vendredi 31 janvier 2014

久し振りのパリの空、そして寝る前の本の意外な効果


今朝、久し振りにバルコンに出る
 
やっと求めていたパリの空が戻ってきてくれた

一月振りくらいではないだろうか

ということは、もう最初の月が終わるということ

去年よりは少しだけゆっくり時が流れている感じがする


昨夜、寝る前に本業とは関係のない本を読んでいた

今朝、それが本業と絡み合い、ぼんやりとした塊になった状態で目が覚めた

以前から、寝る前に読む本には意外な効果があるのではないかという感触を持っていた

それを裏付ける目覚めであった

早速、その塊を解き解したところである

新しい姿になるにはまだまだ練り直しが必要だが、少しだけ気分が高揚してきた

これも久し振りのことだ




mercredi 29 janvier 2014

少し落ち着き過ぎでは?


今日も相変わらずの曇り時々雨である

この時期はこんな空模様だっただろうか

コルシカの空が懐かしい


最近、確かに落ち着いた心境になりつつある

5年に亘る飛行から着陸に向かうのに1年、着陸してから落ち着くまでに1年を要したことになる

そうなったらなったで、どこか物足りなさを感じるから不思議だ

あのカオスの中にどっぷり浸かりながら飛んでいた時の方が、心躍るところがあったように見えるからだ

人の心は扱い難い




mardi 28 janvier 2014

2カ月遅れで工事終了


昨年の11月で終わるはずのアパルトマンの外装工事がやっと終わりを迎えた

2カ月の遅れだが、ここはフランス

大きな驚きはない

11月にマンハッタンで見た工事現場を思い出せば、その活気は全く違った

しかし、どうだろう

我が仕事振りに比ぶれば、彼らの仕事は称賛に値するのではないか


いずれにせよ、やっと外に人の気配を感じることなく、障害物なしで空を眺めることができるようになった

問題は、今年に入って快晴となった日を覚えていないくらい曇りと雨が続き、終わりそうにないことだ






mercredi 22 janvier 2014

エヴァ・ヤブロンカさんのセミナーを聴く

Prof. Eva Jablonka (Tel Aviv University)


昨日は夜の8時半から始まるエヴァ・ヤブロンカさんのセミナーを聴くため大学へ向かう

もう4年半ほど前になる

イスラエルで開かれたラマルクとイギリスのケンブリッジであったダーウィンに関する会でお会いした

そのことを今年最初のエッセイに書いたところだったので、何というタイミングかという思いで案内を受け取った

「後世はラマルクの復讐をしたのか、そして初めてのイスラエル」
医学のあゆみ (2014.1.11) 248: 174-178, 2014

興味をお持ちの方はご一読、ご批判いただければ幸いである


セミナーのタイトルは、「文化の生物学」

最近、エピジェネティクスというDNAの断片(所謂、遺伝子)に因らない遺伝が話題になっている

お話は、生物学に始まり、同様のことが文化の伝承においても起こっているという流れであった

彼女と共同研究者のマリオン・ラム博士による先駆的な著作 Four Dimensions in Evolution (MIT Press)に詳しい

タイトルにある4次元とは、遺伝子、細胞、行動、文化のレベルを指している

昔から 'nature or nurture' と言われ、われわれの今を決めているのは遺伝子か環境かという問いがある

日本でも 「氏か育ちか」という言葉があるが、これまでの生物学ではすべて氏が決めているとされてきた

しかし、育ちも無視できないという成果が出始めている

一卵性双生児でも時間が経つと、外からわかる変化があることは観察されていた

さらに、両者の差異は細胞内でも観察されることが明らかになってきた

エヴァさんは、このエピジェネティクスを文化のレベルにまで広げようとしている

どんな環境にいるのか、どんな人と出会うのかで脳の構造が変わる

教育における含みも大きく、われわれをオプティミスティックにしてくれる

逆の見方をすれば、劣悪な環境にいる人たちの状況が将来どのような結果を齎すのかにも思いが至る

実際、そのような例が第二次大戦中にナチに占領されたオランダの飢餓状態で見られた

その状態を経験した母親から生まれた子は、後に統合失調症になる頻度が高かったという

 母親のいた環境が子供に影響を与えていることを示唆する結果である


これまで精子や卵子は代を超えてDNAを運ぶものだと考えられてきた

しかし、上の結果は生殖細胞にはDNAの他に環境から受けた情報も含まれていなければならないことを示唆している

どのようなメカニズムで起こっているのかは明らかではないが、その昔葬り去られたパンゲン説を彷彿とさせる

体細胞が受け取った情報がジェミュールという粒子に蓄積され、それが生殖細胞に運ばれる

ラマルクが19世紀初めに提唱した獲得形質の遺伝のメカニズムを説明する説とも言える

ダーウィンが1868年に提唱した考えである

こちらについても一昨年のエッセイで触れている

ダーウィンのパンゲン説,あるいは科学が求める説明
医学のあゆみ 243 (10): 929-933, 2012
 
 歴史の畝りが見えるようだ


ところで、このセミナーは英語で行われた

しかし、スライドは世話人(写真左)が作り直したフランス語版になっていた

エヴァさんの横で自分のパソコンからスライドを進めていた

 ディスカッションも会場からの「フランス語で!」という声で、フランス語で行われた

ある意味では、演者そっちのけで議論が進むことになる

このようなことは日本では考えられないだろう

 丁重で柔らかな雰囲気の中で進むのだが、そこに文化的な誇りのようなものを見るのは感じ過ぎだろうか

さらに言えば、英語しか受け付けないというもう一方のアロガンスに繋がるようにも見える


ディスカッションが長くなりそうだったので、11時前に失礼した

ところが、外に繋がる扉がすべて閉まっている

しばらく歩き回っているとガードマンと思しき人の影が見えた

近寄って出口を訊くと、これまでどこにいたのかという

厳しい警備だが、この程度は当たり前なのだろう

その問いに答えて、無事外に出ることができた




samedi 18 janvier 2014

ドイツの百科全書派 ヨハン・セバスティャン・バッハ


昨夜、15年ほど前に買った本が目に入ってきた

ヴェルナー・フェーリクス著 『バッハ: 作品と生涯』 (講談社学術文庫、1999)

丁度、ヤノーシュ・シュタルケル(1924-2013)の無伴奏チェロ組曲を聴いているところだった

ぱらぱらとやっていると、「百科全書的志向」 という章が目に付き、その中に入る


啓蒙思想の18世紀

そこでは、百科全書的志向に根ざす人生態度や社会的営みが際立つ意義を持っていた

自己と世界の本質についての開化、知性の開発、理性の行使による知識の普及

そこに、自分の責任で招いた未成熟の迷蒙状態からの脱却を実現する道を見出そうとするものであった

啓蒙思想のルーツは、ルネサンスの人文主義と宗教改革、そして17世紀の理性主義、デカルトとスピノザの哲学であった

それは、知性の力であるラツィオ(ratio)の鍛錬と行使により、哲学体系の構築を目指す哲学である


ヨハン・セバスティャン・バッハ(1685-1750)は、理論的な著作や教科書は書いていない

ただ、彼は自分にとって重要な知識や情報を吸収する意欲と勤勉さを失うことはなかった

音楽についてのあらゆる面をマスターし、作曲に当たってはそのすべての領域を渉猟し、探索した

絶えず新しいジャンルを自家薬籠中のものとし、新境地の開拓に進む

一見相容れない形式を結合し、統合するやり方も思いつきなどではなく、一つのプランを追求した成果であった

ありとあらゆる可能性を探求、実験、動員して、新しい質が見つかるまで刻苦勉励したのである


普遍的な音楽が開花した背景には、ルター派の信仰、キリスト教的エートス、市民社会的思考の融合があった

宗教への帰依と啓蒙主義的世界観とは強く結びつき、両者が対立することはなかった

プロテスタント信徒は、 ラツィオ(ratio)とレリギオ(religio)、理と信をともに重視し、結びつけていた

個人の良心の問題と新しい知の開拓に向けての留まるところを知らない意欲がバッハの中でも結びついていた

ただ、バッハの中には哲学的な素養はなかったという

彼は感じたすべてを音楽の言葉として表現したのである






jeudi 16 janvier 2014

この心境、本物か


2014年に入り、2週間

大きな心の変化が見える

新しい分野に入り、6年余りの受容一筋の生活

それが余りにも快適で、そこから抜け出るのは不可能だった

しかし、今年は少し違うようだ

これまでの蓄積から私なりに何が言えるのか

それを新しい分野の中で問い掛けてみたい

そんな積極的な気持ちが見える

これまであれだけ苦労してそこに入りたいと思っていた心境である

この心境、本物だろうか





dimanche 12 janvier 2014

連載エッセイ第12回 「初めて知る 『世界哲学デー』 で哲学教育を考える」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第12回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde » 


医学のあゆみ(2013.1.12) 244 (2): 196-199, 2013


 ご一読、ご批判いただければ幸いです







jeudi 9 janvier 2014

過去を掘り起し、味わい直す時に巡る想い


7年目に入り、「いま・ここ」 にあるものに対する意欲が少なくなり、振り返る余裕が出ている

動き回り、目に触れるものをとにかく取り入れたいという欲求が少なくなっているのがわかる

謂わば、すべてが日常に落ち着き始めているということになるのだろうか

この機会に、2008年からのメモを読み直し、具体的に掘り起こす作業を始めることにした

これまではそんな余裕はなく、吸収に忙しかったことになる


これまでの6年余りの時間を味わい直す試み

ひょっとすると、それに要する時間は実際の時間と同じくらいになるのかもしれない

しかし、それは 「いま・ここ」 を追い求め続けた場合と同じかそれ以上のものを齎してくれそうな予感がする

それにしても、これまでの時間を意識的に振り返る時、想像以上の時が経過していることに驚く

普段の意識では、時の流れは全く感じないのだが、、、




もう4年ほど前に前ブログで取り上げた歌がある

ちあきなおみ 「祭りの花を買いに行く」 (2010-02-11)

今回、作者友川カズキ氏の歌を聴いてみた

あっさりしていて、拍子抜けする





vendredi 3 janvier 2014

パスカル・パオリとともにパリに戻る


行きが嘘のような静かな飛行を終え、パリに戻った

すでに素晴らしい景色と親しみやすい人々を懐かしく思い出している


ボニファシオからフィガリ空港までのタクシーの中、運転手が日本人か?と声を掛けてきた

 そうだと答えると、パリに住んでいてボニファシオに家を持っているバイオリニストを教えてくれた

そう言えば、前日もボニファシオに住む日本人パティシエを知っているという人がいた

この町にも日本人が暮らしている

よく考えれば不思議でもない話だが、少し驚いていた


 それから、パスカル・パオリ(Pascal Paoli, 1725-1807)を知っているか、と訊いてきた

その音はどこかで聞いたことがあるが、すぐに出てこない

そう答えると、コルシカの独立運動の指導者パスカル・パオリと民主主義を熱く語り始めた

こちらを見ながらなので、危なくて仕様がない


そして、景色の良いところに来ると、降りてこの景色を味わおうと言う

おまけに、客の記念写真まで撮ってくれる

もう一度来るとしたら、どこがお勧めか訊いてみた

アジャクシオは都会過ぎるので、お勧めはパオリ時代のコルシカの首都ポルテだという

山の中で、コルシカ大学がそこにあるらしい


空港に着くと、付いて来いと言って空港内の店に入る

何をするのかと思ったところ、パオリと独立運動の本をプレゼントしたいというのだ

残念ながらその本はなかったが、熱い人だった


帰ってからパオリについて調べてみた

やはり、すでに聞いた名前であった

もう6年半前になるが、前ブログで取り上げていたのだ

その時の世界が開けたような感じが蘇ってきた

それだけではなく、コルシカ大学の学生にフランス語を習っていたことも思い出した

そこからパスカル・パオリに繋がっていたのである

Les fantômes de Goya ― Pascal Paoli ― Ulrich Mühe (2007-07-27)

全く初めての島ではなかったことになる










mercredi 1 janvier 2014

2014年元旦の想い



2014年が明けた

新年最初の仕事は、エッセイの仕上げであった

対象をできるだけ広い視界の中に置き直して考えてみる

それがうまく行くのが、なぜかこちらのカフェである

あるいは、こちらのカフェでその感覚が芽生えてきたとも言える

元旦から開けている奇特なカフェでの初仕事であった
 

その様子を例えると、こうなるだろう

手におもちゃ箱を持っている

それをひっくり返すと、おもちゃは床に散らばる

その様子をフィルムに収め、それを逆回しにする

そのあたりに散らばっていたものが一瞬にして一つのところに収まる

それが「こと」が纏まる最後の瞬間になる

この瞬間を味わうために毎月を過ごしていると言えば大袈裟だろうか


この譬えは、前ブログでも使ったことがある

その時は、望ましい人生最後の瞬間をイメージしたのではなかったかと思う

この世界を理解するためには、上で言うおもちゃをできるだけ沢山持っていることが大切になる

それを安易に纏めることなく、そのあたりに散らかったままにしておく

そして、最後の最後にそれらのすべてを掻き集める

そんなイメージであった


一晩寝て新しい年になったからと言って、特別の期待はない

今年もこれまで通り僅かばかりの悩みを抱えながら歩むことになるのだろう

一仕事終わった後、お気に入りの場所になった入り江を散策

平穏な元旦の昼下がりである