 2011

素直になりたい時は



今朝は素直になりたい気分か。
先日のケルティック・ウーマンの歌声が聴きたくなる。
わたしを泣かせてください」 のヘイリー・ウェステンラさん (1987- ) のミックスが見つかる。
朝から暫し時を忘れる。

Hayley Westenra youtube mix



冒頭の歌のように、ヘイリーさんは日本のものをよく歌っている。
実は日本でも有名な歌手だったのかもしれない。

Hayley Westenra sings Japanese songs (2008)



lundi 23 mai 2011

フランチェスコ・トリスターノという音楽家 bachCage by Francesco Tristano


今朝のラジオ・クラシック。
バック(=バッハ)・ケージという音が聞こえる。
そう言えば、先日メトロでポスターを見たような気もする。
早速当たってみると、こんな音楽家が現れた。
朝の雲を眺めながらその音楽に耳を傾ける。

フランチェスコ・トリスターノ・シュリメFrancesco Tristano Schlimé, 1981- )
homepage
Youtube mix




このインタビューによると、小さな穴から音楽を覗いているだけの人ではなさそうだ。




午後は教授とのランデブー。
朝の時間が目に見えない効果を及ぼしたのか、落ち着いた気分で対することができた。途中、偶然入ってきた数学の哲学をやっている先生もディスカッションに加わる。1時間ほどで終わった。

それにしてもよい天気が続いているパリの5月。
そう思っていると、帰りのメトロでジュール・ルナールさんのこんな言葉に出会った。
Jules Renard (1864-1910)



「パリに二つの文字を加えてごらんなさい。そうすると天国です」


dimanche 22 mai 2011

休息の日曜日、あるいはユベール・リーヴスさんのことなど


朝、いつものように空ゆく雲を眺める。
わたしにとっては一日中続けても飽きない稀な営みになる。
6年前、パリからロンドンに向かい、そこからケンブリッジに向かう車内でのこと。
ぼんやり空を眺めている時、その美しさに初めて気が付いた。
雲がそのキャンバスに描く絵の。

こちらに来てから最初のブログ 「ハンモック」 での観察を確認、補強し、拡大しているように感じる。その観察を引きだした感受性を磨こうとでもしているかのようだ。

午後、2009年にフランスで制作された放射性廃棄物についてのドキュメンタリーを観る。
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一番最後に出てくるユベール・リーヴスさん (Hubert Reeves、1932- )は、もう8年ほど前に受けたフランス語の面接試験で出会って以来、忘れようとしても忘れられない人になっている。

DELF A3, A4 - Hubert Reeves
(2005-02-21) 

リーヴスさんのようにある領域について深く考え、それを専門の外に向けて語ることのできる人、そして何か問題があるとその考えに耳を傾けてみたいと思うような人をできるだけ多くの領域でわれわれの社会が持っていること。これがこれから益々大切になるような気がしている。この世界を覚醒した目で眺め広く考えるためにも、それによってわれわれの未来を拓くためにも。

samedi 21 mai 2011

オペロン・シンポ最終日: "Habits of thought" との闘い



昨日はオペロン・シンポジウムの最終日だった。午前中のセッションにはポール・ナースさん(1949- )とリズ・ブラックバーンさんという2人のノーベル賞受賞者が登場し、濃密な時間が流れた。ここで振り返っておきたい。

ブラックバーンさんは冒頭カバンの中から取り出したフランソワ・ジャコブさんの La Statue intérieure (1987) の英訳本 The Statue Within: An Autobiography (1995年版) の一節を読み上げ、今日のテーマはこれですと言ってから話し始めた。それは研究をする時にしばしば戦わなければならない "habits of thought" (ジャコブさんの言葉では、les habitudes de pensée)。ある枠に嵌った考え方の癖のようなものだろうか。一つの事実が明らかになった時、それまでの固定化された見方・考え方でその事実を説明しようとすると、本当のことを見逃すことがある。その固定観念から自由になることによって初めて発見に繋がるということを言いたかったのではないだろうか。彼女の主張は自分の研究室から出てきたデータを元にして話を進め、しかもそれがいくつも出てくるので説得力がある。2009年に賞を貰ってから時間が経っていないせいだろうか。研究に向けての集中力が一番高い印象を持った。

同じセッションでオックスフォード大学のキム・ナスミスさん (Kim Nasmyth, 1952- ) が話した中にも類似の現象があった。1900年にメンデルの法則が再発見され、1902年にはメンデルが示した遺伝を支配するものは染色体にあるとする染色体説ウォルター・サットン (Walter Sutton、1877-1916) とテオドール・ボヴェリ (Theodor Boveri、1862–1915) により提唱された。しかし、この考え方がすぐに受け入れられることにはならなかった。その説明としていろいろあり得るだろうが、こういう説明をしている人がいる。細胞が違うとその機能も変わってくる。しかし、どんな細胞を見ても染色体は同じ姿をしている。同じ姿をしているものが違うことをやっているはずがない、と考えたのではないかというもの。観察されたものがすべてで観察されていないものが存在する可能性はその精神活動の中にないということだろうか。キムさんはもう一つ興味深いことを言っていた。それは、オペロンの研究はフランスのデカルト的論理とイギリスの経験主義的なやり方 (wet experiment) がうまく調和した極めて稀な例であるというもの。英仏の長い歴史が醸し出すものをそこに感じていた。

この日のトップバッターは、細胞周期の専門家ナースさんだった。研究の内容を評価することはできないので何とも言えないが、こんなことを話していた。このデータはわたしが人生を掛けて細胞周期の調節に大切だと言ってきた分子が実は必須ではないことを示すものである。これを2度ほど言っていたのではないだろうか。そして、別のプロジェクトでは調節に必須である可能性のある新しい分子が出てきているというようなお話も出ていた。

上の御三方のお話を聞いて印象に残った一つは、発せられる言葉が精神活動の状態を示し、しかもそれが体と一体になって活動しているように見えたことだろうか。ブラックバーンさんは強調したい時には爪先立つようにリズムを取りながら体を上下に動かして話していた。また、ナスミスさんが強調する時は、細身の体を折り曲げるようにしながらお腹から大きな声を出していた。それぞれのプレゼンテーションには集中力と緊張感が溢れていて、質疑応答もリズム感があり、聞いていて気持ちがよい。こういうやり取りを見ていると、科学とは単に事実を見つけるだけではなく、その後の処理の仕方が重要になることに気付かせてくれる。そこではここで言うところの 「科学精神」 を十全に発揮しなければならないだろうし、デモクラティックな姿勢も求められるだろう。これらの精神的な側面がわれわれの中に根付くようになるまでには一体どれくらいの時間がかかるのだろうか。そんな想いを抱きながら、午後のお話を聞いていた。




Habits of thought は学問の世界だけの問題ではなく、われわれの営みすべてに当て嵌まるだろう。目の前に現れたことをそれまでの囚われの心から離れて見直すこと、それが新しい未来を生み出す原動力になるはずである。それを可能にするためには、われわれの考え方は最初からある枠に嵌った癖があることを意識していなければならず、その上でその考え方と戦わなければならない。そんなに易しいことではないことは、現実をみればよくわかる。Habits of thought からの脱却、あるいはその必要性を多くの人が共有することが閉塞感を解くひとつの有効な方法にならないだろうか。

ところで、日本の書架には The Statue Within 1989年版があるはずだが、じっくり読んだ記憶がない。ビブリオテークの方に聞いたところ、非常に感動的な本だったと言っていた。昨日原著にざっと目を通してみたが、ジャコブさんを取り巻く環境が見え始めたこともあるのか、非常に興味深いお話が次々出てくる。いずれその美しいフランス語の中に身を委ねてみたいものである。

The Statue Withinグーグル・ブックスでも読むことができる。
日本語訳は 「内なる肖像―一生物学者のオデュッセイア」 (1989、みすず書房)。

vendredi 20 mai 2011

ケルティック・ウーマン Celtic Woman


L'Almée (1845, la partie)


今日はオペロン・シンポの最終日。
朝から出掛け、ほとんどを聞いた。
そのためか、ゆっくりしたい気分だ。
印象に残ったことは明日にでも書き残しておきたい。
その代わり、今夜は Youtube で音楽を探す。
いつものように横道にそれ、ああそうだったのかという思いが襲う。
こんな経過だった。

どこかで見た人が歌っている。
しかし、どこで見たのか思い出さない。
そしてこの曲に来た時、前ブログで見ていたことがわかる。

「私を泣かせてください」、そして嬉しい便り (2010-04-12)

歌っている彼女は実はケルティック・ウーマンというグループの一員だった。
そして、ヴァイオリンを弾いていた彼女も。
なぜかすっきりする。

Celtic Woman (Youtube

特に何かをやったわけでもないのに微かな満足感が訪れる週末の夜。
彼女たちの歌に耳を澄ます。
その時、懐かしさとともに心が遠くに旅するような安らぎを覚える。
少し素直になってみましょうか、という気にもさせてくれる。


帰りのメトロでジュリアン・グリーンさんのこんな言葉に出会っていたことを思い出した。


「わたしは目的のない長い散歩のような本をパリについて書いてみたいと何度も夢見ました。そこでは探していることは何も見つからず、探していなかったものをたくさん見つけるのです」


jeudi 19 mai 2011

オペロン・シンポ3日目: シャルル・フィリップ・ルブロンという科学者のことなど


Charles Philippe Leblond
(1910 à Lille en France - 2007 au Québec)


今朝もバルコンで朝焼けを味わう。途中部屋に戻った時、瞑想と称している時間が長過ぎるのではないか。朝の新鮮な時間を使えば、いろいろな課題も捗るのではないかという声が一瞬聞こえる。早速、眠い目で始めてみたところ、意外に集中できる。そのまま今抱えているパワーポイントを最初のバージョンとは言え終えてしまっ た。気が付くと、すでにお昼。この時間を忘れる感覚が集中度を表している。それから徐にオペロン・シンポ3日目へ。腸管の幹細胞のお話を一つだけ聞くことができた。スライドが美しく、しかも3Dで動きがあるので飽きない。

そのお話の中で、写真の細胞生物学者シャルル・フィリップ・ルブロンというフレンチカナディアンの方が紹介されていた。彼は幹細胞研究のパイオニアで、最後まで研究への意欲を失わなかった。65歳の定年を迎え、さらに研究を続ける決断をする。それから20年に渡り、新しい展開を追求した。96歳まで論文を発表、セミナーには定期的に顔を出していた。面白かったのは、90歳になってからコンピュータを習い始め、94歳の時にはパワーポイントを使って国際学会で発表している。その時、こう話したという。ひと月前、パワー・ポイントとは鉛筆の先を削る道具だと思っていました。




午前中のセッションはすぐに終わり、デジュネとなった。今日はイギリス(地元の人は 「スコットランド」 を要求するのかもしれない)はエディンバラEdinburgh、思わずエディンバーグと発音したくなる) から来た4人が座った。町自体がコスモポリタンで研究所もそうだとのこと。確かに写真左から、ポーランド(クラクフ)、イギリス南部、インド(デリー)、オランダ出身とのことで納得。

まずポーランドの彼女に話しかける。すぐに科学から哲学へのお話になる。彼女の反応は、哲学の側からどのような方法で科学にとって有効なことをやろうとしているのですか、となかなか厳しい。それから文化比較になったが、大陸に比べるとエディンバラ (イギリス) はゆったりした雰囲気があり、気に入っているとのこと。その逆を想像していたので、少し驚く。また、日本のホラー映画を見たことがあるが、その残酷な表現がよく理解できなかったとのこと。話を横で聞いていたイギリスの若者が途中から加わった。彼も日本文化に興味を持っているようで、昔の作品をたまに読み、いずれその地を踏んでみたいとのこと。彼は原発事故に対する政府や東電の対応を見て、正確なデータが公表されていないのは国民がそれを望んでいるからですか、と聞いていた。そう疑うのがまともな頭の持ち主の問になるのかもしれない。今回もイギリス人の楽天的な考え方や一人で考え楽しんでいる風情があるところなどには好感を持った。最後に、エディンバラにもあなたの好きな旧市街が保存されていますよ、との言葉が聞こえ、少しだけむずむずする。いくらなんでも今すぐではないだろうが、、、。




mercredi 18 mai 2011

オペロン・シンポ2日目: やはり最後は哲学、文化に行き着くのか


大野乾 (すすむ)博士 (1928-2000)


今日も天気は最高だ。今回はあまり期待していないが、それでも何か出てこないかと思いながら2日目のシンポジウムへ。午前中の発表には特に反応するものはなし。そしてデジュネへ。そこで隣になった若者がワインを勧めてきたので話をすると予想外のものが飛び出してきた。

彼の専門はコンピュータ・サイエンスだが、生物学との関連で仕事をしている。MITでシステム生物学の学位を取った後、現在はポスドクとしてパスツール研究所にいる。わたしが科学の後に哲学をやっていることを知ると身を乗り出してきた。アメリカ人にしては珍しいと思ったが、フランスに来ていること自体がそういう興味を内に秘めているのだろう。大学院時代も幅広くものを見たいと思ったようで、いろいろな領域と接触している。大学院では5年を過ごしたが、それでも足りず本当はもう1年やりたかったという。こちらに来たのも、ものの見方をさらに広げたかったこととアメリカとフランスの違いを肌で感じたかったからだという。哲学や歴史をどのように科学の現場に取り込めばよいのか尋ねてきたので、ここでも書いているようなことをいくつか助言する。そして、彼が今興味を持っている一つに日本人研究者が出した仮説とその評価の問題があるという。しかし、その研究者の名前が出てこない。早速アイフォンで検索したようで、大野乾先生であることがわかった。大野先生はアメリカに長い方で、日本人には珍しく(と言うより、そこから抜け出ていたのかもしれない)いろいろな仮説を発表している存在感のある世界的研究者であった。

その他にもいろいろなことが話題になったが、アメリカとフランスの違いも出ていた。文化の違いに戸惑い、なかなかしっくりきていない様子が見て取れた。わたしの印象はブログで何度も書いている通り、アメリカの思考は功利主義的傾向が強く、目的に向かうために考えるのに対して、フランスのそれは枠組みがないところから考えるようなところがあると話すと、思わぬ反応が返ってきた。それは、大学院生の考え方に限るとした上で、全く逆の印象を持っているというもの。つまり、アメリカの学生の方が広くものを見る傾向があるのに対して、フランスの学生は興味の対象を絞って研究に向かっているという。一つの理由は、彼が博士課程に5年かけたようにアメリカでは時間的な縛りがきつくないのに対して、フランスの場合には3年と決まっているようなのでそうならざるを得ないこと。それからMITの場合にはテクノロジー優先だが、他領域との接触を勧めるところがあるのも大きな理由ではないかとのこと。フランスでは学生の指導者への依存度が強くなり、テーマの自由度も少ないと見ている。かなり特殊なMITをアメリカの代表とすることにも異論はあるだろうが、とのことだったが、、。もちろん、どのレベルを対象にするかによっても両国の特徴は違って見えてくるだろう。興味深い指摘であった。

今回もまず話してみることの大切さを感じる。ただ、このような会話は日本の学会ではなかなか成立しない。しかもこのような年齢の差を越えてであれば尚更である。日本では自分の考えを発表し、相手の考えと向き合うということを自然にやる訓練がされていないからだろう。こんな小さなことも社会の風通しの良さや生活の豊かさと関係してくるように見えるのだが、、。



Dr. Mary Lyon (1925- )


午後のセッションで今年は別の50年記念でもあることを知る。X染色体不活化の機構をイギリスのメアリー・ライアンさんが発表したのが50年前の1961年。そして、その2年前に大野乾先生がこの現象を観察しているのである。こういう何げない繋がりをみつけるだけで満足できるようになっている。現役時代には考えられないことである。




そして、夕方のこと。プログラムの途中に高等教育・研究大臣のヴァレリー・ペクレスさんの挨拶が入った。公務の都合になるのだろうか。挨拶の前にフランソワ・ジャコブさんがゆっくりとした足取りで会場に入ってきた。フランスの大臣の話を聞くのは今回で三度目になる。最初は、生命倫理の会での保健省大臣のロズリン・バシュロー・ナルカンさん。それから世界哲学デーで聞いた国民教育相のリュック・シャテルさん。いずれのお話も感心して聞いていたが、今回も例外ではなかった。

生命倫理とフランス語で暮れる (2010-03-29)
「世界哲学デー」 を発見 (2010-11-18)

ペクレスさんはこちらに来た当時、アメリカ化とも言えるような大学改革を推し進めていて、テレビで見かけたことがある。弁が立ち、押し出しもよく、大学にとっても手強い相手だろうという印象を持った記憶があるが、それ以来だ。4年前の印象では小柄な方かと思っていたが、長身で颯爽としているのに驚く。本当に押し出しがよい。会場の空気が引き締まる。

フランス語で語り始めた冒頭からフランスの医学・生物学の哲学者ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)の引用が入り、少し驚く。暫くの間彼の生物学の哲学について語り、オペロン・モデルの発表は単に分子生物学の幕を開けただけではなく、われわれの生命に対する考え方を変えた哲学的な革命であり、人類の思想史に深い刻印を残すものでもあったと続けた。さらにジャコブさんに向かい、あなたは自らの発見について深く明晰な省察をし、そこから哲学的、倫理的、政治的な意味を見出し指摘した真の哲学者であると称賛の言葉を贈っていた。

途中、フランスの大臣はフランス語で通すことになっているのですが、とほんの少しだけ冗談めかして語った後、英語でも続けていた。これからの課題として、遺伝、遺伝子を超えた機構(エピジェネティックス)、脳すなわち思考、幹細胞、老化、統合生物学などを挙げ、同時に明晰な精神による幅広い思索が人類のために求められることを指摘していた。科学のリズムが変わってきている中、フランスの活力や世界における指導的立場を維持するために研究面での充実を図る決断を数ヶ月前にしたことなどを話してお話は終わった。

今回も日本の政治家からはなかなか出てこないようなお話を聞くことができた。これをどう見ればよいのだろうか。ペクレスさんも忙しい政治家なので、こなしている側面もあるだろう。そうだとしてもそれを支える人の教養の違いになるだけである。思索を刺激することのない当たり障りのない言葉が並べられるだけでは、それでなくても閉塞感が溢れていると言われる国内の空気は淀む一方だろう。正確な言葉、核心を刺激する言葉は世界を拓く力を持っているはずである。言葉ではない、と言ってやり過ごす道もある。しかし、結局のところ、まず言葉を磨くところから始めなければ未来は開けないのではないだろうか。挨拶を聞きながら、そんな自問自答を繰り返していた。

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lundi 23 mai 2011

最後の 「言葉を磨くところから始めよ」 というメッセージについて。
これまで書くことにより、それまで見えなかったことが見えてくることを何度も経験している。これは言語哲学の領域になるのだろうが、存在が確実なものとしてアプリオリにあり、それについて後から言葉で名前を付けるという見方と名付けることによって初めて存在が生れるとする見方があるとすれば、後者の見方を支持しているように見える。つまり、今の段階では言葉で表現しなければ存在は見えてこないと考えているようである。その表現の仕方によっては、全く違う景色が現れてくることをも意味している。言葉によって現実を見ることは、実は創造性溢れる行為であったのだ。そのことを意識しながらこの場で観察を続けることの意味が想像以上に大きいものであることが見えてきた。




mardi 17 mai 2011

オペロン・シンポから文化としての科学を考える

EMBO Workshop on
the Operon Model and Its Impact on Modern Molecular Biology

(May 17-20, 2011; Institut Pasteur)

The review article entitled “Genetic Regulatory Mechanisms in the Synthesis of Proteins“ or in brief the “Operon model” by François Jacob and Jacques Monod was published in the Journal of Molecular Biology on June 1961 (J.Mol.Biol. 3, 318-356, 1961).


上の案内にあるように、オペロン・モデル誕生から50年を記念したシンポジウムが今日からパスツール研究所で始まった。午前中、研究所のビブリオテークで今抱えている課題を進めた後、午後から会に顔を出す。参加者のリストを見ても日本人の名前は見られない。4-5人のノーベル賞学者を含む演者の三分の一くらいは馴染みがあるが、こちらに来てから稀ではない見知らぬ人に囲まれての会になる。今日は歴史的なお話や哲学的なことも交えた発表が中心であった。いくつか興味深い内容があったので、書き留めておきたい。

会には今回の主役の中でただ一人健在なフランソワ・ジャコブさんFrançois Jacob, né le 17 juin 1920 à Nancy)が参加。もう少しで91歳になるが、杖を離さないものの奥ゆかしい洒落っ気があり、お元気だ(上の写真のスライドでは左の方で、ステージ中央で腰掛けている)。司会者が発表の前に英語でやるのか、フランス語かと確かめていたが、フランス語で話していた。抄録集に英語はありますので、美しいフランス語の香りを味わってください、とは司会者の言葉。発表が終わると退席されていた。

最初に挨拶に立った所長のアリス・ドートリーさんは、50年前に発表された研究の内容とその研究がどのような条件の下に生れたのかについて語っていた。ノーベル賞をもらったジャコブ、ジャック・モノー (1910-1976)、アンドレ・ルヴォフ (1902-1994) の御三方とも芸術家で、ジャコブさん、モノーさんは文筆に冴えを見せたのは言うまでもないが、ジャコブさんとルヴォフさんは絵をやり、モノーさんは音楽家になることも考えたほどであった。ジャコブさんとルヴォフさんの作品を紹介していたが、ジャコブさんの1956年の作品は所長室に飾ってあるという。50年後のパスツール研究所の研究者は物乞いをしなければならなくなっているというユーモアなのだろうか。






それから彼らの発見に至る条件ついては、人がある時一つの場所に集まったこと、そのことも含めた偶然、好奇心、研究を愉しむ心、友情、信頼、チームワークなどを挙げていた。そのことを踏まえてか、ドートリーさんは型に嵌めた共同研究ではなく、自然発生的な交流が生れるようにしているようだ。

その次に挨拶に立ったのは、今回の会を後援している EMBO (欧州分子生物学連合)の事務局長を昨年から引き継いだマリア・レプティンさんMaria Leptin)。まず、ジャコブさんに対して、EMBO の設立から関わり、その後も支援を惜しまなかったことを感謝していた。その徹底ぶりについて、昔の資料を示しながら捻りを加えて紹介していた。「自分が会議に出席できない時、他の人は手紙を出すだけでしたが、フランソワは代理を送っていました。その名をモノーという」。こういうセンスは嫌いではない。

また、現代の科学に対する彼女の見方には共振するところがあった。科学とは事実を発見することだけでは終わらない。それをある枠組に入れ直して、そこにある意味を見出す必要があることにはポアンカレの言を待つまでもなく異論はないだろう。モノーは一日に2-3時間は人と話すことをやり、話しては考え、考えては話すことを繰り返していたという。そして、彼女は "night science" の重要性について触れていた。それは、昼間に事実を集めた後、夜にその内容について語り合いながら考えるという営みを意味している。最近ではこれが忘れられているのではないかと語っていた。これはまさにヘーゲルのミネルバのフクロウである。哲学的営みになる。

アラン・バディウさんによる哲学と政治の不可思議な関係 (2011-02-18)

レプティンさんの紹介の時に司会者がこんなことを話していた。聞き間違いでなければ。EMBO の本部の候補地にニースがあがったが、あそこは退職したイギリス人が住むところで若い研究者が行くところではないので止めになったという。そう言えば、ニースにはイギリス人の散歩道もあった。そういう町に見られているのかという思いでこの話を聞いていた。

ニース美術館とマセナ美術館にて
(2011-04-28)

それから面白かったのは、ジャコブさんのアメリカからのグラントでまだ使っていないものがあることが最近分かったというお話。それを元に若手研究者のためのフランソワ・ジャコブ賞を創設したという。賞金は100万程度なので5-6年は続きそうとのことだったが、寄付をする人が出てくれば長く続くことになるのかもしれない。

その他の発表では、Jon Beckwith さんMark Ptashne さんやはり音楽家) のお話に参考になることが含まれていた。今日全体の印象は、歴史や人間を大切にしているということだろうか。こちらではよく浮かんでくる感想になる。歴史や人間を掘り起こしては語り、そこに新しい意味を見出す試みを繰り返し行わなければ科学が文化として根付くことはないのではないか。そんな想いで会場を後にした。

lundi 16 mai 2011

たゆたふ時間の中で


ゆっくりした後の月曜は新鮮に感じる。朝から研究所へ。夕方まで比較的集中した。bnf (フランソワ・ミッテラン) は夜の8時までやっているが、研究所は6時で終わる。これまでは充分過ぎると思っていたが、今日はむしろ時間が足りないと感じる。処理能力が落ちているのか、気力が充実しているのか。いずれにしても、たっぷりとした時間がたゆたふように広がっていないと盛り上がらなくなっている。進捗状況は、まだまだという段階か。

dimanche 15 mai 2011

昨日の雲のように、あるいは出来事に耳を澄ます


今日は昨日の雲のように、ゆったりと留まっていた。
なぜか3・11前に書いた記事が蘇ってきた。

「出来事」 に忠実に、それが人間への道 (2011-02-27)

今日はこんな具合にバディウさん (1937- ) との出遭いを反芻していた。

出来事にははっきり感じるものもあれば、目を凝らさないと見えないものもある。出来事に対した時、ざらざらとした抵抗を感じる。それを一度自分の中に取り込んで、一人になって考え、自分なりに処理しておくことが大切になる。出来事に耳を澄まして他人に任せない、ということになるだろうか。

専門や仕事を持っているとそこに逃げ込み、考えないでやり過ごすことができる。専門以外に関わらないのを良しとするのが専門家でもある。現代人はこの精神構造に気付かないか、気付いてもそれを変えようとしない。さらに言えば、そのような精神的余裕も与えられていない。自らに照らすとよくわかる。しかし、それがわれわれの社会をいつまでも未熟で活力のない脆弱なものにしているのではないだろうか。どれだけ多くの人がそこから抜け出して考えることができるのか。それが社会の安定感や成熟度や生命力を決めるような気がしている。

これは仕事から離れ、囚われのない時間と心が戻ってきた時に初めて見えてきた景色である。わたしにとっての一つの出来事かもしれない。

samedi 14 mai 2011

週末の空


われわれは神ではないので7日に2日は休まなければやっていけない。
やったことを振り返る瞑想が必要になるからだ。
最近、週末の持つ意味が身に沁みて理解できるようになっている。
その上、気分が解放され、豊かな時間を齎してくれる。

昨日は疲れていたので、今日は休みにしようと思っていた。
しかし、目が覚めると意外に元気が戻っている。
バルコンで時間を過ごしているうちに、ビブリオテークへ出る気分になる。
お蔭さまで素晴らしい空と巡り合うことができた。
一つひとつの雲がゆーったりとそこに留まり全く動かない。
仲間とともに話し合いながら和んでいるようだ。
今日は比較的集中できたが、まだまだやらなければ形にならないだろう。


vendredi 13 mai 2011

免疫学・哲学セミナーとヴィム・ヴェンダース監督の Pina



今日は免疫学・哲学シリーズのセミナーへ。講師はブリュッセル自由大学のベルシニさん。彼は免疫学者ではなく、生物の新しい見方を提示したフランシスコ・バレーラさん (1946-2001) の仕事に感化され、バレーラさんがアントニオ・クーティンオさん (1946-) とともに免疫系の解析を始めた時にコンピュータ・サイエンスの方から参加したという。

われわれの世界を内と外に峻別し、免疫系の働きを外に対する内の反応として見る直線的な因果性に基づく見方がある。それに対して、内と外の関係は絶対的なものではなく、時と場所の違いにより両者の関係が変化し得る環状の因果性によるとする考え方もある。この場合、確固たるものとして存在するシステムが外のものを見るだけではなく、システムの状態も反応の決定過程に関与することになる。前者は長い間優勢であった見方になり、最近では後者の見方を示唆する結果が出されている。ベルシニさんも古典的な見方は硬直していて、豊かなものを齎さないと考えている。

彼は人工の免疫系や人工生命の研究にも携わっている。そこでの基本的な考え方は、すべてのモデル(あるいは仮説)は何らかの役割を果たす、というもの。カール・ポパー(1902-1994)という20世紀を代表する科学哲学者は、科学を特徴付けるものとして「反証可能性」 (falsifiability / refutability) という概念を提唱した。大雑把に言えば、それが間違いであるかどうかを証明できないような仮説は科学ではないとするもので、科学哲学を知らない科学者にも知られている有名な概念である。この考えに従うと、モデルはそれが正しいかどうかの試験を受けるために存在しているかに見える。しかし、ベルシニさんたちはもう少しゆったりした見方を採っている。つまり、モデルの存在価値はその成否だけによって決まるのではなく、モデルが生み出すいろいろな領域への影響など、モデルが存在したことにより起こった波紋を見る必要があるのではないか、ということになる。ベルシニさんの考えの底を流れているものは、あまりにも厳密な二律背反的な見方は非常にわかりやすいが、実際には複雑で陰影に富む生命現象の理解を貧しくしているのではないかという思いではないだろうか。



セミナーの始まる前、いつものカフェに寄るためサンジェルマンを通る。
この経路はマスターの時からのもの。
いろいろな気分で渡ったものだ。
この何気ない景色の中に身を置く時、ほんの一瞬の幸福感が訪れる。

セミナーの後はビブリオテークへ。
疲れが溜っているのか、高い太陽の光が降り注いでいるためなのか。
さっぱり集中できないので、いつもより早く出る。
丁度、普段は観る気にならないだろう映画を3Dでやっていたので入ることにした。




ヴィム・ヴェンダース監督の最新作 Pina
ドイツの舞踏家ピナ・バウシュさん (1940-2009) へのオマージュになる。

彼女はヴッパータール舞踊団 (Tanztheater Wuppertal Pina Bausc) を40年近く率いてきた。ここで紹介されている踊りは、彼女の振り付けになるものがほとんどなのだろう。人間の体がこんなにも多様な動きをし得ることに驚く。同時に、その動きにより人間の内面が剥き出しになってくるようにも見える。われわれの体は何かによって常に抑制されていることに気付く。

途中、メンバーが自らを振り返りながら、ピナさんとの関わりを語る。その時、一人ひとりが大写しになる。Le Grand Silence の最後の場面を思い出させる。いろいろな話があったが、ピナさんが語ったという言葉が印象に残った。正確ではないが、こんな内容だった。

「探しているものが何か分からず、それが正しい道かどうかも知らず、ただ探し続けること。それが大切だ」

バルテュス (1908-2001) の 「わたしは常に格闘してきました。それはどうすればよいのかわからなかったからです」 (2007-06-23) という言葉を思い出す。そして、映画の最後は "Dance, dance... otherwise we are lost." だった。ダンスを他のものに置き換えると、それぞれの人生に対する言葉になるかもしれない。団員にはAzusa Seyama という日本人舞踏家がいた。予告編で逞しい女性を踊っている方だろうか。音楽も素晴らしく、予想以上に楽しむことができた。


jeudi 12 mai 2011

ガタがくる一方、軽快さは成長中


昨夜のこと。
食事中にことっと音がして日本で詰めたものが落ちた。
どんどんガタがきている。
早速、今朝歯科に電話して予約する。
先日触れた軽快さがある。

来月の学会準備のため、朝から研究所へ。
そのつもりだったが、書架にあった雑誌に目が行き、そちらに集中。
何に反応するのか、全く油断も隙もあったものではない。
まあ、いずれ役に立つだろう、と思いそのまま続けた。

それから歯科に向かったが予想より早く着く。
いつものリブレリーへ。
店員さんと一言二言交わす。
やはり軽快だ。
そこで何冊かに手が伸びた。
その中にクロード・レヴィ・ストロースさんの日本がある。
L'autre face de la lune : Ecrits sur le Japon (Claude Lévi-Strauss)

今回の震災が起こった直後にこちらで会があった。
" Spécial Solidarité Japon " にて (2011-03-23)
そこでジャック・アタリさんが語った言葉が印象に残っていたためだろう。
その言葉とは、日本文化の持つ感受性は世界にとって大切である、というもの。
彼らは日本文化に何を見ているのだろうか。
そんな疑問がその時に生れていたようだ。
診察後、近くのカフェでストロースさんの見方に耳を傾ける。
何の衒いもなく語っていて、興味が尽きない。
いずれ触れることがあるかもしれない。

帰りのメトロで鼻をかむためポケットからティッシュを出す。
そして鼻をかもうと思った瞬間、驚いて本当に一歩下がる。
抜け落ちた詰めものを持って行ったことを忘れていたのだ。
ガタがきているのは目に見えるところだけではなさそうだ。

mercredi 11 mai 2011

主客渾然、全体読書


Festival de Cannes
11-22 mai 2011


今日も読むために出掛ける。
メトロの中で読んだ本が面白くなり、まずカフェで2時間ほど過ごす。
それから徐にビブリオテークへ。
科学論文の場合にはどこか遠くに身を置いて対象を眺め、淡々と読み進む。
主体と客体が峻別されているとでも言えばよいのだろうか。
それで長年やって来た。
ところが哲学論文になると状況が一変する。
主体がそこに深く関わってきて、主客の境界がぼやけ渾然一体になる。
時に一つのパラグラフだけで長い時間を過ごすこともある。
研究者というより、人間全体を使いたいという気持ちがあるようだ。
今日は20ページ程度の英語論文に4時間ほど浸っていた。
わたしにとっては贅沢な時間だが、エネルギーを消耗する。
こんな状態で大丈夫だろうか。


mardi 10 mai 2011

少し軽快になってきたような


昨日は研究所で新しい本を読み始め、今日は久しぶりに大学のビブリオテークへ。どうしても読みたい哲学論文がいくつかあったためだ。購読者以外は論文1編が30-40ユーロもするので仕方がない。1階の受付と3階の受付の方に様子を聞いてから席につく。これまで文系の論文はネット上にあるのもの以外は諦めていたのだろうか。ここで論文を取ったのは初めてのような気がする。ここは学部学生がほとんど。若い人の身のこなしは予想もつかず、ひそひそ話も聞こえるのでこれまで敬遠していたのかもしれない。しかし今回、それはそれで面白い空間ではないか、と感じる。

朝のメトロ。重そうなスーツケースを持ち、喘ぎながら階段を上っているご婦人がいたので、声を掛ける。" Je peux vous aider ? " (何かいたしましょうか?)。こちらを向いてお願いしますという仕種を見せたので上まで持って行く。メルシと聞えたような気がした。それにしても、こんな言葉を発したのは初めてではないだろうか。これも4月以降、言葉がこの身と一体になり自然に出るようになっている証だろう。正しいフランス語かどうかは別にして、精神的に抵抗なく言葉を発することができるようになっている。それまでは頭の中が日本で体だけこちら、という状況だったが、その頭の重しが取れたためだろうか。変な臨場感があり、言葉を発する時に軽快さが生れている。

出掛ける前、冷や汗をかく。なぜかお腹が下るという現象が起こったのだ。しかも今週は配管工事で水道が日中止まっている。まさに一刻を争う状態。いろいろなオプションを考えたが、とにかく外に出て最初に現れたカフェに飛び込むことにした。そして、予想していなかったカフェが現れたので怪訝そうなマダムをよそに直行。間一髪で間に合った。その後のカフェでの読みは短い時間だったが、すっきりしたものになった。本当に何が起こるかわからない。


lundi 9 mai 2011

オディロン・ルドンの世界に浸る



素晴らしい日が続いている。夏の気配を感じながら、オディロン・ルドン (1840-1916) の展覧会へ。久しぶりのグラン・パレだ。会場は落ち着いた雰囲気で、結構人が入っている。いくつか発見があった。

一つは、最初は有名な黒のリトグラフの世界が続くが、おそらく60歳を迎えるあたりから急に色彩豊かになったこと。これは全く知らなかった世界になる。彼の人生を見渡すと、二つの異なる人生を歩んでいたように見える。活動的な若き日は夢や想像から生れた黒を基調にした抽象の世界、精神・観念の世界にどっぷりと浸かっていた。それが還暦を迎えるあたりから総天然色で具象の世界を描く健康なものに変わってきたことがわかる。その時期の彼の言葉は、色と結婚したのでもう元には戻れないというもの。ドムシー城 (Château de Domecy) の食堂の装飾画などは生命の躍動さえ感じる明るさがあり、素晴らしい。他にも初めての絵が次から次に現れ、気分が高揚するのを感じていた。

もう一つ挙げるとすれば、彼が文章家だったことだろうか。他人の精神に働きかけるのが本質である文章を書くという作業は、人間が成し得る最も高貴で、最も繊細なことであると彼は考えていた。ボルドーでの少年時代は臆病で社交性に乏しく、リセに入ると勉強から遠ざかり芸術にのめり込んでいった。作家を目指していた可能性もあり、書く作業は一生を通じて続けていたという。会場にはいくつか印象に残る言葉があった。





「父が私によく言ったものです。『この雲をごらん。変化する形をわたしのように見分けられるか』。そして、父は変わりやすい空に不思議で妄想を呼び起こす奇怪なものが現れるのをわたしに見せてくれたのです」

「すべては無意識の世界に素直に従うことによって生れます」

「わたしはわたし自身に従って芸術をやってきました。目に見える世界の素晴らしさに心の目を開いて、自然界と生命の法則に従うという配慮を常にしながらやってきました。また、わたしを美の崇拝へと導いてくれた何人かの師への愛を持ちながら芸術をやってきたのです」

また、次男の Arï Redon さん(長男は半年で亡くなっている)の言葉から、晩年の日常が浮かび上がってきた。

「ビエーブル(Bièvres)では、父は朝早く起き、公園の奥でお気に入りの作家のパスカルやモンテーニュ、アンドレ・シュアレス(André Suarès)、レミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont)などを少し読んでから一日を始めるのが気に入っていました。その間、母は父のモデルである大きな花瓶の準備を細心の注意と愛情を以ってやっていました」




À soi-même: Journal, 1867-1915 : notes sur la vie, l'art et les artistes
Nouvelles et contes fantastiques
Baudelaire, Poe, Mallarmé, Flaubert : Interprétations par Odilon Redon

会場を出てブティックに入ると、上の本が目に付いた。作家としてのルドンに興味が湧いたのだろう。この中から真ん中の一冊を手に入れ、公園に出てその世界に浸っていた。


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mardi 7 juin 2011

この展覧会については3月24日のル・モンドで読んでいたことを思い出した。
研究所のビブリオテークにて。






dimanche 8 mai 2011

10年前のクロアチアへタイムスリップ



日本のファイルを見直している時、懐かしいホームページが現れた。2001年7月、クロアチアはリエカ訪問の記録である。こんなものが出てこようとは・・・。一昔前の時間が一気に蘇る。当時もその昔にタイムスリップしたかのような気分に襲われていたのだ。この機会に再びのタイムスリップをすることにした。これも谷口ジロー繋がりだろうか。

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Visit to the University of Rijeka Medical School (Rijeka, Croatia)
July, 2001



EMBO 会議 (ドイツ、マールブルグ) と国際免疫学会 (スウェーデン、ストックホルム) の間が1週間空いたので、クロアチアのリエカ大学とパリのパスツール研究所を訪れた。今回、クロアチア訪問が強い印象を残したので、簡単に振り返ってみたい。

以前から共同研究していたシニシャ・ボラレビッチ (Sinisa Volarevic) 博士がスイスの Friedrich-Miecher 研究所から今年の初めにリエカに帰ったので、彼の新しい研究室とクロアチアを見るために訪問することに決めた。ドイツからイタリアのトリエステ近郊の空港に着くと彼が車で迎えに来てくれていた。イタリア国境を出て一時スロベニアを横切り、そこからクロアチアに入った。約2時間のドライブであったが、子供の頃に見たことのあるような景色が広がり懐かしさを誘った。また、以前には気付かなかったことであるが、彼の身振りや話し振りに接していると、6-7歳でクロアチアを後にしたという Josi Schlessinger 博士を髣髴とさせるものがあり、不思議な親しみと繋がりを感じた。

その夜、医学部長の Stipan Jonjic 博士とともにクロアチアの典型的なレストランで食事をした。Jonjic 博士はドイツの Ulrich Koszinowski 博士 (現ミュンヘン大学)のもとでポスドクをやられた方で、現在でも密に連絡をとっているとのことであった。事実、この翌日の午前3時にリエカを出て、車でミュンヘンまで行き共同研究の打ち合わせをするというエネルギッシュな方であった。また、リエカ大学をアメリカや西欧のレベルまで引き上げるべく、システムの改革にも意欲を燃やしている。


From left: Dr. Stipan Jonjic and Dr. Sinisa Volarevic


翌日、リエカ市内にある大学医学部に向かった。全体的にゆったりとしたつくりで、研究室は大部分が一昔前の日本の大学の研究室といった雰囲気を醸し出していた。折りしも、当日とその前日は大学入試が行われていた。以前は8倍もの倍率であったが、最近では1.2倍くらいに希望者が激減しているという。医学部を卒業しても就職先が見つからないようだ。 また研究面でも、国内の研究費はそれほど潤沢ではないので、国際的なヨーロッパの研究費にも応募するようである。



Dr. Sinisa Volarevic with his staff Sanda Sulic
(in front of the Medical School Main Building)




Students waiting for the entrance examination

Jonjic 博士は、大学の研究システムを新しくし、若い人材を導入するようにしており、シニシャもその流れで10年ぶりに祖国に帰ることができた。その前には米国NIH、ドイツ、スイスで研究生活を送っている。彼が主宰する新しい部門は分子医学とバイオテクノロジーを専門とするもので、そのためにビルディングを1つ与えられていた。また、その横には動物施設棟があり、これから実験室や共同研究体制をセットアップしようとするところであった。



Dr. Sinisa Volarevic 
(Molecular Medicine & Biotechnology Building)



Animal Building



One of his lab spaces

研究室のスタッフは、入ったばかりの院生2名と秘書兼実験助手1名の計3名で、仕事をこれからスタートさせるべく準備中であった。



Sinisa's lab members
From left: Miljana, Sanda, and Linda

シニシャは私のためにセミナーをセットしてくれていた。教室に入って驚いたことは、女性の研究者、学生がほぼ90%を占めているということであった。途中に質問も沢山出され、他では味わうことのできない和やかな雰囲気の中で話を進めることができた。



Before the seminar
July 13, 2001

セミナーの後、大学で免疫、生化学関係の仕事をしている研究者と話をする機会があった。その中に、私の訪問が日本人としては初めてではないかと指摘してくれた生化学の Jadranka Varljen 博士やドイツの Klaus Rajewsky 博士 (現ハーバード大学) のところでポスドクを終え、帰ったばかりの Bojan Polić 博士などがいた。5時過ぎから研究室のメンバーとロヴラン (Lovran) にあるアドリア海に面したレストランに出かけ、そこでゆったりとした夕食をとった後、 ヨットハーバーのカフェで夕闇が迫る10時半くらいまで止め処ない語らいに時を忘れた。リエカは川崎市の姉妹都市で、数年前に川崎市の中学生の交流があり Sanda のファミリーが受け入れたことがあり、今年の夏にはリエカの学生が川崎を訪れることになっているという。クロアチア人の気質として、お金は貯めるよりは人生を楽しむために使う傾向があるとのこと。何か先を心配するようなことを私が言うと、Linda からは "Don't worry" という言葉がいつも返ってきた。日本が遥か遠くに感じられた時間であった。



Biochemistry Professor Jadranka Varljen



Linda and Sanda



A street of Rijeka

クロアチアではリエカから車で20分くらいのところにある観光地オパティヤOpatija) のホテルに滞在した。日本ではほとんど知られていないが、クロアチア国内はもとより、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ポーランドなどの近隣の国から多くの人が訪れていて、活気のあるところだった。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフが別荘をこの地に持っていたとのことで、海岸線に沿って20kmに及ぶ散歩道が建設され、なかなか気持ちのよい散策ができた。機会があれば、また訪れてみたい町となった。


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dimanche 8 mai 2011, 12:34

10年前の記事がそのままこのブログにあるのを見ても全く違和感のないことに気付く。ブログを始めたのは6年前の春のこと。ホームページの記事はその4年前になる。それ以前にはこのような雰囲気のページはなかったような気がする。そう言えば、この記事の数ヶ月前にフランス語に出遭っていた。単なる偶然だろうか。


lundi 9 mai 2011, 08:45

もう一つ気付いたのは、文体が全く変っていないことである。一体、その人の文体はいつ頃でき上がるのだろうか。文体を変えるというのは意識してやらないと相当に難しそうである。そもそも可能なのだろうか。