昨日、一昨日と薄曇りだったが、本日は快晴。前日その前を通った時、近くの年寄り連中が集まり元気よく話し込んでいる雰囲気のあるモーツアルト・カフェに入る。今日はシャガールとマティスの美術館を目指すことにした。地図ではわからなかったが、緩やかな上り坂がどこまでも続く。シャガール美術館は後ろ手から入ったせいか、なかなか正面が見えてこない。入口に着いた時、火曜は休館であることを知る。いやな予感を抱えながら、マティス美術館へとさらに上る。結構歩いたつもりだったが20分程度だろうか。汗びっしょりになり美術館のある敷地に辿り着いた。
入ると
マイルス・デイヴィスの道(Allée Miles Davis)があり、嬉しくなる。さらに、
ルイ・アームストロング(1901-1971)の胸像や
ディジー・ガレスピー(1917-1993)、
デューク・エリントン(1899-1974)、バーニー・ウィレン(
Barney Wilen; 1937, Nice-1996, Paris)の道もある。後年、ジャズをテーマに作品を作っているマティスに相応しい計らいだ。奥には
修道院と庭園があり、暫しの時間を過ごす。それから美術館に向かったが、やはり火曜はお休み。パリは月曜が休みだったので、確かめることなくそう決めてかかっていた。このすぐ横にはローマ時代の遺跡もある
考古学博物館がある。明日のお楽しみにとっておきたい。単に安上がりだけの理由だったが、明日の最終便で帰ることにしたのは正解であった。
公園を歩いていると彼らに出会った。
何の気負いもなく、囁くように歌い始める。
まるで自分に向かって歌っているかのように。
決して声を張り上げない。
彼らは一体何のためにやっているのだろうか。
どういう関係なのだろうか。
帰りは下りなので気分は楽である。上りとは違う道で下りる。途中この眺めのプレスとカフェが一緒になった小さな店に入る。久しぶりにシガーをやりたくなった。そういう気分にさせるゆったり感がある。親爺さんにここはシミエ(
Cimiez)ですか、と聞くと、この辺りはローマ時代からの土地で、上には博物館もあると教えてくれる。2千年の時間がその辺りに横たわっているようで、気分が大きくなる。シガーの終わる1時間ほど休んで街に下りたが、そこにあった近代・現代美術館(
MAMAC)ももちろんお休み。日陰に入ってドイツビールで喉を潤す。そこはニーチェのアパートのある道の入り口に当たるが、店の人は一人もニーチェのことは知らなかった。ホテルでも聞いてみたが、この町に長く暮したマティスとは違い、ニーチェの名前には反応しなかった。哲学軽視の現代の反映なのだろうか。
ところで、「
ニースのニーチェ」 にはまだ驚きが隠されていた。一つはニーチェにとっての驚きで、何げなく本をめくっている時、それまで名前だけだったドストエフスキーがそれまでのスタンダールのような、あるいは父親のような存在として突然意味を以って彼の前に現れたことである。それからはわたしにとっても驚きだったのは、1887年2月23日(
灰の水曜日)の朝6時、フランスの大地が大きく揺れたことである。町の中心街は寝ぼけ眼で飛び出した下着姿の男女、泣き叫ぶ子供、茫然自失の老人などで溢れる。ニーチェのいたところから僅か数キロ離れたところにはこの地を訪問していた作家がいて、驚いて飛び起きた。作家の名は
モーパッサン(1850-1893)。地面が揺れ、建物の出す奇怪な音に激しい
ミストラルの音を重ねている。
昨年末アヴィニョンで経験しているので、その感じがよくわかる。2000人ほどの犠牲者が出たとも言われているが、ニースでは少なかったようだ。モーパッサンは書いている。
「この奇妙な現象はわれわれの中に特別な感情を残したようだ。事故に遭った時の恐怖とも違う、人間が不安定で無力な存在であるという痛いほどの感覚である。戦争に対しては武力があり、病気に対しては有効かどうかは別にして医者がいる。しかし、地震に対しては手の施しようがないのだ。理屈よりは事実そのものによりこの確信が生れるのである」
このような時に大切なのは、言うまでもなく家と寝るところである。自分の家に戻れないことは、人間を著しく傷つけ、新たな予想もしない不安に陥れるものである。ニーチェが 「
ツァラツストラ」 を書いた場所は完全に破壊されたという。